【8月22日 夏の夜のあと】



 アラームの代わりに、スマートフォンが音楽を流した。ラテンアメリカのサウンドであるボサノバの有名な曲が部屋を満たした。苺依は音楽の好みを塚本に合わせているようで、聴いたこともない曲を流すようになった。ボサノバの軽快なギターのリズムと緩やかな唄声が穏やかな朝を奏でていた。ベットから出て、そのまま曲に合わせて身体を揺らしながら洗面所に向かった。口角が両サイドにあがり、自然と笑みになる時間が増える。鏡の前に立つと、身だしなみに時間をかけるようになり、日課にしていた水やりやベランダでのひとときは週に少しだけになっていった。彼女の肌のつやの若々しさは以前よりも色濃く反映され、そのおかげか綺麗な産毛が金色に輝きながらフワリと浮いていた。それにより透き通るような肌に見え、彼女により自信を与えた。


 毎日塚本に会社で会え、幾度も夜を求められることが嬉しいのだろう。会社に行くことが以前よりも格段に楽しくなっていく。そうこうしていると、塚本のモーニングメッセージが届いた通知音が鳴る。苺依の肌の温度がきもち上昇したように感じる。ついで、彼女の瞳の奥に瑞々しさが冴え始める。


「今日の待ち合わせどうしますか?」


 と苺依はメッセージをいれる。塚本からの返答メッセージを見て笑顔が溢れてしまう。二人の秘密は会社ではまだバレて居ない。子供のころに家の中でしていた、親とのかくれんぼのような感覚が蘇ってきた。見つかってはダメなのに、見つかって欲しいような。


 苺依はブラウスに袖をとおして、会社に行く準備を整えた。



 ■ ■ ■



 苺依は新宿に向かう為、新橋駅から銀座線に乗り込む。運よく座席が空いていたので、苺依はシートの端に座り、手すりの傍に寄る。膝にお土産用に買った巴裡 小川軒のレイズン・ウィッチを乗せて「4両の扉付近に居ます」とメッセージを送った。既読が付いたのを確認して、今日のニュースを流し見ていた。


 虎ノ門駅が近づくとホームの塚本を探すために目をやる。扉が開いた瞬間に塚本と目が合う。苺依の隣に座っていた人もこの駅で降車したので、すかさず自分の席を隣にずらして塚本の分を空けた。長身の塚本がすこし猫背のまま笑顔で近寄ってくる。塚本の前髪は眉に少しかかるぐらい長いので、目にかかった前髪を薬指でかき分けていた。


 苺依は塚本の長くて綺麗な指が好きである。節がすこし大きく男性らしい。長い指の先についている爪も若くてつるりとしていて綺麗であった。あの指と手のひらで頭を包まれるのがとても好きであった。自分がここに居てもいいよと肯定されているように感じれたから。


 塚本が苺依の隣に座るとき小さく「ありがと」と言った。苺依は「すぐに分かりましたか?」と言うが、電車の走行音のせいで塚本に届かなかったようだ。苺依は身体を寄せて同じこと塚本の耳に向けて言った。今度は届いた為、塚本は笑顔を見せた。それから「すぐに見つけた」と苺依が聞き取れないと察して、耳元で答えてくれた。塚本の声が苺依の耳の奥をダイレクトに揺らし、心がはねた。苺依は用意していた、お土産を塚本に見せる。「知ってる知ってる。美味しいよな」とまた耳元でささやく。「はい。近くにあるのになかなか行かないですよね」と返し「じゃ、あとで一緒に食べようか」と言われ、苺依は室内のシーンが頭に浮かんでしまい耳が赤くなる。二人きりの伝言ゲームみたいだった。顔を寄せて、耳で塚本の声を聴く。表情で会話して、また耳元に声をとどける。何回もそんな遊びを繰り返して戯れた。


 赤坂見附駅で丸の内線に乗り換える。新宿駅に着くころには塚本から自然と手をつなぎ始めた。熱帯夜なのに、なぜかほんのり暖かく感じるような包み方だった。苺依はこの後の夕食の時間も惜しく思えるほど、早く二人だけの空間に逃げ込みたかった。

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