第20話 お化け通り

 集合住宅が立ち並び、その合間を縫うように細い路地が続く旧市街は、陽の光が差しづらく、朝は特に薄暗く冷たい気配に満ちている。そんな旧市街に高く昇った太陽がようやく陽射しを送り、春らしい陽気が満ちてきた頃、莉都は約束ぎりぎりの時間で自宅のマンションを出た。


 アスファルトの坂道をローファーで踏みしめ登っていく。休日なのに制服のセーラーを着ているのは、部活に行くと母に告げた以上は帰宅時に制服を着ていないと怪しまれそうなのと、学校に通えない愛佳が私の制服姿に何かと喜んでくれるから。スマートフォンの画面を見ると時間の猶予は一刻もない。もしかしたら遅刻しちゃうかも――と逸る気持ちをぎゅっと抑え込んで、早歩きながらも決して走らないことを意識する。息が上がったり汗をかいたりしたみっともない姿で愛佳と会いたくなかった。愛佳には頼れる幼馴染としての自分しか見せたくない。


 莉都の育った風見かざみ市は、南に海を臨み、北に山を抱え、南北に狭く東西に長い市街を持っている。穏やかな内海に面する市には、かつて開港と共に外国人居留地が置かれ、渡来した西洋文化の影響が今も市内に色濃く残っていた。海沿いの新市街では、広々とした四車線道路の脇に高層ビルやデパートが立ち並び、居留地文化の名残を活かした観光地としての人気も高い。現代においては港としての機能こそ小さくなったものの、代わりに海では広大な埋立地が開発されており、政令指定都市として間違いなく都会と呼べるだろう。


 一方で市の中央部を東西に伸びる在来線を北へ跨ぐと、新市街に満ちていた活気は一転して鳴りを潜める。市内北部は山側へゆるやかな傾斜を持つ閑静な住宅街が広がっており、莉都の住むマンションや通う学校も、この一帯に建っていた。


 そんな旧市街を北に向かってずっと歩いていった先、ビルやマンションが数を減らす山の麓に、白百合しらゆり愛佳まなかの住まう屋敷は聳えている。


 市民の生活圏から距離を置いたその地域には、開港時代に渡来した外国人たちが建設した洋館が今も数多く残っている。通称――異人街。小学生時代、莉都のクラスメイトたちはこの異人街を「お化け通り」と呼び、近づくことをタブーとしていた。人の往来が少ない通りに手入れされた生垣がどこまでも整然と連なっており、その隙間から自分たちの住む家とはまるで異なる歴史ある洋風の建築が覗く様子には、なるほど恐怖にほど近い厳かさが感じられる。


 そんな誰もが恐れる「お化け通り」にお化けなんてものはらず、そこに住まう人形のように美しいあの子のことを、わたしだけが知っている――当時小学生だった莉都はそのことに密やかな優越感を覚えていた。


 インターホンを鳴らして「莉都です」と下の名前を告げると、優雅な曲線を描く洋風の門扉は自動で鍵を外し、莉都を敷地内へ迎え入れた。手入れされた色とりどりの花々が咲き誇る前庭。芝生の間を縫うように続く石畳をゆっくりと歩む。莉都を待つのは、赤茶色の鮮やかな煉瓦によって造られた二階建ての洋館。おとぎ話に出てきそうな愛らしい外観ながら、近づくと石造りの重厚な威容がはっきりと感じられる。石積みのポーチに足を掛け、観音開きの厚そうな木製扉の前に立つ。真鍮の蝶番を叩く必要もなく、玄関扉はゆっくりと開き――そして彼女が莉都を出迎えてくれた。


「会いたかったよ、りっちゃん~!」


 おとぎ話に出てきそうな屋敷から姿を現したのは、おとぎ話の世界に生きていそうな女の子。ふわりとウェーブを描く亜麻色の髪に、卵形の小さな顔。星を散りばめたような輝きを宿したまんまるの瞳に見つめられるだけで、莉都はまるで自分までおとぎ話の住人になってしまったような心地になれる。


 ぎゅっと抱きつかれて、陶器のような滑らかな肌を擦り寄せられた。彼女の整った鼻梁がすぐ目の前に映る。髪から香る良い匂いに、頭がくらくらと揺れた。細くて弱々しい体つきながら、触れ合った温もりには女の子らしい柔らかさがある。


 朝方からの日常に感じていた鬱屈が、愛佳を前にすると綺麗に霧散してしまった。代わりに莉都の胸に込み上げるのは、自らを抱きしめてくれる愛佳への、どうしようもない愛慕の情。心の奥底に秘めていた想いが堰を切って溢れそうになって、使用人さんが見ている手前、莉都はそれをぐっと堪える。


「もう、愛佳ってば――今日も相変わらず元気ね」


 絞り出した声に欲望が滲み出ていないことに、莉都は心の中で小さく安堵した。

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