第7話 人体実験♪ 1

「食べないとどうなるの?」何の気なしに聞いたことがある。小6の夏休みだった。

 普通の大人なら大きくなれないよとか、病気になっちゃうよとか、もっともなことを言って返すところだが、ばあちゃんは違った。

「はぁ」と言って昔のことを思い出すように斜め上を見ていた。

 視線を僕に戻すと同時に言った。

「食べれない状況になった経験はあるわね、食べないと血糖値が下がって端的に言うと力が入らなくなるわ、長期的に偏った食生活を送れば細胞の代謝が出来ずに様々障害が起きるけど、短期的に食べないとどうなるか、、、どうなるか検証をしたことは無いね。・・・気になるね!調べてみようね」言いながら口調が早くなり、瞳が輝き始める。

 ばあちゃんが言葉の語尾に「ね」が続く場合、それは最早相談ではなく決定なのだ。

 その日のうちに内容が決まった。被検体は僕だった。

 朝食を取ってから二時間後と二十四時間絶食した場合での機能差をテストすることにされた。

「人体実験♪人体実験♪」

 とおおよそ保護者と呼ばれるような人が口にしない言葉でばあちゃんははしゃいだ。

 判断力。計算能力。暗記力。運動能力。体重。この五つに当てはまるテスト項目を決め、絶食前、絶食後で各三回ずつ同じ条件でテストをして結果を比較することにした。(された)

 絶食前のテスト自体は難なくこなした。

 絶食。これが想像していた以上にきつかった。昼間は意力によってなんとか乗り切った、体が軽いと感じる余裕すらあった。しかし、夜はそうは行かなかった。腹が静寂に吼えた、空腹が頭を覚醒させ、食べることばかり考えてしまう。長い、長い夜だった。

 朝、睡眠と言うよりも意識の混濁から目覚めると、いや、目覚めるというよりも朝食の香りに吊上げられた僕が一階に降りると、ばあちゃんが朝食の用意をしていた。

 米を炊き、味噌汁を作り、鯵の干物を焼いていた。何度も朝食に並んだありきたりで、飽き飽きしているはずの献立。一人分が食卓に並べられた。嗅覚と視覚を同時に刺激され、腹痛と呼んだ方が相応しい程の空腹感に襲われた。意識を逸らすためにテレビを点けて、ボリュームを上げた。それでも食事の音がテレビの音声に勝り、耳に入った。咀嚼する音はもちろん、箸が皿に当たる音すら食欲を刺激した。

 冷静を装ってはいるが、今ばあちゃんの方を向けば、食事中のご主人様を見ながら涎を垂らし、じっと耐える犬のようになるのは明白だ。

 まったく内容の入ってこないテレビ画面を睨み付け、背後から

『一口食べる?』の囁きを耳を欹てて待ったが、響いてきたのは食器を片す音だった。

 ばあちゃんはそんなに甘くは無い。優しいのと、甘やかすのは違う。なんてそんな哲学的な思想に思考を向ける余裕は無く婆ちゃんに対する苛立ちを覚えた。当の本人は僕の様子など気にする素振りもなく、さっさと片付けを済ませ「さぁやるよ」と爽やかな笑みを浮かべていた。

「ばあちゃん」

「ん?」

「やめない?」

 一応聞いてみた。

「やめない!」

 やっぱり。

 家の中で計算力・暗記力のテストを済ませ、運動能力テストの為小学校の校庭へ向かった。

 天気は昨日テストを行ったときと同じような快晴だ。雨など降り出したら、この実験が振り出しに戻ってしまう。もう一度絶食。と考えるとこんなに天気が嬉かったことはない。

 真夏の一番暑い時間、真っ青な空の下に広がるグラウンド、僕とばあちゃんしか居ない。ばあちゃんの束ねた髪が少し解れ後ろで流れる雲と同じ方向へたなびいていた。

 「昨日より少し風が強いけど、問題にならないでしょ。さぁ始めようか」

 そう言ったばあちゃんの顔は真夏の空に負けないくらいに晴れやかだった。

 運動能力テストをなんとかこなし、家路に着いた。部屋に入るなり畳の上に仰向けに倒れこんだ。一番熱い時間を過ぎたとは言え、まだまだ気温は高い。暑いと感じるのだが、手足の先や体の芯が冷たく感じた。まるでアイスの天ぷらにでもなった気分。

 寝転がった僕の頭上にばあちゃんが腰に手を当てて立った。

「さぁ、ご飯にしようか?」

 なんて素晴らしい言葉。人類が作り出した文章で最もシンプルかつ、躍動感と生命力に溢れた言葉。

 これまで幾度と無く問われ、耳にしてきたこの台詞、何故その魅力に気が付かなかったんだ。僕のばかばかばか。喜びのあまり、畳に突っ伏して両の拳でバタバタと畳を叩く。

 ばぁちゃんは少しニヤリとして、台所へと踵を返した。その後を空腹の犬が餌欲しさに足に纏わりつくように僕も続き、何を作るのか見ていた。

 たまごのサンドイッチ、ツナのサンドイッチ、梅のおにぎり、鮭のおにぎり、トマトを載せたサラダ。それらをちゃちゃっと作り、味噌汁を椀に注いで盆に乗せた。

「できたよほら、持って行って食べな」

 まな板を洗いながら背中で言った。

 これだけ?正直そう思った途端に、盆の上の平凡な料理に腹が立った。

「婆ちゃん!これだけ?おかずは?分厚いステーキとかさ、刺身の盛り合わせとかさ、おかずがないならせめてカレーとかさぁ、他にいくらでもあるでしょ?なんでこんな普通のもんばっかりなの?いっつも食べてるいつでも食べられるものじゃん」

 一気に不満をぶちまけた。

 ばぁちゃんはそれを、気にする素振りもなく「黙って一口食べてごらん。それでも文句があるなら何でも作ってやるわい」と洗い物を続けながら言った。

 何を言ってるんだ、このババーは。文句を言うに決まっている。決まっているのだからさっさと他の料理を作れば良いのに。よし分かった、一口食べて文句を言ってやろう。

 洗い物を続けるばあちゃんの背中を一睨みしてとりあえず盆を食卓へ運んだ。

 こんなものと荒々しく盆を置き、と盆の中を見下げると味噌汁から立ち上る湯気と、しっとりとした海苔の香りが容赦なく唾液を誘った。唾液を飲み下し、いかにも不服と言う素振りで、盆からおにぎりを毟るように取って雑に噛り付いて海苔を引きちぎった。

 刹那。口いっぱいに海苔の風味とご飯の優しい甘さが広がり、次に梅の酸味が押し寄せ唾液を誘い、下の付け根が痛くなる程の勢いで溢れた。

 二十四時間ぶりに使う味覚は、普段の数倍も敏感で、米を噛むたびに広がる甘味や海苔と混ざり合って増す風味、その変化の全てをはっきりと感じ取ることができた。

 ばあちゃんに文句を言う。そんなことに口を使っている暇は無い。忙しいのだ。

 盆の上にあるこの、このご馳走を片付けるのに必死だった。誰に取られる訳でもなし、誰と競う訳でもなし、それでも追われるように次々と口に運んだ、止まらなかった。

 普段から口にする、所謂普通のもの、そう称してきたこの料理達がよもやご馳走になるとは思っても見なかった。流し込んだ味噌汁が五臓六腑に染みた。何もかもが美味く、自然と涙が出た。こんな感動が身近にあり、毎日何気なくすごしていたことに驚きを感じた。

 普通。それがいかに素晴らしいのか、それがいかに感謝すべきことなのか、そんな重要なことをこの一食を持って悟った。いや、教えられた。いままで感じたことのない不思議な気持ちで泣いていた。感謝と感動の混ざったようなそんな心情、きっとこれが幸せだと、今僕はこの瞬間成長した。

 と、大人びた思想に浸っていると、ばあちゃんが僕の前に食卓を挟んで腰を下ろした。

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