16

 冷たい空気に目を覚ます。


 身体中にひきつれめいた鋭い痛みが走って思わず顔をしかめる。


 霞んで滲んだ視界がやがて像を結ぶと冷たい岩肌がぐるぐると回る視界で迫ってきた。


 思いっきりまぶたを閉じて一秒、二秒、三秒と数えていくうちに眉間や後頭部で渦巻いていた不快加減も和らいでいった。


 このまま眠ってしまい欲求を振り切って目をうっすらとあけると自分をじいっと見下ろす何かの生き物――。


「ッ!」


 喉の奥から変な声が漏れそうになるのを我慢してハルは目を見開いた。


 そうして今度こそ悲鳴を上げた。声に出なかったのは声帯が機能を一時忘却していたからだろう。


 透き通った灰色の瞳がくっつきそうな程に近寄っていた。瞳に映る自分がくっきりと見える。薄汚れた頬や痣。そして


「レ、レイ……ちゃん」


 レーヤダーナ・エリスがハルに伸し掛かって見下ろしていた。


 見られていると相変わらずぞっとする。今は痩せこけて気味の悪い面が強いがそれが治ってしまえば非人間性を強めた造作が表に出てくるだろう。整いすぎてて人間のように思えないのだ。


「お、お怪我はありませんか」


 言葉の意味を咀嚼するように少しだけ首を傾げ、じぃっとハルを見続ける。ゆっくりと時間をかけて言葉の意味が馴染んだところで小さく首を縦に振って頷いた。


 レーヤダーナを抱き上げる。重さなんてあってないような重み。あまりに軽すぎてどきりとする。


 薄い肉と骨の感触。生きてきた背景にいい想像は出来なかった。


 なにせ両目に両耳、唇、そして両手両足を縫い合わされてそれでも生きているということ自体が脅威に値する。それでいて落とし子でない。それはやはり神さまの子と言うしかない。


 そして今は喉を焼かれ満足に話すことすら出来ない。自分がそんな目にあったとしたらどう思うか。やはり時を戻してやり直したいと願うのか。


 そもそもにレイちゃんにはそんな概念はないのでしょうけど。


 この子にはまだ人が当たり前に持つ悔悟や後悔、過去に後ろ髪を引かれるという心がないのだろうから。


 ハルは心臓の鼓動が落ち着くのを見計らってゆっくりと身体を起こして辺りを見渡す。


 石牢。


 そうとしか言いようのない小さな部屋だった。分厚い岩肌。錆びた鉄の格子。壁際にはおそらく閉じ込められた人間を繋いでおくための鎖が垂れさがっている。


 そうでありながら奇妙に調度は整えられている。自分が寝ていたベッド。私物をしまっておくための棚。棚の上には小さな鏡。


 この状況は一体どうなっているのか。


 白の祈りの連中に捕まったんだろうと予想する。無事であるのは自分が白の魔女を封印した血筋の裔だからという理由が大きいか。


 黒煌石が手元にない。それも取られてしまったのか。


 手元にあったとしても今はもう手放した方がいいんじゃないかと考えている。母には申し訳ないけれど仮に、白の魔女が他に誰も呼び出せないと分かれば遠い海の底に沈めてしまっても構わないとすら思っている。


 思い切って手放さなくては叶わない願いを抱き続けてずっと引きずられそう。


 そうだ。叶わかもしれない。そう考えている自分がいるのが怖い。


 母から伝えられた白の魔女を呼ぶ言葉。自分の子を除けば誰にも伝えてはいけないと言われた魔法の言葉。その結果は、ああだったわけだが九死に一生を得たのは間違いない。


 白の魔女。そして時女神。


 あれは、この世にあってはいけないものだと理解している。条理を捻じ曲げて自分の望みを顕現させる。時を止め、時を進ませ、あるいは時を戻したりも。


 


 レーヤダーナを怪我しないようにぎゅっと抱きしめた。


 小さな身体。膝まで届きそうな長い灰色の髪。触れれば折れてしまいそうな手足。風が吹けば飛ばされてしまいそうな重み。ゆったりとした挙措。妖精か精霊の魂を人の形に詰め込んだらこんな風になるかもしれない。薄汚れてさえいても幽遠さに欠けはなかった。


 だけど子どもだった。


 今はこの冷たい温もりが、ハルを現実に繋ぎとめる重みだった。


「目が覚めたか」


 しわがれた声。覚えている。白の祈りの連中。それをまとめている老人だ。相変わらず白い外套に白い肌。そして、異様な熱を湛えた瞳の光。


「なんの御用ですか」


 返す言葉は尖って冷たい。自分たちをこんな目に遭わせているのだから当然だが。知らずにレイを抱きしめる腕に力が入る。


「まだ我らの言葉を聞く気にはなれないか。悪食に聞けば貴様、白の魔女を、その影とは言え呼び出したようではないか。その魔女の才、己の為に使ってみようとは思わないのか」


「どういう意味ですか」


「知れたこと。過去を変えようとは思わないのか。失われた物を取り戻したいとは思わないのか」


 予想していたこと。彼らが何を願っているのかは朧げに把握していた。時間を操る魔女に願うなんて手垢に塗れているけれどその程度しかない。その程度と思われるぐらいには定番で、定番だからこそ芯を外しはしない。求めたのなら叶うまで求め続ける。


 予想していたのに、心がぐらついた。


 もしかしたら、もしかしてと心のどこかで願いつつも決して叶わないと諦めていた願い。けれど白の魔女の影を見た時に揺らいでしまった。望みが叶えられるのではないかと。


 誤った選択肢を選んだ先の未来が今であるのなら、誤らなかった選択肢を選んだ未来はどのようになっているのだろうか。今も、母とともにあったのだろうか。


 疼く懐古。思慕の念が過去へと想いを引きずる。


 けれど頷くわけにはいかない。


「そのために、この子を利用するつもりなのでしょう。あの男の人が言っていました。女神を降ろすと。神を降ろすには器が必要で、器には人としての人格はいりません。今まで女性や子どもを攫っていたのは器が必要だったんでしょう。でもこの子以上に素養のある子どもは他に存在しない。白の魔女を呼び出すためにこの子を犠牲にするというのなら、私は協力なんて絶対にしません」


「その必要は、ないかもしれん」


「……え?」


 その言葉は予想外だった。必要がないとはどういう意味だ。自分の知っている神降ろしの秘儀と彼らが行おうとしていることは違うというのか。いや、だとしてら女の子を攫う必要性がどこにある。


「鏡を見ろ」


 言われるがまま、棚の上の小さな鏡を手に取った。


 自分の顔が映っている。艶を失った紅茶色の髪。薄汚れた頬。薄くなった痣。年頃の乙女としての羞恥心を失っているわけではないから酷い有様だと落胆する。


 だが落胆するよりも何よりも見慣れない何かが映っている。レーヤダーナの瞳に映った時にも覚えた違和感。当たり前に存在していたはずのそれが欠けている。だから無視した。そんなことはないと文字通り目を逸らした。


 左目が暖かみの一切が欠如した、冷たいになっていた。人間の眼でない。細長い光彩はまるで猫のようだった。


「なに、これ」


 声が震えていた。左目に触れようとする手もそう。


「黄金瞳。別名を時女神の瞳。かの白き魔女も宿していた瞳。過去と現在、未来を選別する神眼。時女神の信望者がいたら卒倒するかもしれん」


 その言葉。この瞳を持つ意味とは。


「貴様は白の魔女に触れたそうだな。おそらくはその時に白の魔女の神性が感染うつされたのだろう。魔女として血の故かもしれぬが、器の役割たる依り代に相応しい要素を最も強く持った者。今やそれは貴様を置いて他におらぬ」


「だ、だからって、私があなたたちに協力する理由なんて……」


「攫ってきた女や子ども。事が済めばこれらを解放しよう。元は依り代として使えるかもしれんと攫っていただけだ」


「断ったらどうなりますか」


 老人の目が嫌な光を宿してレイに向く。


「予定通り、お前が守らんとしているそれを使うまでのこと。エリスも白の魔女とは関わりのある一族だ。案外と上手くいくかもしれん」


 それと指を差されたレイを老人の視線から庇った。その口調にはレーヤダーナを自らの願いを叶える為のただの道具でしかないという意識があったからだ。


 ハルは目を閉じた。


 結局のところ、ハルは老人の提案を受けざるを得ない。彼の攫われた人たちを解放するという言葉が本当だろうと嘘だろうと、レイを神降ろしに使うと言われてしまっては、守るためにそうするしかない。


「あなたたちは、何を叶えてもらいたいんですか」


「とるに足らんものだ。人ならば誰もがしもが願うような当たり前。貴様にはないのか。何としてでも取り戻したい。己と引き換えにしてでも構わらないものはないのか。それを思い浮かべれば良い」


 母親。でもそれは失われたものだ。


「取り戻す術を見出し、取り戻す機会があるのならば我らはどんな障害でも跳ねのけるだろう。協会であろうとも教会であろうとも我らの願いを阻むことは許さん。もう、手に届くかもしれんところにあるのだ。どうして諦めきれよう」


 切れ切れに聞こえてくる声は苦し気だった。


 疲れ果て、いっそ目覚めない眠りにでも落ちてしまいと思っているのに決して眠らぬと己に誓いを立てているから苦しみからは逃れられない。


 胸が痛い。愚かだと切って捨てることは出来なかった。


 いや、自分はどちらかというと彼らよりの人間だ。大切なものを失えばそれを取り戻したいと願うのは人として当然の思いだとハルは思う。


 決然と過去を切ってやり直さないと言い放つカナタがおかしいのだ。


 だって、私だって、ずっとずっと泣いて嘆いて悲しんで、そうしてようやく受け入れたのだ。喪失を。大切な人の死を。それを今更になって、今になって取り戻せるかも、やり直せるかもなんて囁かれたら。


 私と彼らの違いは諦めたのかそうでないのか。


 そして今、私の手には願いを叶えられるかもしれない手段がある。


 やり直せるかもしれない。


「無論、ソレの身柄は事が成就するまでは我らが預かる。さあ、どうする」


「……分かりました」


 受諾はレイの為か、それとも自分の為なのか。


 自分自身、分からないままにハルは老人の言葉に頷いた。満足そうに老人は頷いて去った。


 白の魔女をこの身に降ろす。


 わざと聞かなかったことがある。自分はどうなるのか。仮にも女神のような力の持ち主とされた存在だ。自我が吹き飛ぶくらいはあるだろう。廃人。そして死――。


 だけど、そう、だけど。運が良ければ自分は自分のままで母と再会出来るのではないか――。


 しばらくすると白い外套を着た二人が牢へ来た。ハルも普通かそれ以下とはいえ落とし子だ。普通の人間の身体能力と比較すれば逃げられる恐れがある。きっと彼らも落とし子のはず。


 ハルは迷っていた。


 このまま老人の言うがままに流されて彼らの望みを叶える手助けをするべきか。その結果、もしかしたら自分が望む結果が得られるかもしれない。それはとても魅力的だ。諦めた希望が手の届く場所にある。胸が掻きむしりたい衝動に襲われる。


 けれどその一方で手を繋ぐ存在がいる。


 少し軽めに握るとゆっくりと無垢な瞳で見上げて軽く握り返してくる。その冷たい暖かさを手離せなかった。手離すにはあまりにも、ハルは一人でいた時間が長すぎた。


 信じられている。思い上がりかもしれない。増長かもしれない。だからどうした。離せば二度と手を取ってくれないだろうという妙な確信があった。この子は信頼する人を自ら選んでいる。


 ハルには確かに取り戻したい大切な人がいる。もう一度会えるのなら会いたいという思いもある。


 自分が失敗したら彼らは躊躇なくこの子を捧げるだろう。そうであれば話は別だ。


 そう決めた。そう決意した。


 機会は一度きり。


 鍵が開く瞬間を狙って一気に格子を肩で押し開いた。鍵を開けようとした男が押し出されるように倒れ込む。


 ハルはカナタのように力強い体術で危害を加えてくる者を倒す術を持ち合わせていない。光導器のような武器があれば話は別だが今はそれも手元にない。


 だから自分自身の落とし子の素養を上手に使うしかない。触れて、与えて、操る。


 慌ててハルを取り押さえようとして近づいてくるもう一人が取り押さえようとして来る前に身体ごと体当たりした。そうして手を当てる。それだけ。


 要約すれば自分自身の煌素を相手の身体に与える。落とし子はそもそも自分自身を煌素の薄膜で覆っているようなものなので、ただ触れるだけでは破れない。だから触れて与えて混じりあった煌素を乱す。


 煌素とは落とし子にとってもは流れる血と同じような物。静脈に酒を注ぐようなものだ。


 奇怪なうめき声を上げて身体を丸めて苦しみだす男。


 もう一人も倒れている間に同じようにして動きを封じるつもりだったが間に合わなかった。立ち上がっていた。だけどハルを見ていない。見ているのは格子の向こうにいるレイで、なぜか泣き出しそうに顔を歪めて格子に縋りついていた。


 誰かの名前を啜り泣くようにして囁いた。


 この人も、誰かを、何かを取り戻したい、やり直したいだけなのかもしれない。気持ちは分かる。自分だってそうだ。だけどそれで、何が犠牲になるのか。何を引き換えにしているのか。


 無防備な背中に掌を当てて同じように煌素を乱すと最後まで誰かの名前を繰り返しながら崩れ落ちた。


「大活躍でしたねレイちゃん」


 頭を撫でると何をされているか分かってないみたいに見上げて、ややすると目を閉じて頭を預けてきた。


 気まぐれな猫みたいなんてあまりに場違いすぎる呑気な感想が笑えた。


 上手くいって良かったと心底思う。


 ハルにしても大博打だった。相手の煌力が強いとそもそも弾かれて無効化されてしまう可能性が高い。タバコと血の臭いを纏わしたあの男のような地力に差がある相手では効果が見込めない。


 そういった意味で今回は運が良かった。


 失敗したところで殺されることはないだろうなんて予測はあったがそれでも成功して良かった。


「行きましょう」


 手を差し伸べると冷たく骨ばった小さな子どもそのもの手がそろりと重ねられた。


 ハルはちらりと微笑んでゆっくりと壊れないように握り返した。


 どうして自分がこの子どもを助けようとするのか。もちろん年相応の正義感や倫理観はあるし巻き込んでしまったという負い目もある。


 それよりも、誰かと一緒に歩くこと。誰かと一緒にいること。誰かと手をつなぐこと。それが大きいのかもしれない。


 誰かといるのは疲れるけれど、誰かといるのだって必要なのだ。心が衰弱しきってしまう前に。


 こんな考え、巻き込まれたこの子にとっては迷惑千万だろう。であるのなら余計に助けなくてはならないと思う。自分が得たものの分だけ何かを返し帳尻をどこかで合わせたい。


「レイちゃんはカナタさんとは一緒にいて長いんですか?」


 ゆっくりと首を振る。


「とても仲が良さそうに見えましたけどね。なんだか目を離せない妹のお世話をするお兄ちゃんみたいな感じで」


 ゆっくりと首を傾けた。ハルが言ったことを不思議に思っているようにも見える。実際に言葉の意味が理解出来ていないのかもしれない。


 誰もが一目で分からされてしまう訳あり感は常識なんて言葉からは解離し過ぎていた。誰もが理解して当然と思っている言葉だって届かない可能性がある。


 まあ、その訳ありの部分はカナタさんがどうにかするのでしょう。


 カナタとレーヤダーナ。文句を言いつつも世話を焼く姿と猫のようにそれを受ける姿が少し可笑しくて、どこか羨ましかった。


 だからそう、歩き出そうと足を踏み出して倒れた男二人に目を戻した時に、立ち上がる片方の男が視界に映った時、身体を前に投げ出すようにしてしまった。


 鞭のようにしなる腕が額に叩きつけられる。


 自分の身体が宙を舞う。岩壁に叩きつけられ口から血が漏れ出る。あれは頭をやられたか。今の自分では処置の仕様がないなと、自分の身体を冷静に思った。


 意思が足首を掴んで命を身体の中に引きずり込まなければあるいはそのまま女神の下へと旅立っていただろう。


 痛みにもがき苦しむ余裕など与えられない。


 喉の奥からせり上がる血の塊を無理やり飲み下す。歯を食いしばって立ち上がる。


 なぜって。この子がいるから。


 レイを抱え込んで背を向けたその瞬間、首から上が吹き飛んだ。


 ハルはそう感じた。


 あ、ダメだ。これは死ぬ。どうしようもなくてどうしようもないほど。頭を壊されては治せるはずもなく死ぬ。


 そして、今際の際に長々と過去を思う贅沢など与えられず、視界の中で見つめるレイの目に己の血が流れ込み、汚してしまったなぁなんて。


 それが最後。それが終わり。それでお終い。


 あっけなくハルの時間は終わる。

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