3 底が見えない〝百合の谷〟

 ざわめきが満ちたブリーフィングルームで、クドーは後ろの席の先輩警官に振り向いた。

「副分署長なんてポスト、ほんまにミナミ分署ここにもあったんや」

「他分署にあるんだから、ミナミ分署うちにもあるに決まってるだろ」

 柾木があきれた声で返す。

「や、名前だけの体裁やと思てたから」

「空席だった理由は、まあクドーも聞いたことあるはずだ」

「……え、あれほんまやったん?」

 副署長不在は管理職不足のため——は表向きの理由。

 管区に低所得者世帯が多く、バックパッカーが立ち寄る混沌とした繁華街があるミナミ分署は、経歴にキズがつきやすくて不人気というのが通説になっている。

 人が集まれば、そこにたかる悪党組織も繁殖しやすい。

 なのに危険地帯とならないのは、戦後から続く秘密結社が裏で仕切っているからだという、都市伝説じみた話すらある管区だった。

 松井田と階級が同じで、年齢もリリエンタールのほうが若い。それでも話の腰を折られた松井田がクレームをつけないことで、実質どちらが上かがわかった。ツテやら人脈といったものをもっているのかもしれない。

「あのことはどこまで話さはりました? 松井田警部」

「いえ。先に別の問題で——」

「ほな早速ですけど、急ぎの件がひとつあります」

 さりげなく前に出たリリエンタールが、ブリーフィングを進行させた。

「情報提供者が避難させた近親者の保護協力要請が、検察からきてます」

 前置きなしではじまった伝達事項に、すぐに室内が静かになった。警ら課全員の耳目が、新しい副署長にあつまる。

近親者ひとを隠すのに人込みを使つこうたわけやけど、隠した場所の地番がわからんで、検察が探しあぐねてます。笠屋町かさやまちにある<昭和ナムグン南宮ビル>やそうやけど、わかる人はおるかな? あと最上階いうだけで部屋番号も不明。ここは番号以外で個別化してるビルなんやろか」

 精密地図はあるのだが、所有者が変わると建物名も変わることがある。そうなると、ビル名だけでは探し出すのはむずかしかった。

「たぶんですけど」クドーが手をあげた。

「タカハシ診療所から西にいったところにあるビルやと思います。おうてるやろ? リウ」

「だから、どこなのそれ」

「現地民前提の説明方法で話すなって」

 同僚の苦笑がさざめくなか、背中に定規をつっこんだような姿勢で座っていた相方が応える。眉だけが、わずかに動いた。

「…………?」

「ほら、一昨日若い男の空き巣を追いかけ回して入ったとこ。全面補修の工事前で、賃貸の住民のほとんどが、一時退居してたビル」

 リウが応えるより先にリリエンタールが訊いた。

「タトゥーのあなたが、リウ・フォンリィェン巡査?」

「……なんでリウを名前を?」

 クドーの警戒心がわきあがる。事前に知っていたのは、どういうラインでなのか。

「あとで答えますよって。その応え方やと、本人いうことですな?」

 質問をかわされた。

 そして、違うとは言えなかった。

「組んでるんやったら、クドー巡査とリウ巡査に警護をまかせてもええやろか?」

 階級社会の常套に従って、クドーたち本人よりパク巡査部長に了解を求めた。松井田は、いつの間にかいなくなっていた。

「問題ありません。急いでいるなら今からでも連れていってください。きょうの伝達事項は警護終了後、本人たちに改めて伝えますから」

 頼りない空調をカバーすべく、開けっ放しだったドアがノックされた。

 彫りはさほど深くないが、深い栗色の髪に、青みがはいった灰色の目の男が、身体半分だけ入れてきた。組織犯罪係の刑事が告げる。

「資料を整えました。こちらはどうですか?」

「ご苦労さんです……失礼、お名前が」

「『スガ』で結構です」

「人選はすんでます、スガ警部補」

 リリエンタールは、警護役に指名した巡査をうながした。

「ほんならおふたりさん、スガ警部補といっしょに副署長室まで」

 するすると進められた話に、クドーはうんざりした表情を隠しもせず立ち上がった。

 警護役なんて、対象者のそばでじっとしているだけ。洗濯物が乾くのを眺めているぐらい退屈な仕事だった。

 その様子を見ても、リリエンタールに不快の表情はない。

「クドー巡査のお顔は素直どすなあ」

「出世する気がないんで」

 ドアに向かいながら小さく肩をすくめてみせると、

「それも選択のひとつやな」

 リリエンタールがふわふわと笑った。

「上にいくほど、しょうもないペーパーワークが増えてきよるし」

 あなたがそれを言っていいのか。

 外見こそ「百合の谷」という名にふさわしい優美さがあるが、その底が知れなかった。遠目に見るぶんには百合の花に目を奪われるが、その下の谷はなだらかなU字谷などではない。険しい峡谷で、安易に立ち入ると、足をすくわれそうな気がする。

 つかみどころのない新しい副署長の後ろを歩きながら、隣にきた相方をみやった。

 リウが口角をわずかにあげた。リリエンタールへの第一印象は悪くないらしい。

 それにしてもクドーはひもじかった。キルコリトーストひとつでは、全然足りない。

 察したリウが、バディの身長にあわせて上体をかがめた。上司の耳に届かない小声で耳打ちする。

「対象の家に着くまえに、軽く食べればいい」

 クドーは目を輝かせた。抑えた声で念を押す。

「ほんま⁉︎」

「ん」

「かまわない」の「ん」だ。

 言葉そのままの意味とともに、バディの空腹状態を避けようともしているのだと思う。対象の協力を得るための、コミュニケーション役をまかせようとして。

 対象と隔たったままでは、警護任務は手間がふえてしまう。気を回さなくとも、ちゃんと引き受けるのに。

「クドー、ちょっと」

 廊下を折れるまえにパクに呼び止められた。

「面従腹背でいいんだ。その馬鹿正直な反応をなんとかしろ。松井田分署長に噛みついたときは冷や汗がでたぞ」

「心配してくれた?」

「ああ。これ以上人手が減ったらたまらん。気をつけろ」

「親分、つめたい」

「クドー」

 リウが声をかけてきた。「おいていく」と言っている。顔だけ振りむけて答えた。

「すぐ、いく!」

「対象宅でヒマしても気を抜くなよ。終わったらすぐ戻ってこい。おれのところに真っ直ぐ来るんだ。じゃあ、行け!」

「すぐに」を強調された。ナイトシフト班の主任としては、検察の手伝いに人員をもっていかれたくないのが本音だ。

「そういえば」去りかけたパクが振り返った。

「副署長室、どこだかわかってるよな?」

「新人やないんやから場所ぐらい……」

 クドーの声が尻すぼみになった。

 そんな部屋あったっけ?



 ナイトシフト班のブリーフィングが始まる三十分前。

 スガは、物置きから大急ぎで復元された副署長室で作業していた。

 制服組と同じく、私服組も人員は足りていない。警護任務の調整は、スガひとりに任されていた。

 組織犯罪係のなかでは、落ち着いた見た目であることが関係していた。

 髪は短めに整え、ヒゲもきれいに剃っている。背格好も中肉中背で、ダークグレーのミリタリーシャツを着ていても、警護対象を威圧することがない。

 スガがスタイルを変えたのは、子どもに嫌われないようにするためだったのだが、思わぬところに波及した。

 備品室から引っ張りだしてきた黒板に、資料をはりつけていく。

 そのなかの一枚で手がとまった。

 資料ボックスに戻そうかと思ったが、ピックアップする資料の選別は、リリエンタールがやっていた。

 勘でしかないのだが、あの新しい副署長では、出し忘れの単純ミスですまされる気がしない。そうなったら、かえって面倒な事態になってしまう。

 並べる写真のいちばん下にはりつけた。これがベターな判断だ。

 準備がほぼ終わったところで、松井田が顔を出した。

「保護対象の居場所はわかったか?」

「いえ。リリエンタール副分署長がパトロール組に訊いてみるそうです」

「馬は馬方か。こればかりはしょうがない。スラムなみにカオスな区域だからな」

 自分の責任管区なのに、ずいぶんな言いようだ。

「地番がわかりしだい、すぐ報告を入れろ。わたしが連絡をつける」

 それだけ命令すると、さっさと出ていった。

 スガは小さく冷笑する。

 ミナミでは、地番だけで目的地にたどりつけるとは限らないのに。

 松井田も警ら巡査からスタートしたはずだ。それが分署長になった現在は、すっかり現場を忘れている。もっとも父親が議会にコネがある企業社長だから、形ばかりの警ら巡査であったかもしれないが。

 早々に準備をととのえ、ブリーフィングルームへと向かった。

 警護役への状況説明も、リリエンタールが自らやると言っていた。

 スガにとっての気がかりは、会ったことのないタイプの上司が、このタイミングで本部からきたことだった。松井田のように丸投げしてくれれば助かるのに。

 そして、ナイトシフト班の誰が警護役をふられたのか。

 人員不足から、警官の応募資格は緩められてきた。基準に満たなくても、一芸で融通をきかせたりもする。結果、警官のスタート地点ともいえる警ら課は、玉石混交状態にある。

 組織係の摘発で警ら課に応援を頼むことがあるから、目立つパトロール・オフィサーは覚えていた。メンツによっては相応の対応をとらないと。

 その一方で、頭の片隅で考えていた。警護役が自分ひとりなら、仲間を巻き添えにせずにすんだのに、と。

 手前勝手を自嘲する余裕は、とっくに失っていた。

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