第4章 腐敗した大地に父ゼウスが遣わした天女

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 病院の受付で診察券が見つからず、レシートでぱんぱんになった百均の長財布を探ってると、阪神電車のくすんだ切符が出てきた。梅田から二七〇円。改札済みの穴が開いてる。懐かしいな。ヒトミと一緒に梅田に行ったときの、帰りの切符じゃねえか。阪急百貨店でアニメの原画展があるとかいって、まあ俺の知らんアニメだし、興味は無かったんだが、友だちから無料のチケットを二枚貰ったとか聞かされ、俺も無料って言葉には弱いんでうっかり着いていっちまった。いま思えば、俺と行かんでもその友だちと行けよ、ていう気もするが。まあアニメの原画展は、さすがプロっつうのか、やっぱ巧くて知らんくてもなかなか楽しめた。で、マクドでいっちゃん小さいサイズのホットコーヒー飲みながら、長居して感想を言い合って、珍しく外食でいいもん食って、ほとんど終電で帰ったんだ。なんだろ、けっこう楽しかったのかもしんない。浮ついてた俺は、帰りの電車の切符を失くしちまったんだ。浜かもめ団地の駅まで着いて、いざ改札を出ようとしたら、切符がねえ。ヒトミは「わたしの切符あげようか?」とか言いやがる。馬鹿か、それじゃお前が出られねえだろ。正直に謝るか。でも改札には人がいねえ。ヒトミの顔を見れば、何を考えてんのかすぐに分かった。頷きあったのを合図にして、俺たちは改札に向かって徒競走みたいに猛ダッシュした。自動改札の扉が派手な音を立てて勢いよく閉まるが、俺たちはそれをせーので膝蹴りしてぶっ飛ばし、力いっぱい駆け抜けた。ハナ差でヒトミのが早かった。とんまな警報が背後から聞こえ、俺たちは爆笑しながら全力で逃げた。懐かしいな、あんときの切符、ここにあったのか。

 引換券だって。ふざけんな。俺はお前と引き換えなくても、幸せってやつを手に入れてやんだよ。マリのお父さんがごく安値で足を診てくれるって言って、俺はお世話になることにした。マリはああ言ってたけど、やっぱ親身でいい先生じゃん。そうマリに伝えたら、俺の足の件でお父さんとはいろいろ話したらしく、やっと和解できたっつって、俺がお礼を言われちまった。まあ俺はなんもしてないけど、よかったな。焦らなくていい、と先生は言った。こういうのは少しずつ良くなるもんだと。そうだな、少しずつでいい。少しずつ、いろんなことが良くなるはずだ。ヒトミは日本で有数の名門私立女子校を受けることになった。ほんとは、ヒトミには一人暮らしをして欲しかったけど、家から通うのでもいいかなと思い始めた。少しだ。少しずつだけど、俺たちはマシになってきてる。

 ヒトミは勉強をすげえ頑張ってて、偉いと思った。ピンク色のパジャマを着たまま、寝食削ってずっと部屋に籠ってる。ヒトミの好きなオムライスにトマトケチャップで下手糞な「合格」の字を書いて持ってくと、「いやいや、重いから」と腹をぶたれた。けど美味しそうに食べてくれて、「ミキオが足を治そうとしてるんだから、わたしもこんぐらいは頑張らないと」って微笑んだ。バンダナで前髪を上げてて、ちっちゃな鼻の頭に付いた赤いケチャップが分かり、いじらしさに俺の胸はきりきりした。それが交換条件なら、俺はなんて不釣り合いな条件を出しちまったんだろう。俺の足の治療なんて、全然大したことねえじゃん。そんなもんでお前がそこまで頑張るっつうのは、嬉しいというより、申し訳ねえよ。

 とりあえず俺は頑張って働いて、でもできるだけ定時に上がって、むちゃくちゃ美味しいメシを作ろうと決めた。ヒトミと話せる機会は、相変わらず食卓だけだったが、これまでよりずっと会話が弾んで、いろんなことを話せたように思えた。あと、それと、ヒトミに風邪を引かれちゃ敵わんから、中学校まで俺が車で送ってくことにした。まあ歩いても行ける距離だし、朝の渋滞を考えりゃ、歩いた方が早かったような気もするけど。とにかく、車の中でもいろいろお喋りできて、楽しかった。そう、楽しかったんだよな。いま思えば、俺がヒトミと過ごした十五年間、ずっと楽しかった。当たり前すぎて、ずっと気づかんかっただけだ。俺はヒトミとのいつか必ず訪れる別離を意識し始めて、それが寂しいのも初めてだった。ヒトミはこれまでよりずっと饒舌になった。ヒトミも楽しそうで、それは良かった。けど、思い上がりかもしんないけど、ヒトミも寂しいのかもしれねえと思うと、二人で話す時間はとんでもなく豊かで、それがときどきふいに怖くなることがあった。

 年末年始の休暇に入った。ヒトミは「何がめでたいお正月」ぐらいの格好で机に噛り付いてたんだが、初詣は行くことにした。最後の神頼みってやつだ。年明け前ぐらいに二人でカップそばを食べて、暗くてクソ寒い中、除夜の鐘を聴きながら出かけた。初詣は昼間だと混むからな。日が変わると同時ぐらいに出かけんのが一番良いんだ。家でいちばん分厚い起毛のジャケットをヒトミに被せて、俺の汗臭いマフラーをぐるぐるに巻いてやって、人のいない街灯も少ない湾岸道路を歩いた。珍しく、俺もヒトミも言葉少なだった。でもヒトミの考えてることが全部分かるように感じられて、俺の考えてることも全部分かられてるように感じられて、悪くねえ道だった。

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