宇宙背景放射

坂本忠恆


「宇宙の終わりについて、科学の教える黙示録には、いくつかの異なるシナリオがあるの。でもね、終わり方なんて、わたしにはどうだって良いことよ。そうに違いなくて?」

 死が怖いという芳香よしかに、惟子ゆいこはこんな話をして聞かせた。

「惟子ちゃん。あなたは死ぬのが怖くないのかしら」

「わたしには分からないわ。芳香さん。お話には必ず終わりがあるけれど、良い終わり方と、悪い終わり方とがあるでしょう? 人生も、宇宙も、同じことよ」

「でもね、でもね、やっぱり死は恐ろしいわ。お話は、わたしたちの知らないところでも、ずっと続いていくものじゃない。お話の終わり方の良し悪しというものには、そのような前提があるじゃない、でも、死んでしまえば、ほんとうに御終いなのよ」

「なら、わたしたちの人生は、悪いお話よりも一層悪い終わり方が約束されてしまっているのね? あなたはそう考えているのね?」

「怖いことは言わないで」

「あなたが仰ったのって、そういうことよ」

「うん、だからね、わたしは怖いの」

 惟子が芳香の頬をつっつく。

「そんなことを仰るようじゃ、信心が足りなくってよ。芳香さん」

「まあ、あなたには言われたくないわ」


 二人は笑う。声は、木々のさざめきに紛れて、消えてしまう。吹き抜ける春風は、枯芝の片を僅かばかり路へ運び出したが、二人の時間までもは運ぼうとしない。この、真綿のような無力の中の暖かさが、二人を脱力させる。

 二人の座る西洋芝の心地よい小さな丘からは、非対称な校舎の左翼から突き出た時計塔が望める。その針も、彼女たちをここに留めておくべきか、否か、少しく逡巡している。

 惟子は膝に乗せた空のお弁当箱をそのままに仰向けに寝転がると、男の人のするように両の手を頭の後ろで組んで雲を眺めた。隣に座る芳香は、首だけを傾いで、そんな彼女に視線を落とした。

「あなたもおやりなさいな」

「はしたないわ」

「ちょこ才っ」

 言うと惟子は上半身をぐいっと持ち上げて、芳香のセーラーの後襟を掴むと、おのが身諸共彼女の身体を芝生へ横たえた。

「きゃっ」

 粗野に倒された芳香のセーラーは肩が怒ったようにずり上がって、身ごろの下からは肌着のシャツが覗いた。

「あの雲」

 惟子はそんな芳香の様子にかまうはずもなく、指さし雲を見るよう示した。その先には尾を巻くようにして幾筋も畳なわる巻雲が、セラフの羽のような威厳ある優しさで、天を朧に隠している。

「地球と宇宙の境目に、あの雲はあるのよ。あの雲は雨を降らさないのよ。私たちはね、こうやって見上げることしかできないのよ」

「どのくらいの高さなのかしら」

「とても高いところよ。新式の爆撃機が、丁度あのあたりを飛ぶのかしら」

 聞きながら芳香は、雨を零さぬ雲の高さを飛行する爆撃機の、零し去る死の一塊の辿る距離を想見しながら、何故に大空の持つ印象の、「未来」、「自由」、「恩寵」など、ばかりであるのかを、訝しく思った。風を切る爆弾の速やかなる落下と破壊。未来が空にあり、この途方もない距離を自らもまた往かねばならぬというのなら、反対に死があの空から訪れることもまた道理というものである。そして、上昇するよりも、堕落することの、何と容易であることか。未来は果たして、我々の進むその道筋に於いて、その旅程に準えるべきものとして存するのか。よしんばそうであったとして、人生という死の定められた不条理な物語は、結末を空にではなく、爆弾の辿るべきあの定めと同断に、地面への堕落の中にこそ求めるのではあるまいか。

「空と宇宙は、違うもの? 地球含むところまでが空で、それより先が、宇宙なの?」

 芳香は漠然とした調子で、こんな埒もないことを惟子に訊いた。

「おばかさん。そんなことは辞書か百科事典にお聞きなさいな。それに、きっと答えなんてどこにもないわ。つまりそういうことよ」

「どういうこと?」

「そんなこと誰が気にするの? おかしな芳香さん」

「私には重要なことよ。惟子ちゃん。とっても大事」

 惟子は不思議そうに芳香の方を向いた。そして、何かに合点が行ったのか、行かぬのか、分からないが、また空に顔を向けて、目を閉じ、春風に前髪を遊ばせつつ、どこか楽し気に鼻を軽く鳴らした。


 そのまま、二人そろって同じように、芝生の上にしばらく寝ころんでいた。

 時計台は頃合いを見て、午後の課業の始まりを告げる鐘を鳴らした。

「午後の授業は何だったかしら」

 惟子は立ち上がるとスカートをはたきながら言った。書写と外国語だと芳香が答えた。聞くと惟子は芳香の手を取ってサボタージュしましょうと誘い、空けた弁当箱を片手に躊躇う彼女を引っ張って、天文台になっている旧校舎の塔屋へ向かった。道すがら、芳香の目の端で、針を午後一時に垂垂とする間の抜けた時計台の顔が、街路樹の梢の下に落ち隠れていった。時計台には思いもしなかったことだが、今彼はこの二人の乙女の間に、本来あってはならぬ不正の時の流れるのを刻むのである。教室にいては見られることのないあられもない文字盤の姿の、二人の目に触れなかったことは幸運であろう。罪を犯すことの悦びは、(このような些細なものであればこそ)それを示す実際的な姿には、そこはかとない痴情とでも呼ぶべき淫靡さが宿るものである。インモラルをそれと自覚しきらぬ半覚醒の眼で玩弄し得る不敵さは少女性の特権である。もしもそれに想到してしまえば、時針は抜き足を止めてたちどころに空転し、恥らいは憚りを失し、少女を一人の女へと、悉く変えてしまうのであるから。


 旧校舎の屋内には人の手を半ば離れた奔放な自然の狗盗のような蔓延りが、古した手すりの木目のように暖かに浮かんで来ており、空間は好ましからぬかびの臭いさえも着こなして、人の住処にあっては退けるべき退廃の徴もここでは所々に所を得、同じく人の世のさだめに細やかながら逆らえる二人の不良少女は、自分たちの不正に聊か穢れた心身がこのかびの臭いの中に相容れていくのに、ある種の不貞な悦びを見出した。そして、惟子などは窓枠に積もったかびの絡んだ黒い埃を指でなぞってみて、その不浄の指先を芳香に突き付けて、そんな風にして二人でじゃれあったりした。二人は、自らわざと穢れていくのに、名状し難い痛快な悦び、不安からの解放の陶酔を、感ずるのである。

 如上のような、少女の持つ、醜きもの、汚れしものを受け入れそれと同化しようとする冒険心には、男児のそれとは違う種の悲壮さがあるものだが、醜汚を己が身に受くるばかりではなく醜汚の中に己が身を溶かし込まんとする投身は、以後永遠に訣別するであろう男の子たちへの最後の餞でもあるのである。まるで彼女ら自身が、彼らの許へ投げ出された花束であるかのように、それは行われる。

 然るに、少年たちは彼女らのするどこか他人を虚仮にしたような忍び笑いに斯様な覚悟を認めない。それが単に賢しらな装われた侮蔑、そうでなくても生来的な潔癖症故の反発心、程度にしか思わない。男の子たちにはまだ己が人生の定めを誇らかな気持ちで迎え入れる無邪気さがあるから、彼らは覚悟すべきそれを覚悟せぬままに受け入れる。一方で、少女らの戎衣の仕立て方には、一見するところの陽気さとは相反する翳りがあって、彼女らの自らを貶め汚そうとする不可解な態度には、生贄を入用とした人目を忍ぶ野蛮な成人儀礼のような趣があるのである。

 そして、二人にとって、サボタージュはこれが一度目ではなかった。

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