第10話

 緑色の髪。腕には鱗のようなものが生えている。優衣を見る目も、人間のものとは違う。まるで爬虫類のような緑色の目に真正面から見据えられ、思わず後退る。

 これが魔族。

 たしかに人型をしているが、人間とはまったく違う。

(怖い……)

 足が震えていた。

「人間の女か。こんな場所で何をしている?」

 ミルーティが言っていた、友好的というのはまったく嘘だったのだろう。こちらを見る目には、新しい玩具を見るような楽しげな色しか宿っていない。

 これでどうやって遊んでやろう。

 そう思っているだけだ。

 魔族の男は手を伸ばして優衣の腕を掴んだ。その手が小刻みに震えているのを見ると、楽しそうに笑みを浮かべる。

「可愛いじゃないか。こんな森の中まで迷い込んでくるくらいだ。暇なんだろう? 俺が遊んでやるよ」

「い、いえ。暇じゃないです。どうぞお気遣いなく……」

 震える声でそう言いながら逃げようとする。だが、足が思うように動かない。それでも必死に逃げようとしたが、小石に足を取られて転んでしまう。

「……っ」

 膝を擦りむいてしまったらしく、ずきりと痛んだ。ドレスも破けてしまっている。

何とか立ち上がろうとしたところで、足を掴まれる。

「や、やだ……やめてっ」

 そこでようやく我に返って声を上げた。

 でも魔族の力は強い。

 どんなにもがいても、その腕から逃れることができない。

「騒ぐなよ。……殺すぞ」

 だがにやにやと楽しそうに笑っていた魔族は、優衣が暴れ出すと途端に不機嫌になった。耳元で囁かれた冷たい声。

 ぞくりとした。

 ただの脅しではない。何の躊躇もなく優衣を殺すだろう。

 これが魔族なのか。

 このような種族と心を通わせることなんて、きっとできない。

 人間など玩具程度にしか思っていない。

 弄び、飽きたら殺して捨てるだけ。そしてここから逃れない以上、きっと自分もそうなる運命かもしれない。

 ミルーティの顔が浮かぶ。

 きっと彼女は、ここにいる魔族がこういうものだとわかって唆したのだろう。

 危機管理が足りなかった。

 それは自分のせいでもある。それでもあの女の企みを見抜けなかったのが、本当に悔しかった。固く閉じた目から零れた涙が頬を伝う。

「……何をしている」

 そのとき、鬱蒼とした森に氷のように冷たい声が響き渡った。

 溢れ出る殺気に、魔族でさえその動きを止める。

 涙で歪んだ視線に、金色の髪がまるで太陽のように輝いて見えた。

「ジェイド……」

 涙声で名前を呼ぶと、彼の表情がますます険しくなった。目の前にいる魔族を、まるでただの人間を相手にしているかのように睨み据える。

 ただならぬ気配を察したのか、魔族が臨戦態勢で立ち上がった。

 優衣はその隙に、何とか立ち上がる。

(どうしよう。このままじゃ……)

 誰もがその恐ろしさを口にしていた魔族。

 自分が迂闊な行動をしたせいで、ジェイドの身も危険に晒してしまうなんて思わなかった。彼は庇うように優衣の前に立つと、不機嫌さを隠そうともせずに魔族を睨んでいる。

(……というか、だ、大丈夫なの? 魔族相手にもその態度で?)

 この場にいなかったはずのジェイドが、このピンチに駆けつけてくれたのはとても嬉しい。もし彼が来てくれなかったら、あの魔族に弄ばれた挙句、殺されていたかもしれない。

 それでも魔族を目の前にしても変わらない、あまりにも尊大な態度に、安堵よりも不安を覚えてしまう。

「俺のものに手を出すとは。死にたいらしいな」

 さらにこのセリフだ。

(ちょ、ちょっと。魔族って恐ろしいんでしょう?)

 侮っているはずの人間にそんなことを言われた魔族は、どうしているだろう。

 優衣は、そっと反応を伺ってみた。さぞかし怒り狂っているだろうと思っていたのに、先ほどまで命の危険すら感じていた相手は、ジェイドを目の前にして立ち尽くしている。

「え? お前、人間か?」

 今まで泣き叫ぶ人間しか見たことがなかったのだろう。魔族は、むしろ戸惑っている。

 ジェイドはそれには答えず、視線を優衣に向ける。

「大丈夫だから、先に帰っていろ。そんな恰好でうろつくなよ」

 言葉と同時に身体が浮かび上がるような浮遊感。

「え、ちょっと待っ……」

 流れる水の音がした。

 我に返ると、目の前には見覚えのある噴水がある。

 別荘の庭園に戻ってきたのだ。

 遠くに、侍女らしき人が歩いている。優衣は、慌てて物陰に隠れる。

 転んでしまって泥だらけだし、膝の辺りは破けて血が滲んでいた。

(人に見られる前に、着替えなきゃ!)

 そんな恰好でうろつくなと言われたことを思い出し、まずは急いで宛がわれていた部屋に戻った。転んで破けてしまった服を脱ぎ捨てて着替えをする。温泉に入る前に着ていた服だが、破れて血がついてしまったドレスを着ているよりもましだろう。

(よかった、服があって)

 急いで着替えを終え、それから部屋を飛び出した。

 まだ魔族とジェイドがあの森にいる。

 この城を取り巻く警備の兵士は王妃がいることもあって、かなりの数になっていた。それを総動員すれば、あの魔族を退けることもできるかもしれない。

 すると、奥から声が聞こえてきた。

「まさか本当に行くとは思わなかったんです。だってこの世界の人間なら、魔族の恐ろしさをちゃんと理解しているはずですから」 

 あの声は歩く災厄、ミルーティだ。

 正直、もう関わりたくなかった。

 でもジェイドがまだ魔族と対峙している。それを伝えなければと、優衣は声のした方向に歩く。

「あの」

 そこにいたのは、ミルーティと先に帰ってしまったはずのマルティ、そして審議会の司会をしていた賢者風の魔導師イドロだった。

 優衣が声を掛けるよりも早く、ミルーティがふん、と顔を背ける。

 そんな態度に、さすがにいらっとした。

「何よ、森に行かなかったんじゃない。だったらわたしが謝る必要なんてないわね。選出者を害する言動を取ったら極刑だなんて、よくも脅してくれたわね」

 途端に廊下に聞こえていた口調とは正反対に、高慢に言い放つ彼女に、優衣はにっこりと笑みを向けた。

 この世界に来るまでは争いなんて嫌いだったし、どっちかというとおとなしい性格だったのに、ここに来て少し変わった気がする。

 たぶん、こんな自分勝手な人達ばかり相手にしているからだ。

 怖い目に合ったのはたしかだから、彼女にも極刑とやらを受けてもらわなければ気が済まない。そう思ってしまうあたり、優衣もまた性格が良いとは言えないのかもしれない。

「行きましたよ、森に。魔族にも会いましたし襲われました。きっとジェイドが来てくれなかったら殺されていたでしょうね」

 たちまちミルーティは青ざめ、少しいい気味だと思っていたが、なぜか他のふたりまで蒼白になっている。

「……な、何か問題でも?」

 個人的ならば大いに問題はあったけれど、罰を受ける予定のミルーティはまだしも、彼らが青ざめる理由が思い当らなくて尋ねる。

「ある。大いにある。魔族を本気で怒らせたら大変なことになるぞ」

「あ……」

 魔族が怒って、仲間を連れてくることを警戒しているのかと納得する。そういえば魔族は強いくせに群れるから、色々と厄介なのだと本に書いてあった。

「あのジェイドのことだ。無駄に魔族を挑発して怒らせているに違いない。一刻も早く王妃陛下を安全な場所に避難して頂かなくては。マルティ、すぐに向かうぞ」

 ひどい言われようだと思う。

 でも、挑発しまくっていたのを目の前で見ていただけに何も言えない。

「何よ、魔族が攻めてくるかもしれないってこと? ちょっと、私を置いていかないでよ」

 ミルーティも慌てて後を追っていき、また優衣はひとりになってしまった。

(えーと、便乗して逃げた方がいいのかな?)

 この様子ならば会食も中止だろう。

 だがその大騒ぎになっていた別荘に、悠然とジェイドは帰還した。騒がしい様子に、その形の良い眉をひそめる。

「何事だ?」

「ジェイドが魔族を怒らせたから、すぐにここから逃げるんだって」

 みんな自分のことで忙しく、答える余裕がない様子だったので、仕方なく優衣が答えた。

 すると彼はさらに不機嫌になる。

 こんなにも美形なのに、ほとんど機嫌の悪い顔をしている気がする。

(もったいない……)

「違う。俺が怒らせたのではなく、あいつが俺を怒らせた」

 でもその口から出た子どものようないいわけに、思わず笑い出しそうになる。

 状況的にそれは間違っていない。

 魔族が優衣を襲ったのが、最初の前提だから。

(でもそれってわたしが襲われたから、怒ったのかな?)

 そう思ってじっと彼を見つめると、ジェイドは視線を反らした。

「せっかく釣ったのに傷物になったらどうしてくれる」

(……うん、やっぱりそういう意味だよね)

 ほんの少し落胆しながら、彼に気付かれないように溜息をついた。

 ジェイドはそのまま優衣の傍を通り抜け、王妃を連れて逃げだそうとしていたイドロとマルティを見つけて声をかける。

「逃げる必要はない。二度とこの国には近寄らないだろう」

 それは一国の王妃に対する態度ではない。

 でも、誰も咎めない。

「そう。わかりました」

 王妃も気を悪くした様子もなく、かえって安堵したように微笑んでいる。

 でもその微笑みはどこかぎこちない。

 まるで作り笑いのように。

 それどころか、皆、怯えたようにジェイドの視線から顔を反らしている。

 何より、今とても不思議な言葉を聞いたような気がする。

 人間よりも遙かに強い魔族。

 間近でそれを見て、本当に危険だと思った。

 これは話が通じるような相手ではない。彼らにとって人間なんて、玩具と同じだ。

 だが、その魔族を単独で撃退してしまうジェイドはいったい何者なのか。

 そう。彼は特別だ。

 初めて王城を訪れたときから思っていた。

 ジェイドがいるだけで、場の雰囲気が変わる。いつも不機嫌そうな彼に、すれ違う人達は怯えたような視線を向けていた。王妃でさえそうだ。

 彼に逆らうのは、空気の読めない者だけだ。

(そう、この人のような)

 優衣は聞こえないように、大きく溜息をつく。

「あなたのせいで魔族が怒ったらどうしてくれるのよ。もし何かあったら……」

 審議会でもジェイドに文句を言っていたミルーティが、今後こそ優位に立とうとでも言うように、彼のもとに歩み寄る。

 でもその足は、ジェイドの凍りつくような視線を受けてぴたりと止まった。

「優衣をそそのかしたのはお前だな」

 たちまちミルーティの顔が青ざめ、がくがくと足を震わせる。

「わ、わたしは」

 まさかここまで、本気で殺気を向けられるとは思っていなかったのだろう。

(女の人が怯えている様子は、あんまり気分がいいものじゃないわね)

 彼女の言動には本気で腹が立った。でもその心底怯えた顔を見る限り、もう罰は充分に受けている。

 だから優衣は、ジェイドから庇うようにミルーティの前に立った。

「だめだよ。ほら、選出者を害したら厳罰だって!」

「……お前は」

 彼は呆れたように溜息をついた。そして、ミルーティから興味を失ったかのように視線を反らす。

「帰るぞ」

 そう言われて手を差し伸べられ、素直にそれを握った。

 するとジェイドは、ようやく機嫌が直ったように笑みを浮かべる。

 嫌味のないその笑顔は、本当に綺麗だった。

 きっと見惚れていたのだろう。

 だからジェイドが向けたその笑みを見て、周囲がざわめいたことにまったく気が付かなかった。


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