第八膳(前編)孤独を癒すラーメン

 それは全く突然のことだった。


 弥生ちゃんはカナダに旅立った。

 俺の所に立ち寄ることはなく。ドアポストに『今から行ってきます』とだけ書かれたアノマロカリスのポストカードを残して。


 にぎやかで明るくなっていた部屋、それが元通りの空虚な空間に戻っていた。


 まるで白昼夢でも見ていたようだった。

『大事なものは失ってはじめてわかる』

 よく聞く話だが、まったくもってその通りだった。

 

「まだあきらめが付くタイミングだっただけマシななんだろうな」

「それに一人の気楽さには慣れてるしさ」


 気づくと誰にともなく話していた。


 すっかり日も暮れ、電気をつけ忘れた部屋は薄暗い。   

 と、小さくお腹が鳴った。

 そういえば昼ご飯も食べていなかった。


「こんな時でもお腹だけは空くんだよな」


 そうだな、こんな時はラーメンがいいかな。

 うん。久しぶりにラーメンを食べたいな。


「久しぶりにあの店にいってみようか……それとも自分で作ろうか」


 まぁ時間だけは持て余しているわけだし。


 とりあえず財布をもって靴をひっかける。

 扉を開けると空一杯にオレンジ色が揺らめいていた。

 もうすぐ晩御飯の時間なのだ。


「……弥生ちゃん、お腹すかせてないといいな」



◆◆◆



 結局、外で食べることを選んだ。久しぶりにあの味を食べたいと思ったから。

 だけど、前の職場近くに店を構えていたラーメン店の扉には『閉店』の文字と共に貸店舗の張り紙があった。


 昭和の職人気質で頑固な大将と、帰り際「飴ちゃん食べ!」と両手いっぱいに黒飴を持たせてくれる奥さんが経営していた。

 あともうひとり、弟子みたいな若い男の子がいたはず。金髪で鼻にピアスをつけた、いかにもやんちゃしてそうな風貌の。継がなかったのかな。


 閉店のことを早く知っていたら来ていたのに。ほら、まただ。大事なものは失ってから気づく。

 残念だ。口の中はこの店の味を欲していたのに。この鼻だってラーメンの匂いを思い出して……。


 おや?

 この匂いはまさか。


 警察犬のように鼻をひくつかせ、風と共に漂ってきた匂いを辿る。

 そうしてたどり着いたのは一軒のラーメン屋。しかも、あの店と同じ名前の、二号店。

 その名も『シーラカンス』。


 お弟子さんの店かもしれない。だとしたら、あの味が食べられるかも。

 そんな期待と、間違ってたら落胆するだろうなという不安を胸に、暖簾をくぐった。

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