本当になりたかったもの 6月4日②

「あら? 杏ちゃん泣いてたの? ホームシック? 」

 無意識の内に涙が頬をつたっていて言われるまで気づかなかった。出てきた声も震えていたのに。


「ホームシック、じゃ、ない……」

 もう既に帰るべき家には帰ってきている。ホームシックの定義が違う。


「そう? タイで何か嫌なことでもあったの? 」

「そんな、ことない……凄く楽しかった」

「どうしたの? 悲しくなっちゃった? 」


 いつもと同じ優しい母の声。絶対杏梨を見放さない温かい母。


「私、何で頑張ってたのかわかんなくなっちゃった……」

「そうなの?確かに杏ちゃんは昔からびっくりするくらい頑張り屋さんだったものね」


 杏梨が頑張っても頑張らなくてもきっと母は見ていてくれて、小さなことでも褒めてくれた。自分が過剰に頑張っただけ。


「私、お母さんみたいになりたかったのに、全然なれない……」


 母は特別綺麗な訳ではない。スタイルが良い訳でもない。仕事や勉強が出来る訳でも、お店で出てくるような立派な料理が作れる訳でもない。年齢相応に少し太った専業主婦。


 でも、お母さんは大抵誰からも好かれる。その柔らかい物腰は敵を作らない。そして、父は母をとても愛している。はたから見たら馬鹿らしく思える程に。

 父はたこ焼き屋をしているが、仕事よりも母が一番。娘よりも母が一番。馬鹿な父だが母のことを「幸子ちゃん」と愛しそうに呼ぶのをずっと見ていたら、こんな風に愛される人になりたいと思った。夫婦の時間を邪魔したくなくて実家を出た。親のいちゃつきを見ていたくなかったのもあるけれど。


 万人から好かれるように頑張ったのに、本当に好きな人には好きになってもらえない。そもそも、金田は仕事第一で父のようには自分を愛してくれない。でも好きなのだ金田のことが。どうしても手に入れたい。


「杏ちゃんが私みたいになりたかった何て、びっくりだわ。だって杏ちゃんの方がお料理だってお化粧だってずっと上手じゃない。

 私は何も取り柄もない、ただの丈夫さんの奥さんで杏ちゃんのお母さんよ」


「私、愛されたいだけなのに好きな人には振り向いてもらえない……」

「杏ちゃん、少なくとも私も丈夫さんも杏ちゃんのことすごーく愛してるわ。

 また難しく考えてる? 恋なんてあたって砕けろ、よ。いつも上手く何ていかないの。人の心なんてわからないもの。いくら良い子でも相手に合わないこともあるの。

 出来ることは、ただ一生懸命恋するだけ。私なんて何回砕けて泣いたことか、ふふふ」


「お母さんが?」

 人から拒まれる母なんて想像できない。

 嬉し泣き以外で泣いている母なんて見たことがない。何かあってもすかさず父が飛んでいって、母を笑わせるから。


「そりゃそうよ。私は杏ちゃんみたいにずっと頑張り続けるなんて出来なかったし、モテなかったわ。丈夫さんくらいよ、こんな私をちやほやしてくれるのは。

 杏ちゃんは私の自慢の娘ちゃん。頑張ったことは無駄にはならないし、頑張れるところが杏ちゃんの良いところ。砕けてもいいから、後で後悔しないようにちゃーんと当たりなさい。ふふふ」


「お母さん、砕ける前提で言わないでよ」

 母の声を聞いていたら杏梨の目から涙が引いてきた。


「砕けた骨は拾うわよー? 」

 父と同じく母も大概ふざけているが、杏梨はそんな母が好きだ。


「あっ、杏ちゃん。なら私の見事に砕けたエピソードでも参考にする? 」

「砕けたエピソードは参考にしないよー」


 父の前では絶対に話せない内容なので少し聞いてみたい気がしたが、恐らく実家から電話してきた母の後ろに父がいるとも限らないので断った。2人で出掛けたときに聞かせてもらおう。


「元気になったかしらー?私みたいになりたいなんて杏ちゃんお馬鹿さんね。杏ちゃんは杏ちゃんで杏ちゃんのままでいいのに。ふふっ」

「その適当さとおおらかさを見習いたくて。あと、お母さん誰からも好かれるから」


「あら、そんなことないわよ。結構『いつも幸せそうですね』何て嫌味言われたりするわ」

「それ嫌味じゃないんじゃない? 」

「辛いことがあっても、笑顔で乗りきろうとしているのに、それを蔑ろにされた気がしちゃうのよー。まぁ、相手は悪気ないだろうから言い返したりはしないのよー」


 母の悩みは、内容は違えど本質的には自分と同じだった。焦っていた心が地面に降りていく。


「そっか、誰でも悩みはあるよね」

「そりゃそうよ。生きてるんだもの。

 あっそうそう、電話したのは『タイの皆さんが微笑んでたか』聞くためだったんだけど、どうだったー? 」


 杏梨はタイにいた人の顔を思い浮かべる。別に特別笑顔だったかと聞かれると断言はできない。暑かったから犬は舌を出していたけれど、それは笑っていた訳でもない。


「んー、どうかな?断言はできないな。人それぞれだし」

「なら、タイにいたときの杏ちゃんは笑ってたかしらー? 」


 タイでの思い出がよみがえる。わくわくどきどきはらはら。いつもとは違う体験ができた。


「うん、それなら断言できる。笑ってたよ、何も気にせずに。楽しかった。行って良かった」

「ならやっぱりタイは『微笑みの国』ね。

 おかえりなさい、杏ちゃん」


 欲しかった言葉を母がくれて、杏梨はようやく自分がいるべき場所に帰ってきたことを実感した。


 帰ってきたのだ日常に。





【余談】杏梨の両親は別小説『タコヤキ・マン』にも出てきます。タコヤキ・マンを作っているのが杏梨の父で、実家に帰省した杏梨が出てくる回(第5話)もあります。タコヤキ・マンに杏梨が恋の相談をします笑。しかしながら、かなりふざけたギャグなので、読まなくても大丈夫です(* >ω<) 参考までに。

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