第13話 『命精筆』の秘密


「えっ……?」

「師匠?」


 明星と神樹が驚きの声を上げて、絵師を凝視する。

 月桂は急にどっと気疲れを感じた。

 信じられないと言った表情で、二人が今度は月桂を凝視する。

 確かにちょっと変わった人物なのだが、こんなことをやらかすとは。

 かつての師ながら情けない。


「ああ。彼は……私の筆作りの師匠だったんだ」


「だった、とは。失礼な物言いだな。お前はいつまでも私の弟子だ。はやくこれを解いて師匠を敬わんか」


 緑色の蔦に胸から足首までぐるぐる巻きにされて、床に転がっている絵師・鳳庵ほうあんが呟いた。月桂は無言で師を見下ろした。

 彼が持っていた『命精筆めいせいふで』は、邪悪な気を遮断する特別製の袋に入れてある。

 鳳庵自身は色命数士しきめいすうしではないので術が使えない。ただ、命数筆めいすうふでを作る技に長けていただけなのだ。


「……十分反省しましたか?」


 銀の眉を吊り上げて、鋭い瞳が月桂を射た。


「反省? ああ……悪いとは思っている。だが勘違いするな。私はただ、絵を描きたかっただけなのだ。けれど思う『生きた』線が描けなくなった。愛用していた筆が傷んでしまったものでね。だからお前に筆の修理をして欲しくて店に行ったのだ。そうしたら……」


 鳳庵の険に満ちた目元がすっと優しくなった。その目線は月桂の白い長衣を羽織って、赤い寝具が載った臥床ベッドに腰かける明星へと注がれている。


「美しい命の色に出会ってしまったのだ……私はそれを絵にして、私だけの物にしたくなってしまった」

「兄者、こいつはある意味、正直者だ」


 ポツリと神樹が呟いた。

 月桂は眉をひそめた。弟もよこしまな目で明星の事を見ている。

 残念ながら二人の男に羨望の眼差しを向けられている明星は、再び足元にすり寄ってきた白い孔雀の頭を優しく掻いてやっていた。さっきまで生命の危機にあったというのに、それを微塵も感じさせない和やかな顔で。


「月桂、お前も私と同類だよ。命の色に魅了された……」


 鳳庵がニヤリと口元を歪めて呟いた。月桂は咳払いをした。

 自分もまた、明星を見ていたことを暗に示唆された事に気付いて。


「だからって、やっていいことと悪いことぐらいわかるでしょう? まだ同じ事をしようとしているのなら、私はあなたをこのまま刑部(警察)へ連行します」


「わかった。もうしない」

「本当ですね?」

「くどいな。お前のそういう所が美しくない」

「言葉を返しますが、人の道を外れる方が美しくないですよ!」


 月桂は鳳庵が筆匠ひつしょうを辞めて、店を出た時の事を思い出していた。

 彼は三年前に、何も言わず突然出て行ってしまったのだ。それでやむを得ず、月桂が彼の筆屋を引き継いだ。いつでも鳳庵が店に戻ってきてもいいように……。

 

「月桂さん、絵師さんはただ……絵を描きたかっただけなんだよ。その気持ちは本当だよ」


 白い孔雀の頭を撫でていた明星がすっと立ち上がった。


「明星、お前……」

「誰かさんと違って、本当に清い心を持っておるな。月桂、お前も見習え」

「ええっ? 歪んでいるのはあなたの方でしょう?」

「歪むとは失礼な。私は絵の道を極めたくなったのだ。だから……筆匠を辞めた。あの時は、黙って出て行ってすまなかったな」

「え……」


 月桂は息を飲んだ。鳳庵の突然の謝罪の言葉に驚いて。

 鳳庵は床に横たわったまま月桂を見上げた。

 時には厳しく、時には和やかに。

 自分を見守ってくれていた、懐かしい瞳がそこにあった。


「お前が店を続けていることが、師としては嬉しくあったぞ。お前は基本に忠実で素直な筆を作る。全く面白みがないが、蓄えられた知識と技術が、お前の創作に幅を広げてくれるだろう」


「……師匠……」


 月桂は呆然と鳳庵を見下ろした。

 思いもよらない言葉だった。


 すべては西陵に緑をもたらすため。能力のある色命数士と縁をもつため。

 そこから始めた筆づくりであったが、月桂自身は筆匠としての自分が好きになりつつあった。もっといろんな筆を作ってみたい。そう、感じるようになってきたのだ。


「わかりました。反省もしているようですし、あなたの言葉を信じましょう」


 月桂は袂から『色符いろふ』を取り出し、手にした命数筆で【四】を書き入れた。淡く緑色に光りだした『色符』を鳳庵の体を絡め取っている蔦へと押し当てる。

 しゅるっ!

 蔦が一瞬で月桂の持つ『色符』の中へと吸い込まれる。


「ふう……体中が痛い。血の流れが止まるかと思ったわ。師匠を殺す気か」


 蔦の戒めを解かれた鳳庵が、上体を起こして腕をさすっていた。


「あなたこそ、明星からどれだけの量の生気を奪ったんですか? 普通の人間なら死んでいますよ」

「その件は悪かったと言っているだろう? ああ……私の絵……」


 鳳庵はゆっくりと立ち上がって、描きかけの絵を広げている所へ戻った。

 不思議な事に床は焼け焦げて黒くなっているが、鳳庵が描いていた絵は全くの無傷であった。


「流石、『命精筆めいせいふで』。そして明星……そなたの生気のお陰だな」


 頬にかかった銀の乱れ髪を耳にかけ、鳳庵はふふっと満足げに笑みを浮かべた。


「師匠。そういえばあなた、私に筆の修理をして欲しい、って言ってましたよね? それで店に来たと」


 鳳庵は描きかけの絵を一瞥して、やおらそれをくるくると巻いて机に置いた。


「ああ。筆といえばお前の事しか思い浮かばなかった」

「それはいいんですが……」


 月桂は再び咳払いした。


「自分で直せるでしょう? あなたは筆匠ひつしょうなんですから」

「飽きた」

「はぁ?」


「筆づくりは疲れる。ひたすら毛先を揃えては、はみ出してくるを抜き。揃えては抜き。揃えては抜き……揃えても揃えても、無間地獄のように続く。あんな七面倒くさい作業で人生を消費するのかと思うと、私はもう耐えられない。それに細かい所が見えづらくなってな。老眼気味かもしれん」


「師匠、あなたまだ四十前ですよね? 本当に老眼なんですか?」

「見えないものは見えんのだ! 年は関係ない」


「兄者のお師匠さんよ。じゃあ、どうして絵は描けるんだい?」


 月桂とのやり取りを面白そうに見ていた神樹が口を挟んだ。

 鳳庵が腕を組み、意味ありげな微笑を浮かべた。


「そりゃ、私は『命精筆めいせいふで』を使っているからな。この筆で描くと、吸い取った生気の持ち主の姿を、そっくり写し取る。だから私は、あらかじめ下書きのある絵に『命』という色を置いているにすぎないのだ」


「……ズルだな」

「確かに……ずるだな」


 小声で呟く神樹の言葉に、月桂も深く頷いて同意した。


「なっ! なんと失礼な! 誰でもできる技ではないぞ。私が心血を注いで作った筆で編み出した、私だけのなのだからな!」


 ばさっと道服の裾を舞わせて鳳庵が叫ぶ。


「うわ~絵師さん凄いですね! そう、最初に描いてもらった俺の絵。鏡を見ているかのようにそっくりだった」


 パチパチパチ。

 明星が満面の笑みをたたえながら拍手した。

 ぱあーっ。

 彼の後ろで白孔雀が扇子のように見事な羽を広げた。

 まるで明星が羽を背負っているように見える。


「明星。つけ上がるから褒めるんじゃない!」


 月桂は思わず叫んだ。明星のおっとりした性格は嫌いではないが、ここまでお人好しだと、命がいくつあっても足りない。

 月桂は何となく、心配性に思えた久遠の気持ちが、今なら理解できた。


「でも月桂さん。絵師さんの絵、見たら本当に驚くから。絵師さんが持っていたあの赤い筆、凄いなあ。しかも生気なら吸い込むんですか?」


「私の事を理解してくれるのは、そなただけだな、明星」


 うんうん。

 黙って立っていれば品の良い中年男性の鳳庵が、孫を愛でるように、惚けた表情で頷いている。


「吸い込むぞ~。さっき、月桂がつまらない色命数術の炎を私の絵に焚きつけたが、すべて吸い込んでやった。炎だけではないぞ。人の命を奪う『九黒クコク』だって吸い込むことができるからな」


「な、なんだって!」


 神樹と月桂は顔を見合わせた。


 がしっ! 


「なっ、何をする……苦しい!」

「その話、もっと詳しく話してくれ!」

「だったら、袂を掴むのをやめんか! 息が……息ができん!!」

「あ、ああ。すまない」


 神樹が鳳庵の胸倉から手を離した。

 ゼイゼイと喉を鳴らして、鳳庵がどっかと床に腰を下ろした。


「人の話を黙って聞くように、教わらなかったのかね。お前たちは」

「すみません。まさかあなたの口から、我々の欲しい情報が飛び出るとは思わなかったので、つい我を忘れました」


 月桂は深衣しんいの衣をさばいて鳳庵の前に腰を下ろした。

 その隣に神樹と明星も寄ってきて座る。

 何故か白孔雀も寄ってきて明星の傍から離れず、彼は相変わらずその頭を、よしよしと撫でてやっていた。



 

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