5.サファイアを巡る攻防(2)

 だが、そのまま走り去ろうとしたそのとき、背後から声が掛かった。


「待ちなさい」


 ぎくりとする。


 アリアは、兜を被っているのをいいことに、聞こえなかったふりをして走り出した。

 廊下の角にある巨大な陶器の壺、あれを曲がれば、もう西棟だ――。


『やばい、アリア、屈め!』

(え?)


 なぜだかバルトが小声で叫び、足にまとわりついてくる。

 踏み潰すのを避けようとして、結果的に大きくバランスを崩すと、頭上すれすれに「ヒュッ!」となにかが通過していき、


 ――パンッ!


 目の前に飾られていた壺が大きな音を立て、粉々になった。


「…………!?」

「避けたか」


 驚きで硬直したアリアに、ラウルはこつ、と靴音を立てて、ゆっくり近付いてくる。

 彼から滲み出る、圧倒的な強さと迫力に、アリアは思わずぶるりと身を震わせた。


(こいつ……やばい!)


 今彼が投げたのは、おそらく短刀だ。

 でもまさか、果物ナイフのような大きさの刃物を投擲しただけで、大人三人はもぐれそうな壺を粉々にできてしまうだなんて。


(これが頭に当たってたら、即死じゃない?)


 いや、兜を被っているから昏倒くらいで済むだろうか。

 だが、彼に昏倒させられるような所業を、いったいいつ働いたというのか。


(まさか、バレた?)


 いや、そんなはずはない。

 「烏」は大胆不敵な大男というのが、世間の認識のはずだ。

 たった今、精霊力を持ち合わせる高位貴族かもしれない、という設定も付け加えた。

 まさか目の前の、「田舎者の小柄な少年」が、疑われるはずもないのに。


 だが、悠々とアリアを見下ろしたラウルは、それが決定打と言わんばかりに、こう告げた。


「君は今、私の目を見たな」

(見られたら倒すんかい!)


 どんだけ尊くていらっしゃるんだよ、と罵倒が込み上げるが、ラウルの発言の意図は、むしろ後半が重要であるようだった。


「なのに怯えなかった。よほど高い精霊力を持っているらしい。田舎の少年が、、、、、、

「…………っ」


 どうやら、欺こうとする行為が裏目に出たらしい。


(見るだけで怯えられるって、なにそれ! 「蒼月の聖騎士」がそんな怪物設定だなんて、聞いてないんだけど!)


 いや、厳密に言えば聞いたことはあった。

 「精霊が慈しみたもう碧き瞳は、男女の心をたちまちに痺れさせて云々」みたいな、笑ってしまうような賛美の声は。


 だがそんなの、貴族特有の誇張だと思っていたのに。


「今朝、念のためマイスナー家の見回りに来た際には、君のような体格の衛兵はいなかった。それが単身、現場を抜け出し、人の多い西棟に向かっている。奇妙だ」


 こつ、と、また一歩、彼はアリアに近付いてくる。

 まさかこの高貴な男が、たった一度視察した伯爵家の衛兵の体格まで覚えているのかと、震えが走った。

 だいたい、鎧をまとっているというのに。


「走るときの鎧の音がおかしい。体と鎧が合っていないからだ」


 こつ。

 また、一歩。

 だめだ、体に力が入らない。


「声が高い。重心もやけに高いし、指が細い」


 思わずその場に崩れ落ちる。

 震える手を、ぎゅっと胸の前で拳の形に握り締めた。

 胸当ての下に下げている、お守りの金貨に縋り付くようにして。


「さては君は――女か」


 凍てついた月のような声が、静かに真実を言い当てる。

 アリアがじっと俯いたままなのを見ると、彼は剣を抜き、その切っ先を、兜の顎下に当てた。


「兜を脱ぎなさい」

「バルト」


 アリアは、鎧の胸元、その隙間に指を差し込みながら、バルトにごく小声で命じた。


火を吐いてブレス

『え!? あ、ああ!』


 同時に、胸元から取り出した香水を、ラウルに向かって一吹きする。


 ――ゴォ!


 勢いよく噴射された、酒精を含む香水は、小さな炎をたちまち巨大な炎撃に育て上げた!


「…………!」


 ラウルが素早く身をよじる、そこに体当たりを決める。

 どれだけ鍛えているのか、鋼のような体は尻餅をつくこともなく、少々揺れただけだった。


 だがそれでいい。

 倒すことが目的ではないのだから。


「もう一丁!」


 同じ手口で炎を吹き付け、ラウルの背中に隠れていた木製の窓枠に着火させる。


「な――!」

「大変、火事だ! こいつは見過ごせねえや! 燃え広がったらどうしよう!」


 ぎょっとするラウルの前で、アリアはあえて少年の声のままおどけてみせる。

 それからふっと笑い、


「聖なる騎士様なら、烏を追いかけまわすより、消火活動を優先したら?」


 皮肉を吐き捨てると、今度こそその場を走り去った。


『おいおい、放火はさすがにやりすぎじゃねえのか』

「大丈夫、高邁な精神を持つ聖騎士様がどうにかしてくれるから」


 走りながらちらりと背後を確認すれば、案の定、ラウルは騎士として消火を優先したらしい。

 己のマントを切り取り、強く窓枠に打ち付けている。


 だが、視線が合った次の瞬間、目にも留まらぬ速さで銀色のなにかが飛んできて、アリアは小さな悲鳴を上げた。


 見れば、己の手の甲が切れている。


「痛ぁ!」

『やべえ、あいつ、消火しながら仕留めるつもりだぞ! 精霊の愛し子、パねえ!』

「この距離で当たるってなに!? 怖っ! 聖騎士まじで怖っ!」


 ぞっとしたアリアは、さすがに軽口を叩くのをやめて、一心不乱に廊下を走った。


 早く。一刻も早く。

 遠くへ。彼に見つからぬ場所へ。


 だが、走る背後から、今にも彼の手が伸びてきそうで、恐怖が胸に満ちてくる。


「ねえ! 聖騎士って、具体的になにができるの? 水を召喚して一瞬で消火したり、瞬間的に場所を移動したり、そういう、絵本みたいなことはないよね。お願い、ないと言って! 言え!」


 半ば恐慌状態に陥りながら、肩に乗るバルトに問いただす。


『安心しろ。そんなのはさすがに、精霊そのものじゃなきゃできねえよ。しょせんやつは人の身だ』

「よし!」

『でも精霊の愛し子だから、やつが望めば周りの精霊が力を貸す。たぶん俺の火ももう消えてるし、なんなら風の精霊が、やつの足に加速の加護を吹きかけてんじゃねえ?』


 アリアは走りながら、思わず下町言葉で低く呻いた。


「やつにだけ都合がよすぎる世界だなぁ、おい……!」


 万能ではないが、人間として考えられる最大値に有能だということだ。

 火まで放っても、大した時間稼ぎにはならなかったかもしれない。


『どうすんだよ、アリア!』

「とりあえずバルトは、目立つところに出て、炎のげっぷでやつの注意を引きつけて!」

『げっぷって言うなよ! っていうか俺、囮なの!?』

「だってあいつ、あんたの姿は見えてないんでしょ!?」


 先ほど、香水の炎に驚いていた姿を思い出し、アリアは指摘する。

 バルトは少々ばつが悪そうに答えた。


『まあな。厳密に言えば、見えないと言うより「気にしない」っていうか。巨大な牛にゃ、ほこりみたいに小さな小蠅こばえなんて、見えないも同然だろ? あいつの精霊力がでかすぎんだよ。だから、トカゲ状態の俺のことは、気付けない』


 男の、というかドラゴンのプライドが、傷付いたらしい。

 歯噛みしている。


「……あーほら、日向ひなたできらきら光る埃って、結構きれいじゃない。埃みたいな存在でも、ドンマイ。生きてていい」

「おまえの慰めスキルは埃以下のゴミだな!」


 くわっと牙を剥いてから、バルトはちょろりと床に駆け下りた。


『とりあえず、俺は庭のほうに出る。うまく逃げろよ、アリア!』

「頼んだわよ、埃……じゃなかった、バルト!」

『わざとらしく言い間違えんな!』


 慌ただしくバルトと別れ、アリアはそのまま廊下をひた走った。


 舞踏会の開かれている西棟の、使われていない客間に飛び込む。

 鎧を脱ぎ捨て、汚れが付かぬよう顔と髪に下着を巻き付けると、暖炉をよじ登って通気口に忍び込む。


 この通気口も、メイドとして暖炉掃除をしていたときに当たりを付けた。

 細身のアリアだからこそ通れる道だ。あの高身長の聖騎士では入ってこられない。


 そのまま這いながら、呼吸を整える。巻き付けた布が息苦しくて仕方ないが、この後の「変装」を考えれば、顔は絶対汚せなかった。


(ここが、一つ目。二つ……三つ……)


 時折通気穴から吹き上げる風が、その下に部屋がある証拠だ。

 記憶と照合しながら、目当ての部屋にたどり着くと、アリアは躊躇わず、暖炉を辿って室内に下りた。


 ここは西棟の、舞踏会場にほど近い休憩室。

 メイドに扮した際、ドアノブを壊して外からは入れぬようにし、内側のクローゼットに、変装用の衣装を何種類か仕込んでおいたのだ。


(どこの屋敷も、女の使用人への警戒心がなさすぎんのよね)


 お仕着せを着てシーツを持てば、あるいは盥の一つも持てば、アリアはたちまち「この屋敷の人間」になれる。

 広大な屋敷に住む貴族にとって、見慣れぬ顔の使用人、それも女なんて、気に留めもしない存在だからだ。


 なにしろ女は無力で、無学だから。

 盗みもしないし、戦略的な行動を取るはずもない存在だから。

 アリアが注意すべきは、せいぜい同性の女中頭くらいだった。


(さて)


 クローゼットに混ぜておいたのは、この屋敷のメイド服と、小姓が着るシャツとズボン、そして貧乏な貴族令嬢に相応しい地味なドレスだった。


(吹きかけた香水の匂いが染みこんじゃってるもんね。木を隠すなら、森の中)


 香水は、いざという時に目潰しをするため、伯爵夫人の部屋から拝借したものだった。

 わざと証拠として残せば、捜査を攪乱することもできると踏んで、とびきり上等なものを選んだのだが、こんないい匂いをまとったメイドなんておかしい。


 ただし、香水の匂いで溢れかえった舞踏会にならば、違和感なく溶け込めるだろう。

 アリアは即座にドレスを選んで着替えると、他の一式を丸めて、サファイアと一緒に、裾の内側裏にしまい込んだ。


 長手袋と大量のピンを口に銜え、走りながら髪をまとめ上げる。

 髪結いの短期奉公バイトで身につけた、走り回る幼児の髪を結ぶ技術が、こんな形で生かされるとは思ってもみなかった。


 襟の詰まったドレスなので、金貨のネックレスはそのまま胸下に。

 髪は耳の両側に一筋ずつ毛束を残して、きっちりとまとめ上げる。

 真珠の留め具を装着。

 頬紅は――時間がない。軽く叩いて血色をよくする。

 日頃からナチュラルメイクを売りにしているからこそ許される技だ。


 扉をくぐるたびに、舞踏会の喧噪が近付いてくる。


 人々の視界に入る直前、長手袋をなんとか嵌めおおせ、アリアは何食わぬ顔で大広間に下りていった。

 いかにも、「会場の空気にのぼせてしまったので、これまで休憩室で休んでいました」という態で。


(目指すは……庭)


 赤絨毯の敷かれた大階段から広がる大広間。

 軽食のある談話スペースと舞踏用のスペース、楽団のスペースを抜けた先に、涼むための庭がある。


 いくつかの「仕込み」を済ませたら、庭から馬車寄せへと回り込み、こっそりと帰る。

 それがアリアの計画だった。


 きっとあの聖騎士は、すぐにアリアの足取りを追ってくる。時間との勝負だ。


 だが、少しふらつきながら登場したせいで、アリアを「弱った獲物」と見なした男たち数人が、行く手を塞ぐように集まってきてしまった。


「やあ、アリア嬢。今日もなんて愛らしい。僕もタイを新調したんだ。どうかな」

「素敵ですね」


 なにそれ、虫の卵柄?


「久しぶりだね、アリア嬢。僕は最近風邪を引いてしまって、なかなか舞踏会に出られなかったんだ」

「お可哀想に」


 風邪だっておまえには引かれたくなかっただろうよ病原菌の気持ちを考えろ。


「今日こそは一緒に踊ると言っておくれ。奥ゆかしい君の心を開かせるには、どんな呪文を唱えればいいのだろう」

「まあ、呪文だなんて」


 滅びろ! 滅びろ! 滅びろ!


 男たちをすり抜ける際、笑みを維持するのに苦労した。

 彼らと話している余裕なんて、鼻クソほどもないのに。


 アリアは一刻も早く、「仕込み」を済ませて、この場を立ち去らねばならないのだから。


(早く)


 本能が確信している。

 あの男は、きっとバルトの囮なんか目もくれず、きっとこの場にたどり着く――たどり着いてしまう、と。


「あらあ、アリア様。庭にでもいらしたの? お誘いがない方は、自尊心を保つのが大変ね」


 今度は男爵令嬢・バルバラが話しかけてきた。

 普段なら内心で、バルバラが原型を留めないほどにこき下ろしてやるところだが、今のアリアはその会話に飛びついた。


 自分が不在の間、舞踏会でなにがあったかを把握しておかねばならない。

 この時間帯、たしかに自分はこの場にいたと、後から主張するために。


「ええ……。ですが、おかげで、思いがけないものを見てしまいました」


 しおらしく頷き、情報を得る。

 代わりに去り際、バルバラには「あること」を吹き込んでおいた。

 彼女の目の色が変わったのを確認してから、アリアはまた一歩庭へと近付いた。


「ごきげんよう、アリア様」

「ごきげんよう」


 話しかけてきたほかの令嬢にも同じ対応を取り、また一歩、庭へ。


「まあ、アリア様もいらしていたのね。全然気付かなかったわあ」

「お目汚しのような姿で申し訳ございません」


 また一歩。


(もう少し)


 後は楽団の横を通り抜ければ、庭は目の前だ。

 香水の匂いも、令嬢たちの香りに紛れてだいぶわからなくなった。


(早く……!)


 ああ、あと少しで、庭と広間を隔てるガラス扉に手が届く。

 だが、アリアの指先が扉に触れようとした、まさにその瞬間。


 ――ざわっ。


 不意に周囲がざわめいた。

 音楽が途切れる。


 嫌な予感を覚え、振り向いてみれば――広間の入り口に当たる大階段に現われたのは、聖騎士、ラウル・フォン・ヴェッセルスであった。


(早すぎんだろうがよおおお!)


 その瞬間叫び出さなかった自分を、誰か褒めるべきだとアリアは思った。

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