第21話:ニュー・スコットランドヤード
テムズ川に面した赤レンガ造りの立派な建物。そこがスコットランドヤードの本部だ。1890年に移転され、まだ10年も経っていない新築で、正式な名前は『ニュー・スコットランドヤード』だとか。
こんな形でなかったらさぞかし異国の警察署に感心し、見てまわっているだろう。が、犯罪者と並んで留置所に入れられている今のルーヴィックには、そんな余裕はなかった。
カーター教授宅の崩壊で運よく助かった彼だが、スコットランドヤードは見逃してはくれなかった。倒壊の犯人として捕まる。もちろんそれを否定した(半分は自分が壊しているかもしれないが)が、犯人でなくとも不法侵入なのには変わりはなかった。
大人しく連行されると、大学にいたジョーンズ警部の執拗な取り調べが待っていた。
彼は、教授宅にいた理由や彼の異様な持ち物(呪具や聖具などのオカルトグッズ)について質問してから、ヘンリーとの関係や彼が追いかけている事件は何か、などを聞いてくる。
ジョーンズ警部の口ぶりからすると、ヘンリーのことをエクソシストだとは知らなくとも、怪しげな事件や事故を専門で取り扱っている特殊な存在、ぐらいには考えているようだ。だからこそ、自身が担当するカーター教授の死亡に、首を突っ込んでくるヘンリーが気になっているのだ。そして、急に現れたルーヴィックについても。
好奇心や警戒心、不安、そして何より見えないものに対する恐れをジョーンズ警部は感じているのだ。彼はルーヴィックに言った。
「ヘンリー・プリーストに関われば警察人生が終わる。何人もそういった人間を見てきた。だからできるだけ避けてきたが、自分の事件に関係があるのなら話は別だ」
尊大で無能そうには見えるが、割と仕事に対しては真面目なようだ。警察にはもったいない。
さて、どう答えたらいいだろうか。
素直に話した所で信じてもらえるとは思っていない。その辺りは、アメリカもイギリスも同じだろう。ただ違う所は、アメリカならばホームなのでどうにでもなる。しかし、イギリスでは完全にアウェー。相手を刺激すると逆効果になって身動きが取れなくなる。
なので、ルーヴィックは言葉を選んでこう答える。
「あんたの出る幕じゃねぇ。命が惜しければ、静かに任せて帰れ。俺たちはプロだ」
そして、留置所にぶち込まれた。
「あの野郎、荷物を全部持ってきやがって」
ベンチに腰を掛けながら舌打ちをした。
銃や道具箱だけでなく、コートにハット、ジャケットまで没収された。
一つの檻に、複数人が収容されており、ガラの悪い連中の中で、ルーヴィックも負けず劣らぬガラの悪さでベンチを一つ陣取っている。
入ってきた時に少し絡まれたが、アメリカ式の誠意ある話し合いの結果、そいつらは地面を舐めることになった。それからは遠巻きにルーヴィックを眺めるだけだ。
さて、どうしたものか、と考えながら自分の靴に付いた泥を指で取り、壁際まで移動する。そして、その壁に模様を描き始めた。
「クソが。どうしろってんだ?」
ルーヴィックの背中には、次第に強くなる冷たいものが感じられた。
☆ ★ ☆
「カーター教授の家が倒壊した?」
署で報告を受けたヘンリーはあまりの驚きで、声を張り上げていた。周囲の職員が彼に視線を向けるので、恥ずかしさで慌てて口元を手で隠す。
「それで、本当なのですか? ダニエル君」
声を潜めて聞く相手は、大学でジョーンズと一緒にいた若い制服警官のダニエルだ。
「あ、はい。間違いないです。ジョーンズ警部と一緒に行って見ましたから」
ヘンリーは大学での銃撃騒ぎのあと、駆け付けた警官に適当な報告をして署に一度戻ってきた。理由はレイ・カーターの所在地を調べるため。そこへちょうどダニエルが通りかかったため、捕まえて話を聞いていたのだ。ちなみにユリアとステファニーも同行しており、すぐそばの個室にいる。
「それで現場にいた男を捕らえました」
ダニエルの言葉に、ヘンリーは嫌な予感がする。
「その男というのは?」
「前にプリースト警部と一緒にいた人です」
やっぱり、と天を仰いだ。
「それで、彼は今どこに?」
「ジョーンズ警部の取り調べが終わって、留置所に入ってるはずですが……」
「他の犯罪者と一緒にですか? 可哀そうに」
「警部でも知り合いが留置所に入ったら、そういう感情が湧くんですね」
「いえ、彼と一緒に留置所に入っている方々が可哀そうで」
軽くため息を吐くヘンリーに、ダニエルは変人を見る目を向ける。
「では、さっそく哀れな囚人たちを救うために、ルーヴィック釈放しにいきましょうか」
ダニエルの視線をまったく気にする素振りもなく、ヘンリーはにこやかに言うと、ダニエルは慌てた様子で首を横に振った。
「勘弁してくださいよ。今、こうやって話してることですらジョーンズ警部に知られたら雷を落とされるのに。釈放なんて勝手にしたら、窓からテムズ川に突き落とされますよ」
「大丈夫ですよ。彼、私にはそういったことしないので」
「いや、僕がされるんですけど」
何が面白いのか、軽快に絵になる笑い方をしながらヘンリーはダニエルの肩をバシバシ叩く。
ジョーンズ警部にはヘンリーとは極力関わらない様に言われている。が、立場も階級も出生も上のヘンリーに話しかけられ、無下にすることもできない。それに綺麗な顔をして物腰も柔らかなヘンリーだが、何を考えているか分からない怖さもあった。
ダニエルはうんざりしながらため息を吐きたい気持ちを必死で堪えていると、少し署内が寒くなったように感じて軽く身震いする。
「あぁー、ダニエル君。君、十字架とか身を清めるものは持ち歩いていますか?」
にこやかな表情は変わらず、ヘンリーは急に話題を変えた。答えに詰まっていると、彼は懐から正方形の羊皮紙を取り出して差し出す。
「なら、持っていた方がいいですよ。まさか、とは思いますけどね」
ヘンリーは小さく眉をひそめながら周囲を見渡した。
☆ ★ ☆
その人物がどのように入ってきたのか、それは誰も知らなかった。
気が付いたらスコットランドヤード本部の廊下にいた。
全身をローブに身を包み、フードを深くかぶっているので表情も分からない。背中は大きく曲がり、足を擦るように歩いている。手に持った鎖の先には香炉がぶら下がっており、歩くたびに白い煙を吐きだされる。それは異様であり、甘ったるさもありながら獣の油を焼いたようなものも混じっているのか、吐き気を催すような臭いだった。
署内の職員たちは臭いから顔を顰め、ようやくその人物に気が付いた。それまでは、人の意識から外れたように、誰の目にも入ることはなかった。
薄暗い廊下は、その人物が通ると香の煙で霞がかかった状態になり、余計に暗く、不気味な雰囲気を醸し出していた。
「ちょっと、あんた!」
明らかに怪しいそのローブの人物を遠巻きに見ていた制服警官の一人が意を決して声をかける。
しかし、返答はない。
ただゆっくりと足を引きずるようにして進んでいる。
「どこから入ってきたの? 何の用?」
寒さに耐えかねた浮浪者かもしれないし、クスリで飛んでるジャンキーかもしれない。どちらにしても、異臭を放つ香をこれ以上撒かれては迷惑だ。おとなしく出て行けば良し。もしもの時は、強硬手段を取ることも辞さない。と警官は警棒を握りしめて近づく。
「聞こえないのか?」
相変わらず反応を示さない人物に、当初の恐れも引っ込み、苛立ちが勝ってくる。
そばまで来ると警官は肩口のローブを掴んで振り返らせた。
その弾みでフードが頭から外れる。
警官の口から「ッヒ」と小さな悲鳴。
ローブの下には顔などなかった。否、人などいなかった。
そこには大量のネズミが寄り集まり、人の形を成していた。ネズミが蠢くことでそれは表情を変えると、口(人だったら口に当たる場所)を大きく開けると建物全体に響き渡るほど声を上げる。
「オギャー!」
赤子の鳴き声のような声だった。
その次の瞬間、人の形は崩れ始め、ネズミは三々五々逃げていく。
現実とは思えない光景に呆気に取られていると、悲鳴が聞こえた。
視線を向けると、職員が別の職員の腕に噛みついている。引き離そうと駆け寄る職員の中でも、正気を失って別の者に襲い始める者が現れた。
悲鳴の数はドンドン増えていく。
「な、なんだあれ……」
状況の把握ができない警官の口から漏れた。それはいきなり人を襲い始めた同僚に言った言葉ではなく、その周りの靄、先ほどのネズミの塊が持っていた香から出る煙が微かだが人のような動きをしている。それも1人や2人ではない。おびただしい人の靄が署内に漂い、職員に入り込んでいるのだ。
そして気付いた時には、その警官の目の前にも人の顔があった。目も鼻も口もないはずの白い霞のはずなのにハッキリとその表情は分かった。憎しみの籠った目で、卑しい笑みを浮かべている。
自分の中に、何かが入ってくるのを感じ、視界が真っ黒になった。
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