第17話:大学に迫る影

 ヘンリーは大学の敷地内を歩いていた。

 彼はいつもの服装にシンプルながらも上質な光沢のあるネイビーの傘をさしてており、強くなる雨がそれを小気味よく打ち鳴らしている。地面が濡れていなければ鼻歌交じりにステップを踏みたくなるくらいだ。


 やっぱり、傘を持っていった方が良かったのに。


 心の中で今朝のルーヴィックを思い返しながら、小さな笑いが漏れる。

 今頃、ずぶ濡れになって後悔しているだろう。と、言っても、強情な性格なので、表面的には何でもないように装っているに違ない。

 雨に対してふて腐れる彼の顔が見られないことを残念に思いながら、もう一度口元を綻ばせてから、気持ちを切り替える。

 少し歩くペースを速めて校内へと入り、昨日訪ねたカーター教授の部屋へとたどり着く。

 扉は締まっているが、中に人の動く気配がある。

 ノックをすると、室内から「はい」と女性の声が返ってきたため、構わずに開けた。

「失礼します。ヘンリーです」

 ヘンリーは軽くハットを持ち上げ、完璧な笑顔で挨拶をする。

 中には助手のステファニーと、もう一人。若い男性がいた。

 2人は部屋の片づけをしていたようで、荷物や本が箱に並べ積まれていた。

「あぁ、昨日も訪ねてこられた……」

 ステファニーが怪訝そうな顔をしながら作業の手を止めた。

「いやいや。覚えていただいていたようで、光栄です」

 ズカズカと室内に入るヘンリーに、ステファニーは「まぁ」と曖昧な返答をする。かなり印象的な登場と質問をして帰っていった2人を忘れる方が難しい。それに線が細く女性のようなしなやかな体躯に美麗な顔つきのヘンリーは、嫌でも記憶に残るだろう。

「それで、今日はどのような御用でしょうか?」

「いくつかお聞きしたいことがあったのですが……お片付けですか?」

 ヘンリーの問いは、ステファニーではなくもう一人の男性に向けられていた。

「あぁ、はい。捨てる物と遺品として残す物を分けようと」

「ということは、カーター教授の息子のレイさん?」

 遺品の選別をするということは、ただの手伝いではない。親しい存在のはずだ。特に親族。ただし、カーター教授の身内は息子が一人なので、おのずと答えは見えてくる。それに昨日、死体安置所の入り口ですれ違ってもいるので、何となく見覚えがあった。

 言い当てられたレイは驚いたように目を向いてから、怪しむような目付きになる。当然だ。いきなり現れた知らない男に、自分のことを言い当てられたのだから。

「それで……あなたはどちら様でしょうか?」

「そうでしたね。不躾な行為にお詫びを。私はヘンリー。スコットランドヤードです」

 シルバーのバッジを見せるヘンリーを、疑わしそうに眺めるレイの視線は隣のステファニーに移る。彼女はその視線に気付いて、軽く頷いて見せた。

「ヘンリーさん。それで、今日はお連れの方はいらっしゃらないんですね」

「そうなのです。今日は別行動をしておりまして、それに彼はああ見えて繊細でして。昨日、あなたに失礼なことを言ってしまい後悔しておりました」

 ステファニーは「お気になさることはないと伝えてください」と大人な対応で返す。

「さぁ、レイさん。実はここに来た理由の一つが、あなたの捜索でした」

「俺の?」

「はい。お尋ねしたいことがあったのですが、お父上とは別居されていますよね」

 レイは渋い顔をする。

 ヘンリーの指摘の通り、住んでいるのは教授と同じロンドンだが、同じ家では暮らしていない。親子仲はお世辞にも良好とは言えず、ほぼ絶縁状態。研究に没頭する教授は、研究者としては立派だったが、父親としては最低だ。一緒にどこかへ出かけた思い出もなく、母親の死に目にも表れない。

 彼としては、今後会わなくてもいいと思ってはいたが、心のどこかでいつかはまともな父と子に戻るのでは、とも期待していたのだろう。それがまさか、あんな状態で昨日再会するとは思ってもみなかった。

 父親の死を知らされ、黒焦げになった父親だった物を確認したが、いまいち現実味がない。ただ。あの姿は一生忘れないだろう。思い出すだけで吐き気がこみ上げてくる。

「嫌なことを思い出させてしまいましたね。この度はご愁傷さまです」

 顔色を曇らせたレイに、ヘンリーは優しく語り掛け、ハンカチを差し出す。

「いえ、父とはすれ違ってばかりでしたから。こうして遺品を片付けていると、本当は何も知らなかったのだと思います。他の人の方が、父のことをよく知っているようです」

 何人か教授の知人が訪れ、思い出話でもしていったのだろう。レイは少し寂し気な目で机の上に置かれた教授の写真を見つめる。それから、ヘンリーに視線を戻した。

「それで、何が知りたいんですか? 分かることなんて限られてきますけど」

「お父上の事件についてです」

「事件? 事故ではないんですか?」

「いえ、これは事件です。カーター教授が事故で亡くなるとは考えにくい」

 その言葉には確信めいたものが込められていた。

「どうして、そんなことを……?」

「その前に、レイさん。教授から何かを渡されていないですか?」

 その質問に、レイは一瞬だけステファニーに視線を送った。

 それは見過ごしてもおかしくないほど一瞬のことだったが、ヘンリーは目ざとく気付いた。様子から見るに2人で話し合って、誤魔化す話し合いでもしていたのだろう。

 ヘンリーはレイが口を開く前に言葉を続ける。

「ステファニーさんと話し合われていますね。大丈夫。私は味方です」

 心が読まれた様に話されたレイはギョッとして、再度ステファニーに視線を送った。今後は、特に注意していなくても分かるくらい、明らかに。

 しばらく2人は見つめあっていたが、ステファニーがため息を吐きながら頷くと、レイは話し始める。

「父が死んだ翌日に、包みが郵送で届きました。送り主などの名前はなかったですが、宛名の所が父の字でした。中身は黒い石のような物でできた箱です」

「昨日、ヘンリーさんたちが教授の持っていたキューブについて気にかけておられたので、もしかしたら危険な物かもしれないと、レイさんにはあまり口外しないように言っていたんです」

 ステファニーがレイから引き継いで説明した。

「なるほど、教授はやはり送っていましたか。それでキューブは今、お持ちで?」

「いえ、家に置いてあります」

「早速、取りに伺っても?」

「あぁ、はい。大丈夫です」

「じゃぁ、私も!」

 ヘンリーと出かける準備をするレイに、ステファニーは声を上げるも、ヘンリーは首を横に振った。

「いえ、あなたはここに残るべきです。危険ですので」

 そう言われてステファニーは渋々、提案を受け入れようと息を吐いた時だった。


 その息が真っ白く染まる。


 急激に室温が下がり寒気がする。それは錯覚ではなく、ステファニー同様にレイやヘンリーの息も白くなっている。肺まで凍りそうだ。そして、微かに臭う硫黄のような刺激臭。

「なんだこの臭い?」

 眉をひそめながら呟くレイに、ヘンリーは薄っすら笑みを浮かべて答えた。


「悪魔、ですよ」


 ヘンリーは懐からチョークを取り出すとレイとステファニーを囲むように床に円を描く。

「この外には出ないでくださいね」

 2人の返答も聞かずに、扉へと向かい模様のような物を描き始める。

 すると、次の瞬間には扉の向こうから強烈なノック音が3回鳴り響く。それは扉を壊してしまいそうな勢いだったが、ヘンリーが描き終わると、先ほどの音が嘘みたいに静かになった。


「キャッ」


 短い悲鳴に視線を向ければ、声の主、ステファニーが窓を見ていた。レイもそちらを向いたまま目が釘付けになっている。

「ありあえない……」

 窓の外には死んだはずのリチャード・カーター教授がずぶ濡れになって室内を見ていた。

 無表情で大きく見開かれた目には何の感情があるのか分からないが、体の底から震えが湧き上がってくる。直感で分かる。


 あれはリチャード・カーター教授ではない。


 教授のような者は窓枠に手をかけ、開こうとしている。

「あぁ、鍵が……」

 小さな悲鳴のような掠れた声がステファニーの口から漏れる。

 窓の鍵が開いている。

 鍵など閉めて意味があるかなど考える余裕もなく、レイが円から出て窓に飛びついた。

 父の姿をした何かが窓を開ける前に施錠でき、それは入ることができないようだ。

「円から出ないでください!」

 鋭い声と共にヘンリーはレイの元まで駆け寄ると、強引に掴んで背後に引っ張る。華奢な体からは考えられないほど力強く、レイはそのまま床に尻もちをついた。

 その様子にヘンリーは間に合ったと安堵のため息を吐くのと同時に、「やれやれしくじった」と失意のため息も漏れた。

 レイの目には見えなかったが、突如現れた鎖がヘンリーの体に絡みつく。

 次の瞬間、強烈な力で引っ張られ、彼の体は浮いて窓を突き破る。

 窓ガラスは割れ、枠は砕け、ヘンリーを外に投げ出そうとした力だが、持っていた傘を横にして窓壁に引っかけるようにして耐えた。

「これは……なんとも……」

 引っ張られ続ける力に抵抗するヘンリーにも余裕はないらしく、顔を真っ赤にして踏ん張っている。レイとステファニーは慌てて助けに来ようとするが。

「助けは無用です! そんなことよりも、今はこの部屋からお逃げなさい。扉に魔除けを施しましたので、今なら安全に出られます。私は後で追いかけます」

 ヘンリーは笑みを見せながら言う。レイは一瞬躊躇うも、隣のステファニーは「分かりました」と頷いて彼の腕を取って扉から出ていった。

 残されたヘンリーは相変わらず引っ張られ続けている。腕がそろそろ限界だ。

 すると彼を支えた傘が軋む音が聞こえてくる。傘も限界なのだ。このままでは折れるか、曲がってしまうだろう。

「はぁ~。これは、お気に入りの傘ですからね」

 そう呟くとヘンリーは傘から手を放し、窓の外へと吹き飛ばされていった。

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