◆1 あの世?(ゲームのステージ)に舞い降りた朱鷺──生まれ出ずる悩み、ってか!

[11月8日“土”曜日]


 朱鷺が目を開けると、一面青一色だった。目玉をグルグルと動かしてみる。ほかに何も見えない。自分はしゃがんで膝を抱えていることは分かった。まるで母親の胎内で丸まって、これからこの世に生まれ出づる瞬間のように、まさに準備段階に入った胎児の気分だ。

 しばらく目の前の青い物体を眺めていると、突然それは動いた。何なのか見当もつかない。朱鷺は首を捻って、何が我が身に降りかかったのか、必死に思い出そうと頭を働かせた。

 ──そうだ、死のうとして思い留まった。

 ──そしたら……?

 ──女だ!

 ──女の声がした!

 ──バランスを崩して、女の顔が目の前に……

 ──その先がどうしても思い出せない。

 ──なぜだ?

 ──死んだから?

 ──死んだのだ!

 ──だからその先の記憶がないのだ。

 ──結局自分は死んだのだ。

 ──あの声、あの女のせいだ!

 ──死ぬ必要はなかったというのに!

 ──あの女は誰だ?

 朱鷺は後悔した。だが既に遅すぎた。女を恨み続けることでこれからの死んだ人生を生きてやると心に誓った。

 ──それにしてもこの青い壁のような物体は何なのか?

 上下左右にと忙しく動いてちっとも止まる気配もない。一度両の掌で瞼をこすり、まなこを引ん剥いて正体を探ってみる。ぼやけた焦点は次第にはっきりと合ってきた。何か縫い目のようなものが確認できた。青い糸がほつれている。

 ──着物なのか?

 顔を離したり近づけたり、目玉を転がしたりするうちに、段々はっきりと形が見えてきた。人の背中のようだ。

 ──そうだ、人の後姿だ!

 ──間違いない!

 朱鷺はようやく明確な全形を捉えることができた。

 ──誰だろう?

 ──ここは、あの世か?

 ──そうか、死んだなら、あの世に違いない。

 ──あの世なら、この青い人影は……

 ──人じゃないのかもしれない!

 ──とすると……

 ──閻魔さんか!? 

 朱鷺は勇気を出して、尋ねてみることにした。

「おめえ、エンマさんか!」

「ウワァーッ!」

 閻魔さんが急に振り向いたと思えば、腑抜けづらが眼前に迫った。と、尻餅をつきやがった。「ビ、ビックリするだろうが!」

「おめえ誰だ? エンマさんにしては腑抜けたつらだ……」

「バアさんよ、ここ大丈夫か?」

 人差し指で自分のこめかみを突っつきながら見下ろして声を荒げる。「そんなとこでなにしてる!」

 ──睨みを利かしたつもりなのか?

 力を込めた目は、切ないほどショボくれて滑稽に映った。とぼけ眼が何とも悲しくなってくる。

「ここ……どこだ?」

 朱鷺は、ぼんやりと辺りを見回した。

「やっぱ、ボケてんのか。しょうがねえなあ」

 舌打ちしながら一旦立ち上がると、中腰で朱鷺の顔を覗き込む。「おい、どっからきた? 分かるか?」

 声は聞こえたものの、景色が朱鷺の頭を混乱させ、脳ミソまでは届かない。首を捻って己の記憶の欠片と照合を試みる。

「ここ、見覚えあんだけど……どこだ?」

「ダメだ。おい、あっちで待ってろ。あとで交番連れてってやるからよ。いいな、分かったか?」

 指差す方向に目玉を転がし、直ぐに元に戻す。どうやらここは、ガソリンスタンドのようだ。

「おめえ、どっかで会った……よな? 見覚えあんのに、思い出せねえ。おめえの面、よーく知ってんだ、オラ……」

 青いツナギを着た腑抜け面閻魔を一瞥して朱鷺はゆっくりと立ち上がると、辺りを眺め回しながらテクテクと事務所へと足を運び、ドアを開け窓際の椅子に腰かけた。

 窓から外を覗くと、青いヤツはホースとブラシを手に取り洗車を始めた。よく見ると、尻辺りがびしょ濡れだった。しきりに下半身を気にしている素振りから察すれば、どうやら間に合わなかったようだ。もよおしたことすら忘れるほどの仕事熱心には感心するが、子供じゃあるまいし……どれ、大人のたしなみでも教えてやるか、と徐に腰を上げ、ドアを開けて外へ出ると、そっとヤツの背後に近づいた。

「おめえ、小便ガマンできんかったんか!」

 耳元で苦言を呈してやる。

 右の耳をかばおうとして咄嗟に右腕を振り上げた瞬間、ブラシが高々と宙に舞い上がった。と同時に左手のホースの先端からは、ポマードで固めたリーゼントめがけ容赦なく水を噴射してくる。その勢いに押され顎を突き上げた。朱鷺も真似して上を向く。と、真っ青な天高く頂点を極め静止したかに見えたブラシが、目前の黒塗り高級車のボンネットを着弾地点と定め、次第に速度を増しつつ落下を始めた。ヤツは反射的に、ホースを離し、身を乗り出して、ボンネットに着地寸前のブラシの柄の端を拳でぶん殴り前方へと押し出した。ブラシは回転しながら大きく弧を描き、給油中の運に見放された風情をまとった従業員の額を直撃して、その足元に落ちた。

 彼は額をさすりながらこちらを鋭い目つきで睨む。だがすぐに笑い出した。

 ヤツは所在無く頭をかきながら首をちょこんと折って、へつらうように侘びを入れる。悪びれる様子からすると、どうやら向こうが先輩なのだろう。と、ヤツはゆっくりと朱鷺に向き直った。

 朱鷺は後ろ手に手を組み、様子をうかがった。前髪がペタッと額に張りついて、可愛らしいおかっぱ少女だ。いよいよ腑抜け面に磨きがかかる。

 ──さもありなん!

 朱鷺には合点がいった。笑い者の要素は極まったなり、と。同時に腑抜け閻魔の将来をも案じてやる。笑い者として哀れな人生を送るに違いない。

 ずぶ濡れた根っからの道化者は、腰に両手を当てると、下を向きながら一度だけ溜息を漏らす。面(おもて)を上げ、朱鷺の顔を見つめた。で、仕方なく見つめ返す。お互い無言でしばらく見つめ合った。

「そんなに見つめたら恥ずかしいでねえの……」

 胸辺りをポンと軽く叩いて顔を両手で覆い、身をよじって朱鷺は恥らう。顔も耳も熱くなった。

 ヤツは朱鷺の仕種に胸キュン状態に陥ったのに違いない。一歩右足を引き、身を震わせる。さぞご満悦なのであろう。その様子に朱鷺も満足した。

「な、なに赤面してやがる、なんか用か?」

「おめえ、おケツ、びしょ濡れでねえか」

 朱鷺は上目遣いにしばし呆然としたあと、頭のてっぺんから爪先まで、舐め回すように視線を這わせると、突然笑い出した。「ワザとか? ワザとだな。それなら誰にも気づかれねえな。水浴びとは、考えたなあ……」

「なに言ってんだ?」

「とぼけやがって。ここよ、ここ」

 無防備な股間を、右手の甲で二度触れてやる。と、「オウッ!」と小さく叫びながら咄嗟に腰を引いて目を引ん剥いた。

「おい、ババア、なにしやがる! 人の大事なとこを……」

「おめえ、その歳でお漏らしとはなあ……」

 朱鷺は手で口を覆い、小馬鹿にして笑いながら肩を竦めた。

「ち、ちがう……バアさんが驚かすから、尻餅ついたんじゃねえかよ!」

 慌てて言いわけを繕う。

「締まりのねえホース持ってんだなあ……」

「ちがうって! これは……」

「ほれ、ホース止めろや」

「だから、これは水だ、水。ただの水! 分かるか?」

「そうだよ、水だよ、早く止めろや、もったいねえ!」

 朱鷺はホースの先端から噴き出る水を指差した。

「あっ!」

 朱鷺の指先の方向を確認して小走りに水源の栓を閉めて戻ると、ゆっくりと傍まで歩み寄り、前に立った。朱鷺はまだホースの先端を見つめたままじっとしている。

「やっと止まったな……」

 完全に止まるのを確認してから顔をヤツに向けた。

「バアさんよ、おとなしく待ってろ」

 高い所から見下ろして言い放つ。

「おめえも止まったか? 今度はガマンしねえで、さっさと便所に走るんだぞ」

「ちがう!」

 滑稽な形の眼に力が込められた。睨みつけたつもりだろうか。

「まあ、誰にもあることよ。恥ずかしがらねえでもええよ。オラ、黙っててやるよ。安心しな」

 朱鷺は真顔で口に人差し指を当てながら片目を瞑った。

 ──ウインクで脳殺してやる!

 顔をしかめたのとはわけが違う。深い皺の上に皺が重なった大人の色気、皺の上塗りというなかれ、皺は恥ではない。恥の上塗りは決してしないつもりだ。これが正真正銘の熟女の色気というもんだ。どうだ、参ったか、てな具合に誇らしげに胸を張る。

「なん度言えば分かるんだ……」

 ヤツは朱鷺の魅力に打ち負かされたようで完全に脱力した。「もう昼だな。ちょっと待ってな」

 朱鷺に踵を返すと、事務所の方へ駆け出す。

「早く行け。ガマンするこたねえ。たんと出してこい」

 暖かい声援で背中を押し、大人への一歩を歩ませてやる。これでしーしーは上手にできるはずだ。

 しばらくして事務所から戻った腑抜け面閻魔は、真新しい青いツナギに着替え、白いタオルで濡れた髪を拭きながら戻った。

「さあ、行くぞ。交番連れてってやるからよ。自分で説明するんだぞ、分かったな?」

 ガソリンスタンドの右斜向かいの交番を指差す閻魔の面を見つめ、どこか見覚えのあるその面の記憶を辿りながら何か問いかけられた拍子に、反射的に素早く首を縦に折って頷いた。

 朱鷺の先に立ち、手招きして促される。スタンドを出て右に折れ、交番の真向かいの薄汚い駄菓子屋か何かの商店をすぎ、てくてく歩いた。

 朱鷺の視線はヤツの顔に釘付けになってしまった。

 ──コイツはどこのダレだ?

 ヤツが歩を速めると、朱鷺も歩調を合わせピタリと横に張りついてやる。やはり、その腑抜け面を見つめたままで。

 二十メーターほど行って横断歩道に差しかかり、赤信号で立ち止まった。朱鷺は、腕組みをして俯く。かと思えば、キョロキョロと四方八方に目玉を転がしては、いちいち首を傾げ、カメレオンになる。

 ──ここは、どこだっけか?

 ──確かに前に見た覚えがある……ん~思い出せねえ……

 信号が青に変わった。デジャブの体験真っ最中に渡り切り、ピタリと足が止まった。ヤツはといえば、斜めに横断して左に折れ、既に交番の前まで辿り着いていた。

 振り向いたヤツは、朱鷺に駆け寄ると、そっと顔を覗き込んできた。滑稽な形の目が朱鷺のそれを捉えた。

「ここ……どこだ? オラ、なしてこんなとこにいるんだ?」

「ボケてんだから仕方ねえよ……」

 そっぽを向いて呟いた。

「オラ、ボケてなんかねえよ」

「さあ、早くきな」

 すかさず朱鷺の手を取って歩き出すと、またヤツの顔をうかがった。

「おめえ、オラのこと知らねえか?」

「知らねえ!」

 きっぱりと言った。

「オラ、おめえのこと、よーっく知ってんだ……」

「じゃあ、オレはダレだ?」

「分からねえ。それが分からねえから不思議なのよ」

「分かったから、早く歩け。交番で聞いてみろ」

「交番で聞いたら、分かっかなあ?」

「そうよ、交番で聞くのが一番よ。さあ行こうぜ」

「ああ……」

 朱鷺の手をグイッと引っ張って歩を速める。

 交番が近づいてくる。

「オレにババアの世話をする義務はねえ」

 朱鷺から顔を背けて呟く。

「なんか言ったか? おめえとは、長えつき合いになっからよ、よろしく頼んだぜ」

 ヤツの肩が一瞬跳ね上がった。

「おい、なんで長えつき合いになるんだ、オレたち?」

「さあ、なしてかなあ? そんな気がするだけだ。おめえが気にするこたねえよ」

 直感に従って発言する。一瞬、ヤツがどうにも腑に落ちぬ顔をしたのを朱鷺は見逃さなかった。

 やっと交番の前に到着した。朱鷺の背に手を添えて交番の中に促すと、巡査に目配せする。どうやら顔見知りらしい。

「いいか、ちゃんと説明して、家に帰るんだぞ、分かったな?」

 朱鷺が交番の中へ入った途端、全速力でその場からトンズラしやがった。

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