§9

「鎚矢くん……」

「……良い声だったぜ」

 後奏の余韻に浸りながら、悠志と由奈は暫し見つめ合っていた。が、やがて二人は笑みを浮かべ、立ち上がってハイタッチをしていた。皆はそのまま硬直し、彼らの姿を呆然と眺めていた。そして、いち早く我に返った紗耶香が、ポツリと呟いた。

「……すっかり魅せられちゃったわ」

 彼女の一言は、悠志たちを恋人として称える意味としても解釈する事が出来たが、そうではないだろう。その目は潤んでおり、声も震えていた。紗耶香は心底から感動していたのだ。

「まさか、カラオケでこれほどの衝撃を受けるとはね。凄かったよ」

 続いて茂も、屈託のない意見を述べていた。彼も幼い頃から音楽に慣れ親しみ、それ相応の経験は積んでいた。にも拘らず、悠志と由奈の歌声に深い感銘を受け、驚嘆していた。そして……

「せ、先輩たちって……どうして吹奏楽なんかやってるんスか?」

 千佳は感動したと言うよりも、ショックを受けている様子だった。それまで彼女には、悠志は勿論、由奈よりも優れた歌声を持っているという自信があった。氷室から由奈が『歌姫』と評価されているという事は聞いていたが、それは誇大表現であると思っていたのだ。しかし、それを完全に覆されてしまったのである。

「吹奏楽『なんか』、って……酷い言い様だな。理由? そうだなぁ……」

「歌だけじゃなく、もっと沢山の可能性に挑戦してみたいからだよ。これから先、もっと沢山の音楽と出会う筈だから」

「そうそう、それ!」

 由奈の一言に、悠志が相槌を打った。その軌跡は異なるが、悠志も由奈も過去に歌い手としての経験は積んで来ている。その延長線上にあるのが、吹奏楽なのだという事に他ならない。図らずも、彼らの意見はピタリと一致していたのだ。

「島村さん、彼らを甘く見ちゃダメよ」

「……うぃっす」

 未だ愕然としている千佳に向けられた、紗耶香の瞳は優しかった。そして、彼女たちの視線の向こうには、仲良く肩を並べて次のナンバーを選んでいる悠志と由奈の姿があった。何気ない仕草だが、付け入る隙など有りはしない。そんな彼らに、今までちょっかいを出し続けて来たのか……と、千佳は思わず身震いをしていた。


* * *


 その夜、千佳は氷室に『アタシ降りるよ』という一言をメッセージした。直後に回答があり、どういう事かと尋ねられたが、彼女は一切の説明を加えず、ただ『二人の間に、清らかな聖域を見た』とだけ答え、スマートフォンの電源を切ってしまった。

「ふぅ……学校でガンガン文句言われんだろな。でも、アタシもう決めたんだ。カズ兄ぃ、ゴメンね!」

 真っ黒なスマートフォンの画面を眺めながら、千佳は小さく頷き、そして力強く宣言していた。氷室の指示で入る事になった吹奏楽部だが、そこには本当に敬うべき先輩たちが居た。その事に気付いて、彼女は今までの行いを心から恥じていたのだ。

「元々、趣味じゃなかったしね。あんな下らない真似、やめやめ!」

 小学校を卒業するまでは隣の町に住んでいた千佳が、和泉中の近くに引っ越して来たのは本当に偶然だった。氷室が軽音楽部を立ち上げて、学校内でバンド活動をやっていると聞いた彼女は、当然そこへ入るつもりだった。しかし、氷室は彼女の入部に待ったを掛け、吹奏楽部に入るよう勧めてきた。その訳の分からない要求に、最初から不満を募らせていた彼女が、あっさりと氷室に対して反旗を翻すのも、無理からぬ事である。

「ま、結果オーライって奴かな。嫌々入った吹奏楽部で、最高の出会いがあったんだもんね!」

 窓に映り込んだ自分の顔を眺めながら、千佳はニッと笑みを浮かべた。そしてスマートフォンをベッドに放り投げると、彼女は電子ドラムの電源を入れ、よし! と小さく気合を入れた。

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