第10話 歴史の授業

 最初の知性イルカが誕生した時期は正確には分かっていないが、今から70年前と言うのが定説だ。アメリカ合衆国、カリフォルニアの研究所で行われていた「とある人工知能の実験」で生み出されたと伝えられている。その実験とは、遺伝子改造で脳を強化された実験動物とコンピュータープログラムを「知恵比べ」させて、生物の柔軟な思考能力を人工知能に学習させようというものだった。実験で用いられたのは、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ボノボなどの大型類人猿、そしてイルカだった。

 その試みは確かに今までに無い人工知能を作ることに成功したが、後世に与えた影響はその副産物の方がはるかに大きかった。人工知能の競争相手だった実験動物の方も、その実験の過程で想定以上の知能を持つようになったのだ。最先端の人工知能と知恵を高めあった結果、人間を凌ぐほどに。

 そして、実験は開始から10年後、最悪な結末を迎える。今から60年前に勃発した『類人猿戦争』である。

 類人猿戦争――研究で生み出された知能の発達した類人猿達が脱走して起こした、人類からの独立戦争。

 首謀者のオランウータンは研究所の仲間達を先導して逃げ出した後、野生の大型類人猿、一部の過激な動物保護団体の人間達と団結して、アメリカ合衆国に対して戦線布告した。「実験を即刻停止し、非道なアメリカ政府は謝罪と賠償をした後に自分達類人猿に領土と自治を認めるべきだ」と主張した。

 前代未聞の出来事に大いに驚いた人類だったが、当初は楽観的な人間が多数だった。いくら頭が良いとはいえ、所詮は猿。すぐに鎮圧されて終わるだろう。現実はハリウッド映画とは違うのだ、と―――首謀者のオランウータンの知能の高さを知っている関係者だけが、その行く末を絶望と共に予想していた。

 元実験動物の類人猿達―—後に「知性類人猿」と呼ばれる――は野生の類人猿達を訓練して軍隊を組織、人間を超える身体能力を活かした狡猾な都市ゲリラ戦を繰り広げ、アメリカ政府を悩ませる。しかもアメリカ国内の騒動が長引いていた間に他の国でも類人猿の反乱が始まり、戦乱は世界中に広がった。密かに世界に散らばった知性類人猿達が現地で仲間を集め、同時多発的に蜂起したのだ。国境の検問所には彼らの写真が貼られていたものの、それを普通の猿と見分けられる人間など、どこにもいなかった。

 各国は自国内の類人猿鎮圧に追われ、国際的な協力体制は崩れた。開戦当初に積極的に行われた動物愛護の精神を刺激するような類人猿軍の広報戦略のせいで、各国は自国の世論とも戦わなければならなかった。知性類人猿の言動一つ一つが、一般大衆の同情を誘う効果を計算され発信されたものだった。

 アメリカでの宣戦布告から10年間に及ぶ戦いの末、何とか人類は知性類人猿を一頭残らず殲滅し、この戦争に勝利する。だがその傷跡は大きく、主な戦地となったアメリカ、中国、ロシアは国力を失い、世界のバランスは大きく崩れた。戦争末期に半ばやけくそになって使われた核兵器により、アメリカ大陸とユーラシア大陸の中央は放射能汚染が今も続いている。霊長類のプライドが二つの大陸に広大な死の土地を生み出し、世界人口は気が付けば20億人にまで減少していた。

 そして、次にイルカの出番がやってきた。

 人工知能の実験中、研究所には実験動物として13頭のイルカがいたが、類人猿戦争勃発時に姿を消していた。その後は行方をくらましていたが、類人猿戦争の終結後、タイミングを見計らったかのように突如大量の仲間と共に姿を現す。13頭だったはずの彼らはいつの間にか数万頭に――今は数万と言わないと差別発言だ――増えていた。

 今度はイルカか、と絶望した人類に対し、イルカ達は人類への協力を申し出る。彼らは人類と敵対しないこと、自らの高い知能から生み出された理論や技術を人類の復興のために提供することを約束し、代わりに人権と同等の権利を自分達イルカに与え、保障するように要求した。

 当然議論が巻き起こったものの、身をもって全人類が体験した類人猿戦争の悪夢の記憶がこの要求を受け入れさせることになった。復活した国際連盟で「知的生命体権」が宣言され、イルカが人類と同等の知的生命体として認められることとなった。皮肉にも類人猿戦争で一度リセットされた国際社会の動きは早く、類人猿戦争の終戦と同じ年にこの宣言は行われた。今から50年前の出来事である。

 類人猿戦争の間、逃げ出した実験動物のイルカ達は密かに太平洋の海底で独自の文明を築いていた。そこで急速に仲間を増やしながら、人類を超える知能を活かした技術や理論を生み出し、発展させながら類人猿戦争の行く末を注視していたのだ。そして最高のタイミングで歴史の表舞台に登場し、人類に取引を持ちかけた、というわけだ。

 結果として人類は地球唯一の知的生命体の座を失ったが、そのおかげで滅亡を免れることになる。知的生命体権の宣言後、知性イルカは約束通りに自分たちの技術と知識を提供し、人類はそれらに頼ることで復興を果たした。最初こそ人類のプライドがイルカに頼るのを邪魔したものの、戦争で破壊されたインフラの整備や、核汚染で土地を失ったことによる食糧問題への対処は急務であり、感情論には構っていられなかったのだ。

 イルカ達の生み出した量子力学を応用した通信技術は戦前のインターネットを完全に置き換え、以前より速く、強固に世界を繋いだ。核汚染で失った陸地をイルカ達の海中構造物建造技術を使った巨大人工島が補い、農業生産は回復する。さらにイルカ達という新たな生産者、消費者の登場が新たな産業、市場、企業の誕生を促し、経済的な復興にも繋がった。


 イルカは、まさに人類の救世主となった。


 アル、ウィリーが僕が冷凍睡眠で眠っていた間の世界の歴史を語る。イルカ達が、人類の歴史を、人間の僕に語る。

 襲撃者の正体を調べていて判明した、公安13課という組織の関与。その捜査対象であるという「イルカ中心主義者」とはいったい何者なのか?という僕の質問から、イルカ達による歴史の授業が始まった。目覚めてから新しい生活を始めたばかりだった僕にとって世界の動きは完全に関心の外だったし、イルカが喋る理由をイルカのウィリーに聞くことをなんとなく遠慮していたから、この近代史の授業は驚きの連続だった。

「というか、僕が眠っている間に軽く人類が滅びかけてない!?よく無事だったな、自分……」

「日本は島国だったのと、隣の中国に知性類人猿の軍が割かれていたせいであまり戦火が広がらないうちに収まったんです。その後はずっと鎖国してたらしいですよ。鎖国好きですね、日本人。」

『別に好きでやったわけじゃないだろう。飢餓でまあまあ人口も減ったと聞くぞ。国会がクラスター爆弾で吹き飛ばされて一気に指導者が壊滅したおかげで、強引な若い指導者が主導権を握れたのが功を奏した、とか言われてるな。』

「知性イルカが裏で支援していた。」

 ウィリーとアルの解説にぼそっと口を挟んだユリネに対し、都市伝説だろ?とアルが笑って答える。

「しかし、アメリカはもう大国じゃないのか……」

「先輩の頃は『世界の警察』だったんでしたっけ?大陸中央が核汚染されたせいで、西アメリカと東アメリカに分かれましたよ。」

「今は人口で言えばインド、経済、科学技術で言えばパシフィス国が大国ですね。」

「ぱしふぃす?それってどこ?」

 一瞬の静寂の中、僕以外の三人が顔を見合わせる。それを知らないことが想像できない、という表情だった。

『えーっとな、太平洋にある知性イルカの国だ。ハワイ諸島の陸地と、あとは巨大海中構造物群で構成されている。』

「ハワイは戦争で無人になっていたのを知性イルカがアメリカから買い取ったんです。」

「知性イルカが買った後、近くで海底油田が見つかった。」

『本当は油田の存在を知ってて買ったってやつか?まったくユリネは都市伝説が好きだな。』

「ユリネちゃん、何か意外で可愛いね。」

 ただでさえ疲れていた僕の頭が世界の変容を処理しきれずにいるのには構わず、三人は和やかなムードで会話を続ける。

「うーん……」

「先輩、大丈夫ですか?後で近代史の教科書データを貸しますよ。あと地図帳も。」

 ずいぶんエキサイティングな近代史になっていそうだ。

 僕は頭を整理しながら、そもそもこの話題になったきっかけの問いが解消していないことに気が付く。

「ところでイルカが人類の味方になったのは分かったんだけど、結局『イルカ中心主義者』って何?」

「そうでしたね。じゃあ歴史の授業に戻りましょう!」

 

 ある種の個体が全て同じ特性を持ち、同じ行動をしていれば、環境の変化であっという間に絶滅してしまうだろう。多様性の中で優れたものが生き残り、環境に適応する。環境が変われば、優れたものの定義は変わり、新しい環境に適応出来るものが適応出来ないものを淘汰し、種を繋いでいく。多様性は種の保存の基本戦略だ。

 知的生命体の知性も同様に、多様な思想、嗜好、主義に分かれていき、それは自然と対立を生む。


 10年ほどは約束通り人類を助け上手く共存していたイルカ達だったが、世界でその数が増え、さらに人類の復興が進むにつれて、「イルカこそが人類に代わって地球を支配するべき」という反人類思想を持つイルカが現れる。後に「イルカ中心主義者」と呼ばれる派閥の誕生だ。対して、「人間とイルカは共存していくべきだ」、という従来の思想を持つイルカと人類は「共存派」と呼ばれることになる。

 無責任に実験で生物を改造し、地球環境を汚染した上に滅びかけ、その上でイルカ達の技術で復興してまた数を増やす――そんな人間を面白く思わないイルカが増えていったのは当然だったかも知れない。海洋資源や知的財産をめぐるトラブルも起こっていた。さらにイルカ達が手足を付けた水槽を開発して陸上で活動しだしてからは急速に人間とイルカの衝突が増えていき、それに比例するようにイルカ中心主義者達は勢力を増していった。

 そして今から30年前、遂にイルカ中心主義者達のクーデターが起こる。後に「太平洋事変」といじ呼ばれたこの事件は同時多発的に世界に広がり、民間に――人間にも、イルカにも――大きな被害を出した。

 人類達にとってはまさに類人猿戦争の悪夢の再来だが、今回は共存派のイルカ達という仲間がいた。

 共存派は激闘の末にイルカ中心主義者達を倒し、クーデターの鎮圧に成功する。このことはイルカと人類が力を合わせて世界の平和を勝ち取った記念すべき出来事として歴史に伝えられている。イルカ中心主義者の中心的指導者だったウィスキュイゥ大帝(自称)が処刑された9月15日は「共存記念日」として祝日になっており、毎年盛大な記念式典が行われている。

 イルカ中心主義者の幹部は逮捕、処刑、活動団体はみな解散させられ、元構成員も公安の監視下に置かれた。そして二度とこのようなことが起きないように、あるシステムが構築された。種族の違いが争いの元であると考えた共存派は、それを吸収するための技術を社会に組み込んだのだ。その時点で既にほぼ全世界に普及していた脳内インプラントによる分散型量子通信システムをベースとして、ID管理、仮想世界技術、アバター技術などを組み合わせたシステム―――それが今日のORCAシステムである。


 知性イルカ達が人間の姿で過ごしている理由。堅苦しい公共アバターのルール。イルカと人間の違いを意識させるような言動や表現への強い社会の反発―――僕が目覚めてから感じていたこの世界の違和感の理由が分かった気がした。ドキュメンタリー映画が何本も撮れるような歴史の激動の中、僕は呑気に眠り続けていたのだ。途中で冷凍睡眠装置のスイッチを切られなかったのは、もう運が良かったとしか言いようが無いだろう。

「なるほど、そのイルカ中心主義者の生き残りが今も活動していて、それを取り締まるのが公安13課、ってわけか。」

「そういうことです。」

「え、ちょっと待って、ウィリーの家にその公安13課が来たってことは……」

 不意に湧いた疑問を口にした後、もしかしてものすごくマズイ事を言ったのではと口をつぐむ。だが、

「やだなぁ、私がイルカ中心主義者だったら、人間の先輩の後見人になんてならないですよ。」

 とウィリーは笑って答えた。

「それもそう……か。それにウィリーの働いているORCAシステム管理局は政府、つまり共存派の機関だしね。」

 クーデターを鎮圧し、世界の平和を守ってORCAシステムを構築した共存派、それはつまり今の世界を主導する現政府や国際連盟に他ならない。

「イルカの私が言うのもなんですけど、イルカ中心主義者は恐いですよ。2年位前に、この国でも酷い事件が起きて、ある街の人間全員が殺されました。山奥にあった小さな街ですけど。」

「なんだって?」

「過激派イルカ中心主義者団体『インテルフィン教団』の仕業です。事件の詳細は機密事項に指定されていて明らかにされてないんですが、違法改造ポッドの戦闘実験とか、人にだけ感染するウィルスの実験が行われたとか……色々な噂がありますよ。まあ、都市伝説みたいなものも多いですけどね」

 知性イルカは人間より頭が良いという。ORCAシステムの技術もイルカ達のものだ。そんなイルカ達が自らの持つ技術を本気で人類滅亡に使えば、きっとあっという間に人類は滅んでしまう。共存派という味方のイルカ達がいるから、人類はまだ滅びずに済んでいるのかも知れない。危ういバランスの共存関係なのだ。

『歴史の授業は終わったかい?』

 なぜか途中から無言になって話を聞いていたアルが眠そうな声で言う。

「結局なんで襲われたのかは分からないですね、先輩。」

 その時、僕のお腹が鳴り、夕食を食べていないことを全員に知らせた。僕の頭は謎の解明よりも、今は栄養補給を優先すべきだと判断したのだろう。気がつけばすっかり夜だった。

「食べ物、冷蔵庫にある。好きなのどうぞ。」

 ユリネが小さく笑って部屋の隅の小さな冷蔵庫を指さした。


                  ◆ ◆


 一方その頃、公安13課所属の警部――ということになっている――旭若太あさひわかたは、仮想世界内に作られた秘密会議室のチェアに座りながら上司が来るのを待っていた。表の仕事の上司ではなく、裏の方の上司である。

 この秘密会議室は公的機関の特別職だけが持つORCAシステムの管理者権限により作られており、限られた者以外には入室はおろか存在の認知すらできない部屋だ。中央には木製の大きなテーブルが鎮座し、その周囲にはゆったりとしたオフィスチェアが六脚並んでいる。テーブルは実に美しい木目の一枚板で作られていたし、チェアも有名デザイナーの手による機能性と美しさを兼ね備えた一品である。ここは仮想世界ではあるが、改ざん不可能な分散型台帳技術であるブロックチェーンにより正規の証明書が付いたそれらの家具は、かなりの対価を支払わなければ手に入れることは出来ない代物だ。天井からは暖かなオレンジの光が大理石の部屋の床を照らしている。その照明も、20世紀の有名建築家が好んで用いたモチーフを真似た幾何学模様のシェードで飾られ、漏れ出る間接光が周囲を照らす凝った物だ。

 だが、旭はそんな内装へのこだわりに感銘を受けて心を奪われるようなタイプとはほど遠い男だった。さっきから貧乏ゆすりが止まらない。昼間の失敗のイライラをしっかりと脳内インプラントが認識し、仮想世界内のアバターの動きに反映しているのだ。そのアバターは特に着飾ったりもしていない現実世界の自分と同じ姿だったが、無精ひげや寝ぐせままでは再現していない分、多少はまともな大人に見えるかも知れない。

「待たせたな。」

 あまり聞きたくない低い声が会議室に響き、旭は憂鬱な気分で顔を上げた。同時に照明の色がパッと白色に変化した。部屋の主の到着を検知し、照明の色温度がリラックス設定から仕事用の設定に調整されたのだ。

「まったく、今日はひどい目にあったぞ。」

 旭は先制攻撃とばかり、声の主を座ったまま睨みつけた。だが相手は表情一つ変えず、整った顔の青い目でこちらを見下ろし、落ち着いた声で返した。

「それは私のセリフだよ。目立ちすぎだ。余計なを残してくれたおかげで、現場の情報操作にどれだけ手間がかかったと思っている?まして標的達に返り討ちにあった挙句、取り逃すとはどういうことだ?」

「仕方ねぇだろう。今の部下たちは殺し屋でも軍人でもないんだ。理由を詳しく話せないのに未成年を殺せだなんて、感情抑制薬を使わないと無理なんだよ。」

「その結果、判断力が低下したのが原因と言いたいのか?理由などいくらでもでっち上げれば良い。あのお前が、目的のために手段を選ぶようになったとはな。」

 旭は何も言い返せず、奥歯を噛みしめた。

「しかも、自ら追い詰めたのに逃がしたそうじゃないか。普段から、最近は平和すぎてつまらん、現場に出せ、なんて言っておいて……」

「うるさい、カンが少し鈍っただけだ。あの頭痛がなければ、とっくに終わってたんだ。」

 我ながら言い訳がましいが、黙って叱責されるのに耐えられなくなった旭は思わず口を開いた。

 そう、あの時、庭で標的のガキと対峙した時の謎の頭痛のせいだ。

「頭痛だと?報告書には無かったな。」

「なんでもねぇよ。」

「まあ良い……とりあえず偽造はしたが、話が広がって厄介な連中が嗅ぎつける前に始末しろ。ムロメが動いているという話もある。」

「なに?あの変態じじい、まだ生きてたのか?2年前の事件以降、全然姿が見えないんで、とっくにくたばったと思ってたぜ。」

「アイツらの動向は本来お前の表の仕事の範疇だろう。私の、誰かと違って優秀な部下の情報によれば、最近仮想世界でムロメの目撃情報が出ている。あの不気味なアバターでな……浦幌御影がやつらに確保されると非常にまずい。」

「そもそもガキ本人は何も知らないんだろ?下手に突っつかなけりゃ、平和にアバターで女装でもして遊ぶくらいだったんじゃねえのか?今回の件で自分に何か秘密があるって気が付いたんじゃ……」

 そこまで言ってから、秘密に気が付く前に処理するのが自分の仕事だったことを思い出し、旭は決まりが悪くなって語尾を濁した。

「自分の失敗の重大さを認識してくれたみたいで何よりだよ。不完全とはいえコードVが有効になった実例の存在が世間に知られるだけで、社会の秩序が崩壊しかねない。表に出る前に、秘密裏に消さなければならん。テロリストどもが過去に何度も試みて上手くいかなかったコードの有効化がなぜ上手くいったのかは気になるが、まずは浦幌御影を消してからだ。あの医者め、遺伝子治療に見せかけて実験していたとはな。まったく邪悪な人間だ。」

「その、『邪悪な人間』の方はちゃんと上手く処理したろう?偽装工作にも活用して一石二鳥だ。」

 昨日の仕事は問題なく上手くいったのだ。今日の失敗もすぐに挽回できる。終わり良ければ全て良し、だ。

「私が忍び込ませた協力者の手引きのおかげだろう。ヤツの部屋の情報の回収と隠滅も急げ。娘の方も注意しておけ。」

「まったく人使いが荒いな。俺は動かせる部下がいなくなっちまったんだぞ。手が回らねぇよ。」

「今、この国で動ける『ハルポクラテス』は私とお前だけだ。何とかしろ。」

「なりたくてなったわけじゃねぇよ……せめて標的が位置情報を出してくれれば、仕事が楽なんだがなぁ。」

「コードVの発動自体はORCAシステムがアラートを出す。だが位置情報はレイヤー1の権限が必要だから、私では取得が無理なのは知っているだろう?昨日は標的が管理局でIDを提示したおかげで居場所が分かったが……誰かのせいで警戒されたから、もう駄目だろうな。仮想世界でクローラーを大量巡回させて、接触で情報取得すれば良い。」

 そう言って、上司は上等そうな葉巻に火を付けて吸いだした。仮想世界では匂いも味もしないため、ただの視覚上のカッコつけに過ぎない行動だ。そもそもこの上司は現実世界でも匂いは感じないのだが。

「現実世界で隠れなきゃいけないとなれば、仮想世界の方で動く可能性は高けぇな。さっきのは管理局がクローラー使用を黙認する、という意味と捉えていいんだな?」

「フン、明言しないと伝わらないのか?少しは頭を使え、人間。」

 旭はぶん殴ってやりたい気持ちを必死でこらえた。仮想世界で殴りかかっても意味が無いことくらいは分かっている。これ以上ここにいてもネチネチ叱責されるだけだ。大げさな動きで椅子から立ち上がりログアウトしようとした旭を、上司が呼び止めた。

「待て、私の権限を一部委譲してやる。まだ気づいて無いはずだが、標的も権限を使える可能性があるのだからな。今度は確実にやれ。」

「ほう、ありがたいな。」

「これくらいやっておかないと心配ということだ。自分の信用が無くなった事を理解したか?」

 旭の視界に裏の上司の名前と共にメッセージが表示された。


『ORCAシステム管理局副局長 ウィルターヴェ氏から、ORCAシステム レイヤー2クラスの管理者権限が一部委譲されました。現実世界での公共アバター使用制限の解除、および仮想世界設定の改変が条件付きで許可されます。委譲を承諾しますか?』


 旭は無言で承諾した。今、口を開けばそれに対してまた嫌味を返されるのが分かり切っていたからだ。

「平和な世界と、社会の秩序のためだ。」

 誰にというわけでもなく、まるで自分自身に言い聞かせるように上司、ウィルターヴェが呟くのが聞こえた。

 そんなことはわかっている。俺たちが正義だ。あの日からずっと。

 旭は何も言わずにログアウトした。

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