父の手紙

「おにぃ」


 突然飛び込んできた声に、リオは驚き振り返る。薄く開いた扉の隙間から、目を擦るアリィの姿が見えた。


「どうした?」

「あ……うん。目が覚めちゃって」


 リオは壁に掛かった時計を見上げた。アリィを部屋に送ってから、一時間ほど経過していた。それだけの間、母の日記を読みふけっていたらしい。


「何見てんの?」


 目を擦りながらアリィは部屋に入ってきて、リオの隣からぼんやりと光るモニターを覗き込んだ。その腕の中にはやはり、ペンギンがいる。じっと見ていると、その首がこちらを向いた。プラスティックでできた大きな目。ぬいぐるみらしいその黒目の向こう側に何かしらのセンサーがあると思うと、微妙な気分になる。自分はどんな風に見られているのだろうか。


「母さんの日記」

「え? 他人の日記を覗いてるの? 悪趣味」


 眠気が取れたらしく、いつものさばさばした様子でアリィが言うものだから、リオは傷付いた。と同時に自らの行いを恥じる。確かに、亡くなった人間のものとはいえ、趣味の良い行いとは言えない。


「それで、何が書いてあったの?」

「アリィ、今俺のことなんて言った?」

「だって、気になるじゃん。遺言とかなかったの?」


 あっけらかんとしたアリィの言葉が、リオの心の中に沈んでいく。まるで池に放り込まれた石のように、静かで冷たい場所へと。


「……こいつが、母さんが俺たちに遺してくれたものだよ」


 リオは、アリィの抱えるぬいぐるみの頭に手を置いた。そっと撫でると、ミロは不思議そうにリオのことを見上げる。リオは本物のペンギンを知らない。図鑑で写真を見たことはあったが、あちらはもっとスラリとしていたので、こちらはまるで別物だ。

 だが、リオにはこのミロがまるで生き物のように思えた。温もりさえ感じた。母の想いの残滓ざんしがここに残っているのだ、とリオは確信する。


「母さんが俺たちのために、さよならを言うのも忘れて作ってくれた」


 きょとんとした様子で、アリィは腕の中のミロを見つめる。

 改めて日記を読み返してみて、リオは母がこのミロを作った真意を知った。もし自分が居なくなっても、リオとアリィをサポートできるように。そんな目的で作られたロボットだったのだ。

 いったいこれにどんな機能が眠っているのかは、日記からは知ることができなかったが。きっとこれから分かる日が来るだろう。

 ――でも、まずは。

 リオは、ミロの黒く大きな楕円形のプラスティックの瞳を見つめた。


「ミロ。父さんの手紙が何処にあるか知っているかい?」

「ぴっ」


 母が遺したロボットは、リオの声に反応してアリィの腕の中から飛び降りた。それからとてとてと短い足を動かして、母の使っていたパイプのベッドの下に潜り込む。しばらくして、飛ぶどころか泳ぐことも難しそうな短い翼で、銀色の箱を押して出てきた。

 リオはその缶の箱を拾い上げる。埃はほとんど被っていなかった。最近まで母が開け閉めしていたことが窺える。

 左手で抱えるように持ち、右手で器用に蓋を取る。ミロはきちんとリオの命令を果たしてくれていた。中に丁寧に納められていたのは、何封もの白い封筒。十ほど入っているだろうか。


「父さんの手紙って?」


 リオの腕に密着するようにして箱の中を覗き込んでいたアリィは、一番上の封筒を拾い上げ、表に裏にと返した。中を透かし見るように眺めながら、リオが母の日記から手紙のことを知った経緯を聴く。


「ふーん」


 関心あるのだかないのだか、よく判らない反応を返して、アリィは封筒を箱の中へ戻した。


「見つけたのかな。新天地」

「さあ」

「おにぃ、無関心」


 眉をひそめて責めるように言う妹に、リオは肩をすくめてみせる。


「そんな場所があったって、俺たちが世界にたった二人きりであることに、変わりはないだろう?」


 リオはこの世界に他の誰かが居るかどうかということにはあまり関心を持っていなかった。家族以外の他の人間を見たことがないからだろうか。居ても居なくても変わらない――居たところで、どうすれば良いのか判らない、というべきか。


「父さんがいるかもしれないじゃん。それに、あたしたちが知らないだけで、他にも誰か居るのかも」


 だがアリィは違うようで、期待に目を輝かせている。そんな妹を、リオは目をすがめて見つめた。この滅びた世界の真ん中で可能性を信じる彼女が、リオには眩しく映った。

 まるで、アリィ自身がこの世界の希望そのもののような。

 そんな感慨に陥る。


 リオは箱の底まで埋もれた、父が最初に送り付けてきたであろう手紙を手に取った。


「アリィは、父さんのところに行きたいの?」


 アリィは腕を組み、唸りながら考え込んだ。視線が上の方向に漂う。

 あまりに真剣に悩んでいるので、父にあまり関心がなかったリオのほうが、父に対して哀れみを覚えるようになってきた。会いたいか会いたくないか、そこまでして悩まなければ答えが出ない相手なのか、と。

 やがて。


「分かんない」


 アリィは明瞭にそう言った。父が恋しいわけでもなく、かと言ってどうでも良い訳でもなく。ただ、会うべきか否かの判断がつかない、とただそれだけを言う。


「でも、このまま二人で、世界の端っこで朽ちていくのは違うと思うよ」

「それは、この家を出ていこうってこと?」

「だって、こんなところでくすぶってたって、意味ないじゃん!」


 アリィは足を踏み鳴らしかねないほど強く力説した。ここに踏み留まるべきではない、と主張した。

 おにぃ、と妹は、変化を望まない兄に言う。


「〝永遠ずっと〟は、ここにはないんだよ?」


 私たちはそれを今日知ったでしょ。

 リオは、瞳を閉じてその言葉を呑み込んだ。

 解っていた。このままではいけない、と。母を埋葬したときから――いや、もしかすると、母の死に気付いたときから。

 このまま二人で惨めに死んでいくのを、母もリオもアリィも、そしてこの場に居ない父も、誰一人望んでいないのだ、と知っていた。

 それでも穏やかな日常を愛していたリオには、想い出の残滓が残るこの家が捨て難く。

 妹に背を押してもらいたい、と寝ぼけ眼の妹を見たときから思っていたのだ。


 でも、これでようやく踏ん切りがついた。


「なら……」


 リオは、握りしめていた封筒の中身を取り出した。

 父が母に送ってきた最初の手紙。

 これが兄妹の道標になると、リオは確信していたから。

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