青葉の青春ハードモード

櫻川 可久

第1話 旅立ちと新生活

 不幸というのは、どのくらいの割合で自身に降り注ぐのだろう。

 学校の全校生徒の中で一人か、この街の中で一人か、この県の中で一人か。

 高峰青葉は、間違いなく不幸だ。事実と境遇で、周囲の人々は、彼を不幸だと迷いなく言うだろう。

 でも。彼は、あまりそう思わない。

 不幸とは、「恵まれないこと」という意味を持つ言葉だそうだ。なら尚更、彼はそう思わないだろう。

 なぜなら彼が。

 恵まれていないわけがないのだから。


 ※


 見慣れない部屋を、部屋の角から見回してみる。こういう時、やっぱり一度はこうしたくなるものだな。

 見慣れない部屋、だけど十五年間過ごした我が家だ。青葉は着慣れない服に身を包みながら、その床に寝転がった。

 塵一つない床。塵どころか、他に何もない部屋だ。家具も、服も。あるのはうっすいトートバッグだけ。

 今日は高校の入学式で、この家を去る日だ。もうここには戻ってこない。段ボールももう引っ越し業者に持っていかれて、今頃は新居にあると思う。

 寂しいとかはあまりない。楽しい思い出も、つらい思い出もあるけど、感情はあまり揺れない。その理由なんて考えたりはしないけど、これからの生活にあまり不安を感じないから、だろうか。

「なんか、違う家みたいだな」

「ちょっとお兄ちゃん!なんで制服で寝っ転がってんの!」

 白い天井が、遮られて見えなくなる。不満の表情をくっつけた顔が、青葉の顔を覗き込んでいる。

 小さな身体で青葉を見下ろしているのは、妹の柚華だ。青葉以上に見慣れない制服を身に着けて、時折スカートを気にしている。

 今日は中学校も入学式だったか。

「埃ついちゃうし、制服、しわになるよ!」

「毎日着るものだしいいだろ別に。それにそもそも、柚が洗面所独占するから、暇してこうしてたんだし」

「暇になったら寝っ転がるの、お兄ちゃんは」

「柚もやってみたらどうだ?思ったより楽しいぞ」

 綺麗な床に体をあずけて、白い天井を何も考えずに見つめる。退屈だけど、心が安らぐものだ。このまま寝ちゃいたいくらい。

「やらないよ。お兄ちゃん暇人なの?」

「僕は多忙だぞ」

「じゃあ早く直してきなよ、寝ぐせ。どうせあんまり変わらないだろうけど」

「人のコンプレックスを」

 それなりにくせっけを気にしていた時期もあったんだが。今は何も思わないけど。

 青葉はだるい体を持ち上げて、洗面所でテキトーにドライヤーで髪を揺らす。

 数分で切り上げて、多少ハネが収まった頭で空っぽのリビングに戻る。

「ん、柚」

「・・・・・・・ちょっと疲れてたから」

 戻ると、リビングの窓側の方で太陽に当たりながら寝転がっている柚華がいた。

「素直な妹だなぁ」

「う、うるさい」

 ドライヤーや洗面所にあったものを、トートバッグに詰める。今日ここに何かを残すわけにはいかないから。

 後は昨日きていた服と、寝るのに使った寝袋くらいか。それらも今日持って行って、学校の前に新居に置きにいかないと。

「お兄、ちゃん」

「ん?どうした?」

 荷物を整理しながら、柚華に返事をする。だが、すぐには返事が返ってこない。

「えっと、その・・・・・・・」

 目を向けて、何となく何を言いたいのかが分かった。上半身だけ起こした柚華の、足から頭をしっかり一瞥して、欲しい言葉をあげる。

「ま、似合ってるぞ」

「ほんとに?」

「ああ。というか、紅葉さんに一度見せたんだろ。なら大丈夫に決まってる」

 紅葉というのは、これから同居することになった恩人だ。青葉が一番大変だったときに、支えてくれた漫画家の大学生で、これからは一応の保護者でもある。

 漫画家である紅葉に、服のセンスがないわけがない。ファッションセンスの全くない青葉に聞くよりよっぽど信用があるだろう。

「でもさ、あの時は髪がまだ長かったから」

「その髪も、中学生らしくていいんじゃないか」

 以前までの柚華は髪を伸ばしていた。だが今は、肩ほどの長さに切り揃えられている。

 なぜだか、突然最近になって切って来たのだ。失恋でもしたのか、それとも進学するから、ただの気分一新か。予告もなしに短くなっててびっくりした。

「そうかなぁ」

「気にするなら切らなきゃよかったのに。きっと紅葉さんもびっくりするぞ」

「だって・・・・・・・なんとなく、切りたくなったんだもん」

「だったら気にするのもおかしいだろ」

「そうだけどさぁー」

 また上半身を倒して、両腕を広げる柚華。俺に埃だのしわだの言ってたのは何だったのか。

 ふと、時計を見る。かなり余裕をもって起きたが、一度新居に戻らないといけないのと、柚華を中学に送ることも考慮すると、そろそろ出たほうが良さそうだ。

「柚、そろそろ、って」

「ふあー-・・・・・・・」

「・・・・・・・寝るなよ」

「寝ないよ」

 つられて青葉もあくびを漏らす。正直朝は眠気関係なしにあくび出る気がする。

 全く眠くないと言えば嘘になるけど、青葉の朝はあまり早くなかった。今日は朝ごはんコンビニパンで済ませたから、起きる時間があまり早くならなかった。

 それに徹夜に夜更かしなんて、結構な頻度でやるから、眠気には強い。中学の頃は授業中眠っていたけど。

「さて、そろそろ行くぞ」

「うん」

 柚の手を持って引いて、立たせてやる。柚の小さい身長に細い体は、凄く軽い。身体は弱くはないだろうけど、少し心配になるくらいの重量だ。

 柚華がスカートをはたくのを少し待って、荷物を持つ。リビングと繋がる廊下の前に立って、何もない部屋に振り向く。

「何かし残したことはないか?」

「・・・・・・お兄ちゃんこそ、泣いたりはしないの?・・・・・・・お父さんと、お母さんと暮らした家だよ?」

 少し躊躇って、両親のことを口にする。きっと俺と、自分にも気を遣ってのことだと思う。

 それを聞いても青葉は、何気ないように続ける。

「別にな、感動とかは無縁だからな」

「・・・・・・・・・」

「ん?何か言ったか?」

「ううん。行こっか」

「ああ」

 先に柚華が動き出してしまったので、青葉もその後を追う。

 聞き返しはしたが、何を言ったのかは分かっていた。

『そんなことなかったのに』

 言いたいことは分かるが、今の青葉には聞こえていたら返す言葉に困っていた。今の青葉が、以前の青葉に戻ることはもうない。

 だから気にせず、玄関の扉を開ける。もうここには戻らない。戻れない。不変のものなんてないのだから、それでいいのだ。

 今はこの先が、楽しみで仕方ないのだから。




 家を出て、駅に向かう。

 中学校を横を通って、駐輪場を通り越して、線路沿いを少し歩いて、五分後にはもう駅に着いた。柚華が少し慎重な足取りで後ろをついて来ているので、速度を合わせて。

 駅までは何度も来たことがある。青葉は中学二年の頃から紅葉のところでバイトをしている。それで、何度も電車は使っている。

 だがおそらく。柚華は今日が初めてなんじゃないだろうか。

 駅について、ホームに降りる。そしてすぐに、電車は到着する。

「・・・・・・・大丈夫か?」

「う、うん」

 柚華が青葉の背中を握る。やっぱ初めてらしい。電車の速度でこの緊張ぶりじゃ、今朝の電車の中は、柚華には厳しそうだ。

 そして、電車に乗り込むと。

「・・・・・・・柚、も少し離れてくれないか?」

「わ、私は、みんなのために出来るだけスペースをとらないようにしてるだけだもん」

 そう主張する柚果は、腕を回して青葉に抱き着いていた。顔をしっかりうずめて。

 確かに、時間帯が悪かったのか、電車の中はそれなりに混みあっている。やっぱりいきなりこの人口密度は厳しかったか。

「懐かれるのはお兄ちゃん冥利に尽きるんだが、流石に鬱陶しいぞ」

「だって~」

「ほら、これ貸すから、ゲームでもしてろ」

「スマホ?うん、ゲームしてる」

 スマホを受け取った柚果は、限りなく青葉に近づいた状態で、器用にゲームを始めた。

 満員というほどの電車でもないので、長い電車の時間はあまり苦にはならなかった。一回乗り換えして、40分ほどで目的の駅に到着する。

「長かったね、お兄ちゃん」

「そーだな。僕もこんな長く乗ったのは初めてだ」

 乗り換え自体が初めてだった。間違えなくてよかった。最近のスマホは便利なんだな。

「ここから新しい家に行くんだよね?」

「一度荷物を置きにいかないとな」

 流石に入学式にドライヤーやら寝袋やらは持って行けない。

「楽しみだなぁ、私初めて行く!」

「写真も見たがらなかったしな」

「だって初めて実物見たほうが楽しいから!」

「築50年のボロ家だったらどうする?」

「マンションって言ってた」

「それは言ったんだった」

 そんな他愛もない話をしながら、駅を遠ざかっていく。

 駅からは20分ほどは歩く。俺の高校に、柚華の中学校の距離の方を優先して、紅葉が新居を決めたから、駅からはあまり近くない。家賃などの兼ね合いもあったし。

 これからはあまり駅に行く機会も少なくなるだろうし、紅葉もあまり使わないから問題なかった。全然歩いて行ける距離だし。

「そういえばさ、紅葉さんって凄い多趣味なんでしょ?」

「まあ、仕事柄な」

「仕事柄?」

「あれ、言ってなかったか?紅葉さん、漫画家なんだよ」

「え、そうなの!?凄い人じゃん!」

 紅葉の話はあまりしたことがなかったかもしれない。青葉は中二の頃からお世話になっているが、柚華が紅葉に初めて会ったのは割と最近だった。

 それ以前にも話したことはあるのだが、細かく話したことはなかったな。特別に働かせてもらっている人って話していたし。

「まあだから、一回ぽっちの趣味が多いから、やたら道具だけはあるんだよ」

「へぇー、もっと早く教えてよ~」

「ごめんごめん」

 正直柚華に仕事の話はしたくなかったから、無意識に避けていたのかもしれない。「ん?じゃあお兄ちゃんは漫画家さんの身の回りのお世話をしてたってこと?」

「まあ家事全般な」

 仕事は土日と学校終わりしかなかったから、あまり大した仕事は出来ていなかったけど。家事なんて家でもこなしていたし。

「お兄ちゃんは・・・・・・・その人のことどう思ってるの?」

「なんで柚にそんなこと言わなきゃいけないんだよ」

「いいじゃん。お兄ちゃん友達いないし、恋愛相談なんて私くらいにしかできないでしょ?」

「だったらしないほうを選ぶな」

 妹に恋愛相談とか、普通に嫌だな。相談するほど悩んだこともないし。

「だって、紅葉さん絶対お兄ちゃんに気があるよ!」

「なんでそうなる」

 今の話だけでどうしてそう思ったのか。

「普通男子に身の回りの家事と、それに同居なんて、好きでもないとできないよ」

「それは紅葉さんが優しいからだよ。それに柚だっているだろ」

「それは口実。お兄ちゃんと暮らしたいから、一緒に暮らそうって誘ってきたんだよ、多分」

「・・・・・・・・・」

「やっぱ誘ってきたんだね」

 どうして青葉が提案された側だと言ったこともないのに分かったのだろうか。それに少し驚いて、続きの言葉が出なかった。

「分かるよ、お兄ちゃん遠慮するもん。凄く助けてもらった人なのに、これ以上迷惑かけられない―って」

 妹がいやに鋭くなっていて、少し驚いてしまう。小学生の頃とは大きく変わったように思う。

 成長を感じる、というか中学生らしくなった。それが嬉しい反面、少し心配になる。大人に近づくにつれ、遠慮しちゃうから。

「でも、紅葉さんがお兄ちゃんのこと好きなら、問題ないじゃん。お兄ちゃんも好きならだけど」

「・・・・・・・どちらにしろ追いつかないと告白できないな」

「それは借りを返さないと?」

「まあ、恩は返したいとは思うけど。紅葉さんはそんなことを気にする人じゃない」

 正直青葉の方は返したいと思ってしまうけど、紅葉さんはそんなことのために青葉に優しくしてくれたんじゃないから。

 恩を返してから、なんて考えたら、いつになるか分からない。どんなに努力しても、返しきれない希望をもらった。だから、そんなことにはこだわらない。

「紅葉さんは、凄い人なんだ。だから、目を凝らして見えるくらいまで僕も凄くなったら、だな」

「・・・・・・・そっか。よく分からなかったけど、きっと大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 結局妹に励まされてしまった。よくできた妹もいたものだな。

 そうこうしているうちに、新居のマンションに到着する。七回建ての立派なマンション、その三階に紅葉と青葉たちの部屋がある。

 エレベータを使って三回に登り、降りてすぐ右に曲がって、二つ目のドアで足を止める。

 あらかじめ渡されていた鍵を使って、中に入る。後ろに柚華も、そわそわしながらついてきている。

「ここが新しい家だ」

「きれーい!」

「きれい、か?」

 玄関には大量の段ボールがつまれ、あるのは最低限の靴だけ。紅葉は確か五日前からもうここに住んでいるはずだが、全く荷解きが進んでいない。

 物が多い上に、締め切りに追われる漫画家だし、仕方ないか。そもそもこれは青葉の仕事で、新学期だからって休みをくれたのは紅葉だ。帰った後に取りかかればいい。

「早く中行ってみよーよ!」

「すまんが柚、もう行かないと時間がまずい」

「もうそんなに?」

 柚華を中学まで送って、高校に向かったらギリギリだ。家で少しゆっくりしすぎたか。

「それに、紅葉さんは今寝てるか、締め切りに追われてると思う。邪魔しちゃ悪いからな」

「・・・・・・・うん、そうだね。じゃあもう行こう」

「ああ」

 荷物を玄関の段ボールの上に置いて、靴も脱がずにそのまま外に出た。

 マンションを降りて、まずは中学校へ。青葉の高校と柚華の中学は、反対方向ではないものの少し距離がある。

 中学校までの道を歩くと、ぽつぽつと制服を着た親子が見えた。新入生と入学式を見に来た親だろうか。

「柚、入学式付き合えなくてごめんな」

「ん?いいよ別に」

「何なら、高校サボっていてやろうか?」

「お兄ちゃんも入学式でしょ。いいって。そもそもそんなのに興味ないし」

 ああいう親子を見ると、いつだって思ってしまう。親のいない柚華に、そういう引け目というか、不自由を感じてほしくないって。

 でも、柚華の反応を見て、遠慮している様子もなければ、羨む様子もない。なら、大丈夫そうだな。

「そんなことより、自分のこと心配してよ」

「ん?」

「友達。お兄ちゃんそういうとこ全然ダメなんだから、初日逃しちゃダメだよ」

 そういうとこダメだって、柚華は青葉のどこを見てそういうのだろうか。確かに、中二からは時間がなくて、友達との交流なんてほとんどゼロだったけど。

「俺は、いいよ。今はやりたいこともあるから時間もないし、紅葉さんがいるからな」

「ダメだよ!一日の大半を学校で過ごすんだよ?女友達は無理でも、せめて男友達くらいは作らないと」

「自分はどうなんだよ?多分柚の方が難しいと思うぞ」

 余計なお世話なので、話を逸らす。それに、これはもっともな話だ。

 俺は高校生で、周囲のみんなもきっと同じ状況だと思う。同じ中学校の人はいるかもしれないけど、きっと柚華の中学校ほどでもないと思う。

 別に柚華は中学受験で今の中学校に決まったわけじゃない。引っ越しに合わせて、立地を考慮してそこを選んでくれたのだ。中学は小学校がそのまま上がってくるパターンが多いから、柚華は自分だけ知り合いのいない状態でのスタートになる。

 俺はボッチでも気にならないからいいけど、柚華は違う。俺はそっちの方が余程心配だ。

「私は、頑張る。お兄ちゃんほど人間関係不器用じゃないしね」

「だからお前は俺の何を知ってるんだよ」

「だからさ、お兄ちゃんも頑張ってね」

 柚華が足を早めて前に出て、俺の方に振り向く。気が付けば、もう中学校の前まで来ていた。

「じゃ、終わったら私この辺で待ってるからね」

「ああ。出来るだけ早く迎えに来る」

「うん!じゃあ言ってきます!」

 待ち合わせの約束だけして、元気に校門に出向いて行った。

 と思ったら、柚華が途中で足を止める。

「お兄ちゃん」

「ん?どうした?」

「・・・・・・・挨拶は、笑顔でね」

 忘れ物かと思ったが、それだけ言って今度こそ、校門まで進んで行ってしまった。

 本当に余計なお世話だと思いながら、青葉も振り向いて、自分の高校を目指す。

 高校生活はどんななのだろうか。友達はいらないが、いじめられたくはない。公立の高校だし、大丈夫だとは思うけど。

 友達なんて、多分できない。できたとしても、遊びに行く時間も余裕もないのだし。

 それに。挨拶は笑顔で、なんて、ここ数年できた試しがないのだから。

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