波いとまの約束たち

ぺんぺん

第1話 その記憶の果て

『 ぬちどぅ たから 』


おばぁから、よく言われていた。


奄美はもう、夏だろうか。あの、目がくらむような一面青の眩しい空。うだるような、でもなぜか心地良い夏の空気。空も、陸も、海も、生き物達の息づかいが、そこかしこに聞こえる。


小さな島だが、生き物の濃厚な存在感は、都会とは別格だった。


ああ、今日あの海の中には、どれだけの美しい魚達が、優雅にそこを泳いでいるのだろう。命の輝きを感じる。磯の香りがする。思わず、私はその青い透き通る海に思いっきりーーーーーーーーー。




ジャバッ!!


「きゃぁ、、城間先生っ!?」


「うっ、、!えっ? あっつ・・・!!!!」


私は、目の前のカップラーメン「新発売 香る潮味」に頭からダイブし、現実に戻った。


大丈夫ですか!?と、周囲にいた看護師さんが、タオルやらクーリングを慌てて持って来てくれた。


寝ていた。貴重な朝ご飯を前にして。体力の限界だ。


カップラーメンはそのほとんどの汁を麺が吸収していることから、10分以上はうとうとしていたのだろうな、とぼーっとする頭で私は冷静に分析した。


前日は夜勤だった。担当の川崎病の患児が安静を保てず、何度もコールされ、対応に追われた。


私は城間 澪(しろま みお)26歳。ここ小児病棟の研修医で、2年目を迎える。小児科は激務だったが、この大学病院では多くの症例を診ることができ、医師としてやりがいを感じていた。


そんな自分が最近担当となった、榊 美奈(さかき みな)ちゃん、2歳。


小さなその患者は、川崎病発症から1週間が過ぎ、そろそろ急性期から脱して欲しい時期だったが、依然として高熱が続いていた。付き添っている母親もかなりまいっている様子で、担当看護師とともに母親の様子にも気をつけているところだった。


そんな時、見つかってしまったのだ。美奈ちゃんに、冠動脈瘤が・・・。


川崎病の原因は、医療が発達した現代でも良く分かっていない。血管炎を主徴とする病変で、急性期にガンマグロブリン療法というものを行い、冠血管病変を残さないことを目標とする。持続点滴に繋がれ、安静指示から自由を奪われた美奈ちゃん。高熱からいつも機嫌が悪く、1日中あの小さなベッドの上で、付き添う母親の苦労はどれほどのものかと思う。親子で治療を頑張っていたのだが、それでも、美奈ちゃんにはそれが見つかってしまったーーーーー。母親は子供の前では平静を装っていたが、昨夜は恐ろしく美奈ちゃんの機嫌が悪く、すみません、すみませんと謝りながら何度も私たちに助けを求めたのだ。




(純だったら、どう対応しただろうか。優しい純は、お母さんの気持ちも分かってあげられるだろうな。)


ふと、奄美に残してきた幼馴染の事を思い出した。




『大学は、東京に行こうと思うの。外の世界を見てみたい。広い世界でたくさん学んで、私・・・一人前の医者になりたいの。』


大先生のいる小高い丘の上の診療所、濱之下診療所で、高校生の時、私は純に言った。


のんびりした、幼馴染の 新里 純(にいざと じゅん)は、私達の親戚から勝手に決められた婚約者でもあった。くせ毛の栗色の髪は、優し気な雰囲気の純によく似合っていた。両親はしばらく海外出張らしく(髪の色からすると、純はハーフかもしれない)、純は独りで奄美に住んでいた。奄美には、若者は数えるほどしかいない。よって、周囲から結婚相手を何となく勧められるーー、つまり、「決められる」ことはたびたびあった。


しかし、私はまだ若かった。まだまだ経験したいこともいっぱいあった。奄美という小さい世界ではく、大きな世界で勝負してみたかった。


唯一の肉親のおばあは、私が高校2年生の時に、亡くなっていた。

純と結婚するという、外堀を埋めるように決められた人生のレールから、私は逃げるように大学から東京に上京して来ていた。


別に、純の事が嫌いだったわけでは無い。


ゆくゆくは、奄美に帰るつもりではいたが、それは今ではないと思っていた。


それに、純から、好きだとも何とも言われたことはなく、彼が私のことをどう思っているのかも分からなかった。東京行きを決めた時も、若いときじゃないとできないことがあるからと、笑顔で賛成してくれたのだ。あまりにあっさりした反応に、家族同然で育った純は寂しくないのかと、ちょっと不満に思ったが、「僕はここで待っているから」と、出立の日に耳元で、あの優しい声で私に囁いた。




純も、医師を志し、琉球の医学部に進んだ。大先生(と言っても、齢82歳の地元老人医師だ)の指導の元、奄美で一緒にあの小さな診療所で働いている。純は外科医志望だった。あの、のんびりした純が?と、合わないのではないかと思ったが。




『僕、見えるんだ』


小学校の頃だっただろうか。いつだったか・・・。いつも遊ぶあの丘で、ぽっかりと木々の枝が空くその隙間から、どこまでも続く青い水面を眺めながら、ふたり肩を並べていた時だ。ふいに、ポツリと純が言った


『なにが?』


私は聞いた。そのあと、純は何かを言ったが、そこの記憶がはっきりしない。


純は、みえる。




今度、帰ったら聞いてみようかーーーー




あの診療所付近は、携帯の電波がほぼ圏外であり、そもそも純は携帯を持っていなかった。自分には必要ないから、と。


私は、まさか私用で診療所に直接電話するわけにもいかず、東京に出てきてからは純と連絡をとる手段がなかった。




「城間先生っっ!!」


さっき、カップラーメンにダイブしたときに、タオルを持って来てくれた篠川看護師がいつの間にか近くに来ていた。


「榊さんがっ、、来てください!」


病室に駆けつけると、そこには持続点滴を抜去し、血だらけになり号泣する美奈ちゃんと、放心状態の美奈ちゃんの母親が狭いベッドの上にいた。母親の手には、スマートフォンが握られている。何を見ていたのか、その画面は明るくなっていた。


「美奈ちゃん!! 

・・急いで点滴のルートをとって!麻績(おみ)先生にも報告をお願い。」


まずい。どれくらい、点滴が抜けてから時間がたっているのだろうか。今は急性期の治療中だ。泣き叫ぶ美奈ちゃんに、看護師が3人がかりであやしながら身体を動かないように抑え、点滴再施行のため、カーテンの向こう側で処置を始めた。


私は、母親に大丈夫ですか?と言葉をかけた。母親ははっとした顔で、震える声で言った。


「私が、いけなかったんでしょうか・・。どうして、美奈が・・。冠動脈瘤って、、助かるんでしょうか、私が・・・私が病気だったらよかったのに、、美奈と、代わってあげたい・・!」


どうやらインターネットで、川崎病のことーーーー冠動脈瘤形成後の予後について調べていたようだった。私は、なるべく落ち着いた声で言った。


「お母さん、点滴が抜けたら、すぐに教えてもらわないと困ります。小さい子供は、自分から助けを求めることができないんですよ!それに、今は、できる治療をしっかりすることが、何より大切です。」


母親の肩にそっと手を置いて言うと、母親はその手を払い、


「・・・先生は、お子さんいるんですか?」


涙で濡れたその瞳で私を捉えていった。その瞳は、怒りをはらんでいるようだった。


カーテン越しから、点滴のため身体を固定され、泣き叫ぶ美奈ちゃんの声が聞こえる。篠川看護師達が一生懸命あやしているが、全く泣き止まず、泣きすぎてむせかえっていた。


「私は・・・」


「いらっしゃらないですよね。わからないでしょう、先生にとっては沢山いるうちの患者のひとりでも、私にとっての美奈はたった一人なんです。毎日あんなに泣き叫ぶ美奈をなだめて、一生懸命治療してきました。でも、出来てしまったじゃないですか!冠動脈瘤が!」


母親は肩を小さく揺らし、泣きながら言った。


「先生は・・・治療のことは詳しくても、分かってない・・!治療が上手くいかなくたって、やっぱり、だめでした、とか言えば、あなたの役割は終わりなんでしょう?けど、私達はそうじゃない。先生の説明に、頭ではなんとか理解できても・・・心が、気持ちがついていってないのに・・・。私たちの気持ちは、置き去りです・・!」


点滴が、入りましたよーー!

カーテンを開けて、アンパンマンの人形と美奈ちゃんを抱っこして、笑顔で篠川看護師が出てきた。篠川看護師の髪の毛は、美奈ちゃんが泣き叫んで暴れたせいか、少し乱れていた。


美奈ちゃんは最初しゃくり上げていたが、母親の姿を見ると泣き止み、アンパンマンの人形をしっかりその手で握り、母親に見えるように持ち上げた。母親は私の隣からすっと立ち上がると、美奈!と言ってアンパンマンと美奈ちゃんを抱きしめた。






「何だ、カップラーメンに突っ込んだかと思ったら、元気ないじゃん。」


同期の向峯(さきみね)さくらが言った。彼女は隣の外科で研修を受けている。背が高く、モデルみたいなさくらは、シャキシャキと研修をこなし、きっと仕事の出来る医者なんだろうということがたやすく想像出来た。そんな格好いい彼女に、男性はもちろん、女性のファンも多かった。私も最初は遠巻きに、さくらに憧れを抱いていた一人である。


「えっ、カップ麺?年頃の女性は、ちゃんと、栄養あるもん食わないとダメだぞ!」


同じく外科病棟で研修中の、同期の古賀 湊(こが みなと)が言った。小麦色に焼けた肌に、健康そうな逞しい身体つき。ダイビングが趣味だそうだ。彼はとにかく、声が人一倍大きい。私が奄美出身ということでダイビングの好きな湊とは、海の話で盛り上がり、同期の中でもわりと早く仲良くなった。


「湊っ、声大きいよ。さくら、、、見てたの?」


私は情けない声で言った。


「クーリング、とか言ってるから、小児科だし、火傷か何かかなと思ったら澪だったとはね。」


ふふっとさくらが微笑んで言った。


普段、忙しくてなかなか同期では集まれず、今日も2人の休憩に合わせて外科の狭い休憩室で話していた。


「まぁ、子供の看病でその母親も余裕がないんだろ?気持ちをぶつけられることは、よくあることだ。」


湊が最後の唐揚げを口に入れていった。


「私達は置き去り、、って言われた。」


私は母親の言葉を思い出し、はぁ、と小さく溜め息をついた。


「小児科は、親も含めたものになるから、難しいよね。やっぱ私は、オペ室でメス握ってるのが性に合ってるわ!」


「・・さくららしいーー。」


私がそう言うと、あははと、唐揚げを食べ終わった湊が大きな声で笑った。


「そういえば奄美の彼は、どうなの?こんなときは婚約者に支えてもらうに限るでしょ。」


食後のコーヒーを飲みながら、さくらが意味ありげな表情で聞いてきた。


「純は、周りが言ってただけで、そんなんじゃないってば。携帯も持ってないから、今、連絡手段もないし。かれこれ、、、2年会ってないんだよね。」


えっ!とさくらが言った。


「2年・・・!?たまには、帰ってあげたら?」


「そうは言ってもねぇ・・。」


そう。最後に会ったのは大学を卒業して、研修が始まる前。あの診療所で、純に会ったのが最後だった。それからは忙しくて奄美に帰れていないこと、今日も夜勤からの継続になってしまったことを2人に話した。


「あんた・・・ここを自分ちにする気?ドクターは体力勝負よ!早く帰って休みなさい。」


さくらがやれやれと言うと、


「その、奄美の彼の診療所は、どこになるんだ?」


湊がGoogleviewで、奄美を開いているところだった。


「載ってるかなぁ、、」


そう言えば、住所って何だったかな?


「この海の近くの、、丘にあって、濱之下診療所っていうんだけど、、、」


「うーーん。建物なんて、見あたらないけどなぁ。」


湊のiPhoneの画面を覗き込んで探した。が、それらしき建物は映ってなかった。私が近づき過ぎたのか、湊が少し身体を引くのが分かり、私も少し湊から身体を離した。


「まぁ、木々が生い茂っていそうだし、隠れているのかもな!」


湊が自分を納得させるように言うと、


「じゃぁ、俺も今日は上がりだから、送ってくよ。」


笑顔で湊が言った。


「私は、仮眠したら今日最後のオペのお手伝い!2人ともまたね。」


そう言うとさくらは仮眠室に入っていき、私は湊の車で家に送ってもらった。




『うわぁ!お家があんなに小さく見える!すごいねぇ』


『ここは、澪とぼくだけの秘密だよ。』


純と私。いつだったか、あの診療所のある丘で、2人で並んで景色を見た。


いつだっただろうか。何だかいつも、小さい頃の記憶を思い出すとき、はっきりとは思い出せない。




「・・・お、ついたよ、澪?」


「ん、、?」


暗くて、よく見えなかったが、目を凝らすと自分のアパートが見えた。ああ、そうだ。湊に送ってもらったんだった。


「あっ、寝ちゃってたね!ごめん、ありがと。遠回りだったのに、助かったよ。」


と、寝てしまった申し訳なさに慌てて言うと、


「いや、別に!こんな時間に一人で帰せないだろ。それと、、」


湊にしては珍しく、少し控えめな声で言った。


「奄美のは、、前に聞いたときは婚約者、って聞いたけど。彼とは、本当に何でもないのか?」


「あは、婚約者っていうのはね、周りがそう騒いでただけ。付き合ってもいないよ。奄美では、周りがそうやって騒ぐのは、よくあることだし・・。

純とは、、純は、とっても仲の良かった、幼なじみ。それに、純は私と連絡取れなくても、何とも思わないみたいだし、ね。」


少しだけ、嘘をついた。私は純のこと、彼に対して、友達とは別に大切に想う感情がある。でもそれは、恋い焦がれるような激しい愛情ではなく、何と言ったらよいだろう?淡い恋心のようなものだろうか?よく、分からない。自分でもどういう種類の感情なのか、分からなかった。よく言う、『なくしたくない、大切な存在』という言葉がピタリと合うのだろうか・・・。家族や故郷を、奄美を、大切に思う気持ちに似ていた。そして純を思うときはなぜか、決まって心が少し痛んだ。




「ふうん、、そうか・・。」


湊は、珍しく静かにそう言って何か考えてから、


「今度、旨いものでも食べに行かないか?カップ麺が主食じゃ心配だからな。」


私の目を真っ直ぐ見て言った。


「うっ、、湊に心配されてる。私、女子力ないね!じゃぁ、久しぶりにさくらも誘って、焼肉でも食べにいく?」


久しぶりの同期で焼肉に、私が嬉しそうに言うと、


「いや。」


湊は私の提案をきっぱり否定し、


「2人で行こう。そのつもりで誘った。忙しいだろうけど、予定分かったら教えてくれ。シフトが出たら、そっちの予定に合わせるよ。」


優しい笑顔で言った。


「え? ええっと、、」


「そういうことだ!全く、おまえはいつも、無防備に寝やがって。俺だったからいいものの、他の男の車に乗るなよ!」


「えっ、、?」


「・・・降りないのか?なら、このまま連れて帰るぞ?」


切っていたエンジンを湊が再びふかすのを聞いて、私は裏返った声で言った。


「おっ、、降りますっ!!」


私が真っ赤になって言うと、あはは!俺はタクシーか!と湊がいつものように笑って言った。笑った湊の頬も、少し赤かった。




湊は私が部屋に入るのを確認してから、今来た道を戻って帰っていった。私の火照った頬には、夜風の冷たさがちょうど良かった。


(そういうことって、どういうこと?)


湊とは、初めて喋った時から海の話題で意気投合し、それからはずっといい同期で、男女を考えさせるような素振りなんてなかったのに。


考えすぎて、危うく自宅の湯船でのぼせそうになり、私はそれ以上考えるのを止めた。ベッドに入ると、湊の声ではなく、あの言葉が胸を突き刺し、胸が苦しくなった。


『私達は、置き去りです』


そしてなぜか、純の顔が浮かんだ。



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