3

 日没までのどこかで、雪は止んだ。いつとは断じられない。カーテンを開けて外を覗き下ろしたときには、すでにその気配が失せていた。

 見舞いから帰ったのち、奇妙なほどの疲労感を覚えて寝入っていた。なにか恐ろしい夢を見ていたような感覚があったが、中身は思い出せなかった。昔からけっこうな頻度で見舞われる現象だ。一時期は眠ること自体を忌避して、いつまでも天井を眺めていた。そういう子供だった。

 大学進学を期に、この部屋を借りて独り暮らしを始めた。両親はそれを待ち構えていたかのように別れて、母は実家に戻った。まだ正式な離婚こそ成立していないはずだが、いまさら関係が修復されることは無かろうという気がしている。依織にとっても、親子三人の家庭は居心地のいいものではなかった。張り詰めた空気に耐えかねるたび、佳南の家へと逃げ込んだ――。

 冷蔵庫にあるはずのビールに手を伸べようとして、ふと思いなおした。こういう気分のときにアルコールに頼るのは、あまり得策ではない。代わりに湯を沸かし、珈琲を淹れた。

 デスクトップを立ち上げ、SNSを眺める。漫然と画面をスクロールしていると、一枚の写真に目を吸い寄せられた。

「これ――」

 スマートフォンから撮影され、そのまま投稿されたものと思しい。画面全体が薄暗く、詳細は判然としないが、なんとなく見覚えがある気がした。

 一見、なんの変哲もない路地である。画面の大半を占めているのはブロック塀とコンクリートの通路だが、端のほうにフェンスに仕切られた空き地が映りこんでいる。簡易的な駐車場かなにかだろうか。

 明確な目印となるような建物や看板が見て取れるわけではない。似たような場所は、それこそ日本中のどこにでも存在するはずだ。単なる勘違いか。

 画像に添えられている文章に視線を移す。囁くように読み上げた。

「――ここで死んだんだって」

 はっとする。覚えがあるのはむしろ、このフレーズのほうだと気付いたのだ。バス停で聞こえてきた噂話。まったく同じ言い回しを、あのときの女子高生もしていた。

 いまだ交流のある後輩の誰かに訊ねてみようと思いついた。いくつかの顔が浮かんだが、もっともその手の話題を好みそうな宗谷茉緒に決める。

 最近そうした風聞が流行っていないかとメッセージを送ってみた。珈琲のお代わりを淹れて戻ると、思いがけない早さで返信が来ていた。

〈よく聞くのだと、ずっと入院してた患者がいきなり病院を抜け出して、死体で見つかったって話ですかね〉

 死体。なるほど符合する。返答を書き送るより先に、茉緒のほうから付け足して、

〈具体的に誰がどこでっていうんじゃなくて、単なる噂ですけど〉

〈都市伝説みたいな?〉

〈たぶん。似たような話、私が小さい頃からありました。大筋は一緒なんですけど、脱走して行方不明になったとか、結末の部分は何種類かあったような〉

 いかにもそれらしい。ストーリーの細部が変更されたり、尾鰭が生じたりといった現象は、この種の噂話に付き物だ。

〈ということは十何年前からあるんだ〉

〈そういうことになりますね。口裂け女とか人面魚みたいな、どこにでもあるような怪談じゃないんで、このへんの地域特有だと思うんですが〉

〈なんでまた流行りはじめたんだろうね〉

〈順繰りなんでしょうかね。なんか聞いたら、また報告しましょうか〉

〈じゃあお願い〉と結んで、やり取りを終えた。なにが得られると期待したわけでもなかったが、せっかくの申し出を断る理由もない。

 空腹を覚えたが、あいにく買い置きを切らしていた。そのうち大学の学食にでも行こうと思いつつ、部屋を出るのが億劫でぐずぐずと先延ばしにしてしまった。ふと気が付いたときには、閉店の時刻をとうに過ぎていた。

 それならそれで、コンビニにでも買い出しに行くほかはない。コートを羽織り、エレヴェータで一階まで下りた。依織の部屋は、アパートの十一階にある。

 道は幽かに湿り気を宿していたが、雪は残っていなかった。低く垂れこめた雲に遮られて、月は見えない。最寄りの店に向かいかけて、足を止めた。真向かいにあったはずの建物が解体されて、更地になっている。なにか小規模な店舗だったような気もしたが、利用したことがないので思い出せなかった。

 これといった理由もなく、予定と反対の方向に歩きはじめた。入り組んだ路地を進んでいく。そう変わらない距離に、別のコンビニがあるはずだった。

 茉緒の教えてくれた話に意識が向いた。怪談と呼ぶには妙に現実味がある。病院を抜け出して死体で見つかる――なんらかの中毒者か、あるいは余命幾許もない末期患者か。静かで孤独な死だったのか、それとも狂乱の末だったのか。

 依織が触れたことのある身近な死は、今のところ母方の祖父のみだ。毎朝の日課である散歩に出る直前に倒れ、そのまま目を覚まさなかったと聞いた。ずっと健康そのものの様子だった肉親との唐突な別れに、母は依織の目にも心配になるほど憔悴していた。彼女のあそこまで悲惨な顔を見たのは、後にも先にもあれきりだ。もう十年以上前になる。

 連鎖的に叔父のことが頭に浮かんだ。最後に会ったのは、その葬儀の場だった。

 名を葦原巽という。母より八つ下だから現在は三十六歳――当時は二十代の半ばだったことになる。

 いっさいが慌ただしく、また自身が幼かったこともあって、記憶の大半は曖昧だ。しかしひとつだけ、なぜか鮮明に覚えていることがある。車のなかで交わした会話。

「親父のために泣いてくれたのか」とハンドルを握った叔父が訊ねる。「依織は優しいな」

「たくさんは会えなかったけど、お祖父ちゃんだもん。淋しいよ」

 叔父は煙草を抜き出しかけたが、ちらりとこちらを見やると思いなおしたように箱に収めた。吸ってもいいよ、と依織が促すと、どうせ禁煙しようと思っていたと言う。

「誰かと別れるのはもちろん淋しい。俺も泣いたよ。だが順番を違えない死っていうのは、悲劇じゃない」

「そういうものなの?」

「いずれ分かるようになる。本当に悲しいのは、順番が狂ったときだ。まだ旅立つべきときじゃない人間が旅立ったときだ。取り残された側は、悔やんでも悔やみきれない」

 ずっと静かに座っていられたご褒美として、玩具屋に連れて行ってもらう途中の出来事だったように思う。なぜせっかく買ってもらった玩具でなくこのやり取りだけを記憶していたのかは、自分でも分からない。叔父とのもっとも色濃い思い出だ。

 徐々に道が狭まり、車道と歩道を区別する白線もいつの間にか失せた。日中でも交通量の少ない一帯だ。ましてこの時間。あたりにはまるでひと気がない。

 どこかで間違ったらしいと気付いた。適切なタイミングで右に折れればコンビニのある大通りに行き着くはずだったのに、一向にその様子がない。道なりに直進しているだけのつもりでいて、いつの間にか方向を見失ったようだ。依織は立ち止まり、頭部を巡らせてあたりを見渡した。

 もとより方向音痴な人間が、考え事に没頭して歩いたのが拙かった。近所には違いないのだが、普段はまったくと言っていいほど縁のない道である。潔く引き返すほうが得策かもしれない。

 前方からなにか聞こえた。獣の唸りじみた音と感じたが、どこか人間の女の嘆き叫ぶ声のようにも思え、依織は立ち竦んだ。近くでトラブルでも起きているのか。

 不吉な予感に呼応するように、ちりちりと蟀谷が痛むのを意識した。あっという間に増幅していき、激痛に一瞬、視界が白んだ。細く息を吐き出して堪える。

 どうにか顔を上げると、路地の隙間の暗がりに目が留まった。影のようなものが蠢いている。

 ゆっくりとなにかが這い出てきた。ずるずると重量物を引きずるような音。

 依織は最初、それを四つん這いになっている人間なのだと思った。それくらいの大きさで、ぼんやりと浮かんだ輪郭もまた、獣にしては異様だった。丸められた背中。やたらと長く骨ばった手足。

「え」と思わず声が洩れた。その瞬間に過ちを悟ったが、もはや遅かった。

 相手が首をぐるりと回転させ、依織の存在を認めた。落ち窪んだ虚ろな眼窩。明確にこちらを凝視している。

 ――化物。

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