第五章――⑤
部屋に戻るのも面倒なので、中庭の東屋でぼんやり過ごすことにした。
くわしい話を聞かされていない使用人たちが、またもや私を悪しざまに罵っているが、そんなものが気にならないほど頭を占めていることがある。
私の中であれ以来眠っていたハティの意識が、徐々に覚醒しつつあるのだ。
キーリに送ってもらったあと、急に自分の中にもう一人違う誰かがいる感覚に襲われた。
あの時のような声は聞こえなかったし、すぐにこちらの意識を乗っ取るような強さは感じなかったが、胎児が母親のお腹を蹴るように存在を主張している。
もう少し。もう少しだけ待って。
アリサとイーダの企みを阻止しないと世界が滅びるかもしれない。
あなたも恋愛にうつつを抜かしてられる状態じゃなくなるんだから。
ハティに宥めるように言って聞かせていると、複数の足音が聞こえてきた。
「ここにいたのか」
食堂で別れた騎士たちが揃って現れた。
「あら、何か用?」
「用というか……お前にはきちんと謝罪をしていなかったと思ってな」
謝罪。それはアリサの嫌がらせに加担していたことだろうか。
「いいわよ、別に。もし謝るなら、私じゃなくてハティにして。そのうち目覚めると思うから」
「目覚めるって……それじゃあキミは?」
「んー、死ぬんじゃないかしらね。結構深く刺さったもの」
あれからすぐ犯人が取り押さえられ、救急車が来て適切な処置が行われ、速やかに病院に搬送されていればあるいはとは思うが、そんなに都合よく物事が進むとは思えない。
私以外の被害者が出ているかもしれないし、錯乱した相手を確保するのは言うほど簡単なことではない。
そもそも長期間魂が離れた状態では、肉体がもたない可能性もある。
「随分とあっさりと言うんだな」
「あれから時間が経ってるから、冷静に判断が下せるだけよ。もちろん死ぬのは嫌だけど、泣いて喚いて変わる運命でもないでしょう」
「それはそうだが、心残りはないのか?」
「……誰も心残りなしに死ねるものじゃないわ」
ふとユマの顔が浮かんだが、それを無視した。
これは私の感情じゃない。ハティのときめきに推しへの愛が同調しているだけだ。
彼女の意識が戻るまではユマに対して特別な気持ちはなかったんだから、論理的に考えてそれ以外にありえない。
頭ではそう考えられるのに、心はグシャグシャに握りつぶされたみたいに痛い。
「……そんな今にも泣きそうな顔で言われても、説得力にかけるね」
「放っておいて。あなたたちにとって大事なのは、私じゃなくアリサでしょう。私が完膚なきまでに叩きのめしたあと、どうやってフォローするかを今から考えておきなさい」
そんなに私は顔に出るタイプなのだろうか。
自己嫌悪に陥りつつ、彼らを虫でも追い払うように手をひらひらと振る。
しかし、みんなはそんな私の様子に気分を害する様子もなく、むしろ何か得心がいった顔をしていた。
「なるほど。ああいうのが……」
「まあ、分からなくもないね……」
こそこそと何か言い合っているが、小声過ぎて聞き取れない。
男が雁首揃えて内緒話とは気色悪いが、私に関わらないでいてくれるならなんでもいい。
あれこれ考えるのに疲れてガーデンテーブルに突っ伏していると、彼らは突然急ぎ足で去って行った。なんだったんだ、もう。
呆れながら小さなため息を吐くと、ぽんと肩を叩かれて跳ねるように体を起こした。
「うおあっ」
「相変わらず妙な悲鳴だな」
そういうユマこそ、相変わらず足音がなくて怖いんですが。やっぱり忍者?
バクバクする心臓を押さえつつ、努めて平静を保って口を開く。
「え、と。もう準備できたの?」
「ああ。あんたさえよければ、いつでも行ける」
「そう。じゃあ、さっさと片づけますか」
グッと伸びをして立ち上がる。
「ハリ」
呼ばれても振り返らず東屋を出て行こうとしたが、手首を掴まれてくるりと反転させられた。
いつもと変わらない表情の薄いユマと目が合うと、顔がカアッと熱くなる。
手を振り払おうとしたけど、強く掴まれているわけでもないのにびくともしない。
「ちょっとユマ。何よいきなり」
抗議の声と視線をユマに向けるが、彼は黙ってこちらを凝視するだけ。
それから見つめ合う……もとい、睨み合うことしばし。
「あんたは、もうすぐいなくなるんだな」
小さなため息と共に漏れた声に、ハティの目覚めを悟られたのだと分かった。
別れを惜しんでくれているのがうれしいような、心残りが一層重くなって困るような、複雑な気持ちが渦巻くが、湿っぽい空気は苦手なので皮肉っぽく返す。
「私がいないのが正しい歴史でしょう。イレギュラーは淘汰されるものよ。アリサが元に戻ればユマはこれ以上悩まなくて済むんだし、困ることなんかないじゃない」
「それはそうだが……」
珍しく歯切れの悪い反応をしたかと思えば、すがるように手首を持つ力を強めた。
痛くはないけれど、彼らしからぬ態度に妙な胸騒ぎがする。
「どうしたのよ。ユマこそ具合が悪いんじゃない?」
「体調に問題はない。ただ、あんたが消えたあとのことを考えると、憂鬱で仕方ない。世界の行く末も、使徒の使命も、何もかもがどうでもよくなる」
遠回しの告白にも聞こえる台詞にうろたえた瞬間、自分の中のスイッチがパチンと切り替わったのを感じた。
「……私もです、ユマ様。ユマ様がいるだけで私は幸せです」
私の意思とは無関係に甘ったるい声色が口から出て、そっと距離を詰める。
ちょおあぁぁぁ! いきなり出て来るな、このサイコパス女!
ていうか、なんで私を押しのけて出てこれるのよ! 愛の力ってわけ!?
ハティに取って代わられてるから何も言えないけど、明らかな異変を感じたのか、ユマはパッと手を放して後ずさった。
「あんたがハティか?」
「はい。一時ではありますが、ユマ様の私を想う気持ちが――」
「俺が想うのはあんたじゃなくてハリだ。都合のいいように解釈するな」
サラッと告白され、“私”の脳内はしんとフリーズしてしまったが、ハティはユマの反論に怖気づくどころか、さらにサイコパスな論理を展開させた。
「ふふ、この聖女に気を遣っているのですね。ご心配なさらずとも、あなたが愛しているのは私だけだと存じ上げておりますから」
「まったく意味が分からないんだが。俺はあんたを微塵も愛していない」
「いいえ、愛していますわ。私を愛さない男はいませんもの」
「……その自意識過剰な性格が婚約破棄に繋がったと、俺が知らないと思ったか?」
そりゃあ美人と言えば美人だけど、その無意味な自信がどこからくるのかと(気持ち的に)頭を抱えていると、ユマが知られざる事実を暴露し始めた。
「あんたはあの婚約者の男の他に、何人も男を引っかけていた。遊びか本気かは不明だが、男女の関係にまでは発展しなかったものの、それが公爵に『不貞』という形で伝わり、家を追い出されることになった」
ハティの顔から血の気が引くのを感じる。図星なのだ。
何もしてないのに追い出されたわけじゃない。立派な自業自得だ。
上っ面の過去だけ聞いて勝手に同情していたから、騙されたなんて言っちゃダメだろうけど、ハティがこんな子だったなんて思いもしなかったからショックが隠せない。
「どうしてそれを……」
「人の口には戸が立てられないもの。少し調べればすぐに分かった。ハリはあんたに同情的だったし、他人の過去を言いふらす真似はしたくなかったから黙っていたが、あんたが悔い改めず以前と同じ失態を繰り返すなら容赦はしない。今すぐハリを元に戻せ」
「い、嫌。どうして……どうして私じゃなく、あんな粗野で気が強いだけのあばずれがいんですか? ユマ様はご存じないでしょうけど、あの女の本当の姿は地味で野暮で、私のように美しくありません。私という器にいるからこそ、輝いて見えるのですわ。ですからユマ様が愛しているのは、この私――」
「黙れ。ハリを愚弄するな」
必死にまくし立てるハティの胸倉を掴み、ユマは底冷えする声で告げた。
「ハリはあんたの代わりに何度虐げられても、己の境遇を嘆くこともなく、誰も悪しざまに罵らなかった。その強さに惹かれ、守りたいと思った。俺は、過ぎた自己愛で他人を蔑むようなあんたを、決して愛することはない」
ハティの目からぽろぽろと涙がこぼれる。
それは彼女の失恋と屈辱の痛みでもあり、私の歓喜の震えでもあった。
私はユマが好きなのかどうか、まだはっきりとは分からない。
でも、こうして面と向かって自分を肯定してもらえたことは初めてだし、守りたい人だと思われているだけで嬉しかった。
とめどなくあふれてくる涙が止まる頃、静かにハティの意識が消えていくのを感じた。
死んだわけではなさそうだけど、深いところに沈んだのは確かだ。
鼻をすすって手の甲で涙の痕を拭い、おずおずと顔を上げると、ユマはくの字に体を曲げて肩を震わせていた。
「え、ユマ? 大丈夫?」
色恋沙汰が禁じられている使徒が、あんな大々的な告白をしたのだ。
イーダの件で女神様がいくら鳴りを潜めているといっても、自動的に天罰や制裁が下っても不思議じゃない。
心配になって顔を覗き込むが、ひょいと身をひるがえしてかわされる。
意地になって何度もユマの前に回り込もうとするが、完璧に背を向けられてしまう。
身軽に動けるのだから心配はいらないのかもしれないが、頑なにこちらを見ようとしないのはどうも気になる。
「ねえ、ユマ。どうしたのよ」
「……どうもこうも。今はそっとしておいてくれ。とても見れた顔じゃない」
わずかに髪からのぞく耳が真っ赤なのを見つけ、思わず噴き出し――そうになったところで、遠くのトピアリーの影から弾けるような大爆笑が響いてきたので、笑いが引っ込んでしまった。
「ふ、ふはは……! ダメ、ボク笑い死にしそう……!」
「馬鹿。男の一世一代の大告白にケチつける気か……くくっ」
「でも、あれしきで恥ずかしがっているようでは……ふっ、先が思いやられるね」
「だよなぁ……くくくっ」
半眼で見やった先には、消えたはずの騎士たちが笑い転げていた。出歯亀か。
こいつら危機感ゼロだなと呆れる私の横で、ゆらりと殺気が立ち上った。
そこには能面よりも感情がない顔をしたユマが、今まさに小太刀を抜き放とうとしている瞬間だった。
「え……ユマ、それはちょっとシャレにならな……」
「止めるな。俺はあいつら全員地獄へ送ってやらないと気が済まない」
そう言ってユマは私の制止など聞かず、騎士たちを見事に(峰打ちで)仕留めた。
いい歳した男たちが(一部少年もいるが)一体何をしているのか。
とはいえ、このどさくさで告白の返事をしなくてもいい流れになったのは、ラッキーだったのかもしれない。
ユマのことは、好きか嫌いかの二択なら好きだと言える。大大大推しキャラというのを差し引いても、あんな風に自分自身を認めてくれた人と恋人になれたら、どんなに幸せだろうと思う。
でも、横山羽里としての私は多分死んでいる。
彼と結ばれるなら、このハティの体を利用し続けるしかない。
姿形を偽ることも、ハティを利用し続けるのも罪悪感がある。
それに、ユマは色恋が御法度の使徒だ。
制約を破った使徒の末路は知らないが、あの告白にうなずいてしまえば、下手をしたら死んでしまうかもしれない。それなら何もかもがうやむやのまま、すべてが終わり次第私は消えてしまった方がいい。
出歯亀騎士たちを横に並べて正座させ、無言の圧力をかけているユマの背中を眺めながら、私はそう決心した。
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