ゲート・オブ・ヘルズ

檻墓戊辰

プロローグ:天使が死んだ日

第1話:崩れ始めた均衡

 19世紀と呼ばれる時代にも、ようやく終焉の兆しが見えてきた頃。

 骨まで凍りつきそうな寒い夜に『天使が死んだ』。


 とっぷりと日も暮れた深夜。しんしんと降り続く雪のせいも相まって、外を出歩く者の姿もない。

 そんな中、明かりを付けず、真っ暗な部屋。

 外の通りを照らすガス灯の明かりが、振り続ける雪に反射して、微かに室内を照らす。

 簡素な部屋に置かれた椅子には男が一人。コートは着たまま、シワになることも気にする様子もなく、足を床に投げ出してだらしなく座っていた。部屋は明かりだけでなく暖も取っていないようで、彼の吐く息は白くなって消える。

 彼は『呆然』といった様子で虚空を見つめてはいるが、開かれた目には強い力が籠っている。

 男は視線を一度外に向けつつ、ポケットから煙草を取り出して咥えると、隣のデスクの縁でマッチを擦って火をつけ、煙草に移した。そして、自分を落ち着かせるように大きく吸い込み、数拍息を止めてから天井に向けて紫煙を吐き出した。

 ゆらゆらと漂い消える煙を目で追う男の顔を、窓からの明かりとタバコの火が微かに照らす。


 男の名前はルーヴィック・ブルー。


 ブラウンのトレンチコートに黒のジャケット。グレーのベスト、白いシャツと、字面だけ見れば品のよさそうな格好。しかし、その鋭すぎる挑発的な碧眼に無精ひげ、おまけに肉が削げ落ちたような痩せた(やつれたと言った方が適切かもしれない)顔はお世辞にも紳士とは程遠かった。歳は二十後半から三十前半だろうが、見方によっては、酷く老けても、逆に幼くも見える。

 一見、ギャングなどを連想させる風貌だが、ジャケットの胸ポケットに掛けられたバッジが彼の身分を証明している。

 彼は連邦捜査官だった。

 紫煙を何度か吐き出してから煙草の火を消す。そして最後に大きなため息を吐いてから、デスクの上に置かれた機械に向き直る。

 それは卓上タイプの電話機。この時代では珍しい代物だ。一介の人間が持っている物でもない。

 ルーヴィックは受話器を取ると、電話機に取り付けられたハンドルを回す。

 しばらくのうちに相手からの応答があった。

 電話局ではなく、直通で繋がったらしい。

 ルーヴィックは通話相手が口を開く前に、端的に言った。


「……モルエルが死んだ」


 その言葉には大きな落胆と悲痛な色が込められていた。

 突然の報告に、通話相手も息を飲むのが受話器越しにも分かった。

 ルーヴィックはそれだけ伝えると、相手の返答を待つことなく電話を切った。

 静寂の戻った室内で、また大きくため息を吐くとコートのポケットから中から詰めた物を取り出してデスクにぶちまける。

 乾燥したセージの葉、魔除けの銀貨、折れ曲がった煙草が数本とドル硬貨が数枚。くしゃくしゃの紙切れが数枚。そして、翡翠色の指輪。

 指輪の表面には細かな装飾と文字が掘られた美しいものだった。何て書いてあるのかは残念ながら読むことはできない。それは天使の使う言葉だからだ。

 ルーヴィックは窓から微かに差し込む光に指輪を当ててしばらく観察してから、自身の首にかけた十字架の紐に通して首に掛けなおす。そして、見えないようにシャツの下へ。

 重い腰を持ち上げて立ち上がると部屋の明かりを付けた。

 照らされた室内の壁や棚には、所せましと様々な武器や道具が並べられていた。銃やナイフだけでなく、十字架や聖水のアンプル、聖書なども大量にある。壁の隙間や柱の縁には聖句が刻み込まれていた。

 さながらオカルト関連を集めた博物館のようだ。

 一般人が見たら異様に感じるだろう。狂信的で邪悪とすら感じられるかもしれないが、あらゆる魔除けが施された聖なる場所でもある。

 隅に置かれバッグに必要な物を乱雑に放り込んでから強引に口を閉じると、そのまま壁に掛けてあった使い込まれたフェルトのハットを被る。これから外出、しかも旅行にでも行く出で立ちだった。

 明かりを消そうとスイッチに手をかけた時、彼はもう一度、部屋を見渡した。その目には、これから予想される大きな試練に若干の緊張の色が見て取れた。

 正直、彼自身も状況は把握できてはいない。混乱から抜け出せず、精神的ショックから立ち直れていない。思考が正常とは言いにくいかもしれないが、これだけはハッキリわかっている。


 長く続いてきた均衡が崩れ始めている。


 天使と悪魔が睨みあいながらも互いに不干渉を暗黙の条件としてきた均衡が。そして、その煽りは確実に人間界に大きな影響を与えるだろう。

 そうなれば、エクソシストのルーヴィックの出番だ。それは間違いない。

 どこの誰かは分からないが、相手は天使を殺してでも成し得たい目的があるのだ。それは絶対に阻止しなければいけないことだとは、どれだけ混乱していても理解できた。


 暗い夜の闇の中で、底知れなく巨大な邪悪が蠢いている。それが何であっても、人類にとって災厄はもう目の前まで来ているのだ。

 凍てつく寒く冷たい夜に、天使・モルエルが殺されたのだから……

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