第33話 刹那

 母と喧嘩した晩、自室に引き篭もってひたすらゲームをしていたときのことを思い出す。


 母は物事を理性的に語ることが苦手なひとだ。感情より理屈を優先する父は母娘で口論になるといつも間に入ってくれていた。でも父が家を出て以降はもうその喧嘩を止めてくれる人もいない。


 昔はこうじゃなかったはずだった。父と母と私――そんな当たり前の日常がいつまでも続いていくと思い込んでいて、ある日それはあっさりと崩れ去る。


 きっと人生とはそういうものなのだ。昨日までの幸福が、今日には平然と踏みにじられる。常に明日へ怯える重苦しい日々。喪失によってもたらされる空虚。空虚によってもたらされる退屈。退屈によってもたらされる恐怖。それらから逃れるために、莉都はディープスペースという虚構に埋没した。


 ここには本物なんて何一つない。だから気が楽だ。誰もが匿名に甘えて悪意や敵意を発散する。その中で「私だけは違う」と卑小な安心感に浸かったり、自分と違いすぎるおぞましい他者との摩擦に怒りを覚えたり、そういった単調な刺激で退屈や恐怖を誤魔化し続けられる。


 そんなディープスペースの中で、FHSは比較的マシな刺激を莉都に与えてくれた。過去をほじくり返し未来を嘆き続ける声で溢れているディープスペースの中で、このゲームはどこまでも刹那に拘っている。瞬間の判断力と精密な操作が問われ、試行錯誤を繰り返しながら勝利の方程式を探っていく――そこに過去や未来といった余計な概念は一切が存在しない。FHSもディープスペースの一部である以上は他者からの揶揄からは逃れられないものの、それらが気にならないくらいに莉都を埋没させるだけの魅力がこのゲームには存在する。FHSに必要なのは機械のような判断能力。他者の言葉に耳を貸すことは機械的な判断を鈍らせるノイズにしかならない。


 リリィは初心者らしくどこまでも情緒的で、そういった点では機械的な判断を是とする莉都――ジャスミンとはどこまでも異なっている。しかし見知らぬ他者の言葉よりも自分自身と目の前の大切なことに集中できるという点では、リリィはジャスミンの考える理想的なFHSへのプレイングをしていた。


 彼女の瞳に映っているのは、いつからかジャスミンが喪っていた未来への希望。ワンドを構えて敵を撃つ。失敗を繰り返しながら成長して、勝利を掴むために努力する――その過程のひとつひとつが初心者の彼女には楽しくて堪らないだろう。


 ジャスミンは未来への希望なんて持ち得ない。ジャスミンにできるのは未来という恐怖を掻き消すためにこの刹那に埋没することだけだ。でも今はそれでいい。ただ目の前のことだけ考えればいい。そうしなければ勝利は掴めない。リリィに勝利を与えたい。彼女が抱く未来への希望を、現実にしたい。


『第十五ラウンド、開始』


 その電子音声が聞こえた瞬間、ジャスミンの脳裏から余計な思考の一切が消失した。


「わたしが回り込みます! ジャスミンさんは正面で敵を引きつけてください!」


 相変わらず無茶な作戦だ。経験者のジャスミンならともかく、まだマップ構造さえ満足に記憶できていないリリィでは、回り込んで奇襲を掛けるまでに相当の時間を有するだろう。


「わかった」


 それでもジャスミンはリリィに合わせる。初心者だからこそ伸び伸びと様々な挑戦をして失敗から学んだほうがいい――そういった理屈さえ、今のジャスミンは考えていない。とにかくどんな状況からでも勝利する。マッチポイントだろうが関係ない。


 ――私はプレミアム・ランカーだ。どんな無茶も不利も押し通して勝つだけの経験と実力が、私には備わっている!


 舞踏広間に突入。ソレイユとヨヒラと対峙。数瞬の牽制射撃。こちらが一人であることに気づいた敵チームはじりじりと距離を詰めてくる。ぎりぎりまで距離を詰めさせて、もう後がない――そんなタイミングで法術:ウェイブ・シールドを発動する。淡い青に輝く半透明のヴェールがバリアとなり、敵の輝石弾を吸収・無効化した。


 それは逃げのための一手。もう逃げられる遮蔽がないという状況で、この移動する遮蔽であるウェイブ・シールドを利用し、さらに別の遮蔽へと移動する。相手を撹乱するための行動。虚を突かれたソレイユとヨヒラの連携が僅かに綻んだ。相手チームにとっては些細すぎる失策でも、プレミアム・ランカーであるジャスミンが突くには十分すぎる隙になる。ヨヒラの反応が遅れた一瞬を利用して、ソレイユを射撃する。たまらず後退するソレイユ。ならば今度はヨヒラを狙おうか。両者に大ダメージを与え、あと一歩というところまで追い詰めた。しかしウェイブ・シールドを利用した無茶な移動はジャスミンにも負荷を与えている。遮蔽間移動で積み重なったダメージは、ジャスミンにこれ以上の積極的な攻めを許さない。


 このままでは態勢を立て直したソレイユとヨヒラに再度詰められて敗北――いやしかし、ここまで時間を稼げばもう十分だろう。


「お待たせしました、ジャスミンさん!」


 ソレイユとヨヒラが突入してきた扉から、リリィが姿を現す。ソレイユもヨヒラも目の前のプレミアム・ランカーを追い詰めるので精一杯で、リリィの存在はすっかり忘れていただろう。


 リリィの射撃は正確だった。今まで彼女の射撃を見てきた中で、最も反動リコイルを制御できていたと思う。リリィのワンドが発射した輝石弾は、ジャスミンの射撃によってドレスの耐久値が削れていたソレイユにとどめを刺す。それはリリィがこの決闘デュエルで初めて掴んだ、敵プレイヤーの直接撃破だった。


「やった……!」


 思わずガッツポーズするリリィ。しかし彼女は回り込んでの奇襲に焦りすぎるあまり、遮蔽に隠れるという基礎の基礎を忘れていた。その直後、ヨヒラからの輝石弾を浴びてリリィも戦闘不能。だがそれで構わない。ヨヒラが回り込んできたリリィを射撃している間、ヨヒラはジャスミンに背を向けていることになる。ならばジャスミンはその背中を悠々と撃てばいい。


「これで六勝」


 激戦を制したのはジャスミンとリリィ。ふたりがこの決闘デュエルに勝利するためには残り四ラウンドを制する必要がある。そしてマッチポイントに達している相手チームにはもう一回もラウンドを渡すことができない。針の穴を通すような勝利だったものの、しかしこの勝利が今回限りとはとてもでないけれど思えなかった。これをあと四回繰り返すくらい、どうってことない。余計なことを考えず、瞬間の判断において最善を選択し続ければ、どんなに困難な勝利でも自然とこちらへ近づいてきてくれる。


「すごい……すごいです、ジャスミンさん!」


 瞳をきらきらと輝かせて駆け寄ってくるリリィ。


「別にすごくないよ。私はやるべきことをやってるだけ――むしろすごいのはあなたの方」


 FHSを初めて二日目でここまでの動きが出来ているなら、初心者としては信じられない成長速度だ。彼女には間違いなく才能がある――強くなる素質はもちろん、このゲームを楽しむだけの素養がある。


 リリィもジャスミンも目の前の決闘デュエルに夢中になるあまり、観客からの声はもう耳に入らなくなっていた。初心者と経験者、昨日出会ったばかりのふたり。連携なんて望むべくもないはずのチームに、言葉にせずとも通じ合えるような何かが生まれようとしていた――

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