第五話

 咲坂実裕は一面砂だらけの砂漠のような場所を歩いていた。歩きながら見回すと視線の先から風景が切り替わり、実裕の歩いている場所はビル街になったり地下道になったり墓地になったり雑木林になったり滝壺になったり崖っぷちになったり隧道になったり海岸になったり橋の上になったり高原になったり草原になったり月面になったりした。次々に切り替わる風景を眺めながら、実裕はこれはいったいどうしたことかと思った。いつのまにか股間のうずきは去り、便意も快感も無くなっていた。なにか思い出せることはないかと考えてみたけれど、実裕は自分がどんな仕事をしていたのか、どんな街で暮らしていたのか、なんという駅を利用していたのか、なにも思い出せなかった。咲坂実裕という名前だけは覚えていたが、自分の性別は思い出せなかった。実裕は立ち止まって自分の体を見下ろした。白っぽい痩せた身体には性的な特徴がなかった。肋骨の浮き出た胸には膨らみがなく、股間にはペニスもヴァギナもなかった。手で探ると尻はあり、尻にはあるべき穴があった。会陰から前はマネキンのようになめらかで、穴も突起もなにもなかった。


 実裕は自分以外の人のことも思い出そうとした。家族はいただろうか。親しみを感じる人はいただろうか。卒業アルバムに載っていた人たちはどうだろうか。記録として残されているのに記憶の中ではたしかな断絶があり、アルバムの中と現在がつながっているとはとても思えなかった。写真を見て記憶が呼び起こされていると錯覚しているけれど、写真なしでは思い出せないような記憶を記憶と呼んでいいものだろうか。実際のところそれは写真によって捏造された記憶かもしれないのだ。ありもしない記憶が写真によって確かに存在したことになってしまう。しかし写真などというものにそれほどの信憑性は本当にあるのだろうか。あのアルバムに載っていてネットで探した人は男だっただろうか、女だっただろうか。好きだったから検索したのだと記憶しているのに、性別がわからない。漠然と好きな異性だと思っていたけれど、自分と同じ性別だったのか異なっていたのかも定かではない。そもそも自分の性別もわからないのだ。もはや性というものがここには存在していないのかもしれない。他にはどんな人が思い出せるだろうか。実裕はこの際思い出せるならば誰でもいいとさえ思い始めた。思い出せるのは不快な連中と無害な連中ばかりだった。小宮山。小宮山のことは覚えている。嫌なやつだった。小宮山のことを思い出しながら足を一歩踏み出すと足下から床が発生し、青い衝立で区切られたオフィスフロアが現れた。それは小宮山のいたオフィスだったが今は誰の姿もなかった。小宮山千春。小宮山の顔や姿は容易に思い出すことができるのに小宮山が男だったのか女だったのかは思い出せなかった。汚物が絡みつくような声を思い出そうとしてみたけれど、不快感だけが呼び戻されて小宮山の性別につながる要素は何一つ出てこなかった。迷路のようにフロアを区切っている衝立の上からオフィスを見回して小宮山を探す。あれほど会いたくない存在だった小宮山の姿を求めていることが不快だったが、はっきりと姿を思い出せる小宮山の性別が分からないのはもっと不快だった。実裕が小宮山を探すべく足を進めると無意識に期待したのとは異なる現象が起きた。意外なことが起こって初めて、無意識に期待したものがあったと知る。実裕の足は動かない地面の上で自らの体重を移動させるのではなく、自分を軸にして地面のほうを押し出して移動させていた。実裕が前進しようとすれば世界の方が後退し、実裕が曲がろうとすれば世界が反対に回った。慣れない移動方法のゲームを初めてプレイしているような感覚で一歩ずつ起こる出来事を確認しながら足を動かした。低めの衝立の立ち並ぶオフィスフロアが移動した。実裕は位置が変わらないまま視点だけが変化していく感覚に慣れず、吐き気を催した。吐き気に耐えながら足を進めると饐えた臭いが漂ってきた。すぐにそれが小宮山の発していた臭いだとわかった。実裕は立ち止まって周りを見回した。最初にいた場所からはだいぶ移動したはずだが衝立の迷路はどこも同じような景色で位置はわからなかった。そのまま立っていると周りにあった衝立が移動し、通路に立っていた実裕はマッチ棒のパズルのようにいつのまにか衝立で区切られた区画の内側に入っていた。広めの区画には大きめの机があり、シャツに大きな汗染みを作った背中がその机の半分ほどを隠していた。少々脂っぽい髪をひっつめて短すぎるポニーテールを結った後頭部に見覚えがあった。小宮山だ。小宮山はモニタに顔を近づけて猛烈な速さでキーボードを叩いていた。静まり返ったオフィスに夕立みたいなタイプ音をばら撒きながら小宮山はキーを叩きちらしている。画面には判読できない文字がものすごい勢いで打ち出されていた。実裕がその後ろ姿を眺めていると、小宮山は手を止めて椅子ごと振り返った。椅子は無理やり首を拗じられた子猫のような悲鳴を上げた。

「なんですかネ、咲坂さん。用があるならネ、私があなたの席に行くからネ、メッセージくださいって言ってありましたよネ」

「あ、いえ」

 用があったのではなく行きがかり上来てしまっただけだとも言えず、実裕は言葉を濁した。珍しく見下ろすことになった小宮山は思ったほど大きくは見えず、いつも感じていた威圧感のようなものも感じなかった。小宮山はたっぷりと肉付きのいい身体つきで、胸は豊かだったが腹はそれ以上に豊かだった。力士のように豊満なバストからは性別はわからなかった。実裕はふと自分が裸だったような気がして身体を見てみたがちゃんと服を着ていた。いつどこで着たものなのかは思い出せなかったし、そもそもこの場所へどうやって来たのかも定かではなかった。

「あなたそういうとこですよネ。細かいところをきちんとネ、言われたとおりにやる。そゆのを軽視するのはネ、感心できませんネ」

 小宮山は相変わらずねちねちと話しているが、いやな上司的類型話法には性差が含まれず、男性であっても女性であっても成立しそうな位置を保っている。普通はこれに男性的あるいは女性的話法の定形を乗算することで女性上司的類型や男性上司的類型を構成するのだろうが小宮山はそこに踏み込まない。しかしいちいちカタカナのネをつけて話すことで小宮山ライズされている。

「なにも言うことはないんですかネ」

 黙っている実裕を見上げて小宮山が言った。見る間に小宮山の陰影が単純化され、服の皺が記号化されていく。背景は写実的なタッチで絵画化され、前景の小宮山は次第に情報量を失い、平板化されていった。

「なにか言いたいことができましたかネ。このようにアニメ的記号化が行われるとネ、視覚から得られる情報が減るのでネ、髪の毛や目の色とか髪型なんかでキャラクタをアピールするしかないんですネ。学園モノでも髪が緑とピンクと黄色とかネ、そんな馬鹿げた学園があるもんですかというネ。話し方だってわかりやすく個別化するためにネ、現実にはありえないような口癖を設定したりネ、語尾に馬鹿げた一貫性をもたせたりするわけなんですネ。わたしのこのネもネ、ついてるでしょ、カタカナのネがネ、これなんかもネ、虚構的キャラクタライズの必要からそうなっているんですネ。アニメ的記号化でもこういうわけですからネ、文字だけになっちゃう場合ネ、そりゃあもう、話法は類型化せざるを得ないわけですネ」

 小宮山が椅子から立ち上がるのに合わせて実裕の身長が縮んだ。同時に背景が縮小された。

「カメラのズームを引きながらカメラ自体が被写体に近づくとネ、その結果として被写体の大きさは変わらないまま背景だけが遠ざかるような効果を得ることができるわけですネ。わかりますか」

 小宮山は輪郭を波打たせながら少しずつ大きくなっていくように見えた。小宮山が大きくなっているのか背景が小さくなっているのかはよくわからなかった。

「本来人間の目とカメラはまったく異なるものですネ。目は単なる受像体だけれどそこから送られた信号は脳で処理されます。人は脳で処理された結果のものを目で見たと錯覚する。脳による心理的効果を再現すべくカメラワークが研究され、映像作品を見慣れた人々は映像で見た処理を無意識的に視覚処理に取り込む。すると映像演出的効果を現実世界でも無自覚に受け取ることになって、視覚は虚構と現実が互いにフィードバックを与えてどっちがどっちを参考にしているのかわからない事態を招く。もしも映像作品がこの世になく、映像的心理演出技法がなかったら、視覚が受ける心理的影響って今のような形だったのでしょうか。『戦艦ポチョムキン』の頃の人々と今の我々、はたして視覚に受ける心理的影響は同じなのでしょうか。小宮山の声のまま小宮山の口癖を失った言葉がナレーションのように響き、小宮山によって開かれたはずの「が閉じられないまま中身が溢れ出て周囲を侵食し始めた。眼の前の小宮山は輪郭を揺らしながら実裕を見下ろしている。

「小宮山さん」

 実裕が呼びかけると新たな「」によって事態が収拾されたかに見えたが、実際のところは「」が入れ子になっただけで小宮山が開いた「は依然閉じられていない。さらに文中に登場したこの本来の意味を持たない「がなんらかの世界を開いているとすると、閉じられない「が連発されていることになる。

「」」」」」」

 実裕はこのような発言によって事態を収拾してから言った。

「つかぬことをお伺いしますが、小宮山さんは男なんですか、女なんですか」

 アニメ的記号化をされた平板な小宮山は輪郭のゆらぎを高速化しながら目を見開いて記号的に驚いた。揺らいでいた輪郭が膨らんではじけ飛び、着ていた衣服が吹き飛んで小宮山は全身生白い色で塗りつぶされた姿になった。

「なんでそんなことが気になるんですかネ、あなたは」

 そう言うと小宮山の乳首が大きくなり、乳輪が色づいた。

「胸がこんなふうだと女ってことになるんですかネ。きわめて記号的ですネ」

 小宮山の股間は黒っぽいモザイクになっていて、動くたびに少しずつ色が変化した。

「どうして男なのか女なのかって二択なんですかネ。なぜ虚構内人物に性別が必要なんですか。虚構内に登場人物が現れたときにネ、名前や口ぶりから性別を類推することは多くの場合無意識に行われているんですネ。でもそんな必要が本当にありますかネ」

 小宮山の胸は乳首が目立たなくなり、まわしをつけた力士の姿になった。

「こうなれば男ですかネ。こんなことに意味がありますかネ。例えばわたしが小宮山由美子とかいう名前だったらどうですかネ。容姿の描写が一行もなくても女だと判断されるんですネ。でもなぜです。ただ名前が由美子だというだけですネ。由美子がトランスジェンダだという可能性はどっか行くんですネ。普段多様性ということを声高に言う人でもネ。虚構内の由美子は女だと思ってしまうのですネ。不思議ですネ。そこへ行くとわたしは千春ですネ。一人称はわたし。二人称はあなた。咲坂さんのことをあなたと呼び、自分のことはわたしと言う小宮山千春。どうやら太っているらしいこと、咲坂さんより立場が上であるらしいこと。そういった情報だけが与えられたんですネ。千春は男なのか女なのか。あまり疑いもせずどちらかを想定する人が多いでしょうネ。それ以外の選択肢はどこ行ったんでしょうネ。あなたはネ、自分の性別もわからないわけですネ。で、男なのか女なのかと考えるわけですネ。どちらでもないという可能性は無意識かつ無自覚に捨てられたわけですネ」

 そこまで言うと小宮山は顔を実裕の眼の前に突き出し、薄笑いを歪めながら膨らんでいった。顔だけで実裕の身長ほどにも膨張したあと、ものすごい音を立てて破裂した。あたりに腐乱した生ごみのような臭いが漂った。股間がうずく。実裕はなにが股間のうずきを促しているのか考えようとしたがわからなかった。女性的に記号化された小宮山の裸体も力士的に記号化された小宮山の裸体も実裕に性的な興奮はもたらさなかった。なのにはじけ飛んだ小宮山の残していった腐敗臭に包まれると股間が加熱した。もはや理由のわからない要素をトリガにして実裕の体は反応するようだった。臭い。不快な臭いだ。股間がうずく。

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