第一章 その差三十四センチ(公称)

1 スマートに言えばボディガード

 ガタリと鳴った窓に、ルシアは飛び上がりそうになった。

 強くなった風が、古い窓枠にあたっただけだった。肩にはいった力を抜き、気持ちを落ち着かせようとした。

 全部の窓を閉め、鍵をかけたかったが、七月の気温がそれを許してくれない。風でも通さないと、骨までボイルされそうな息がつまる蒸し暑さだった。

 今度はドアのほうから音がした。

 これはノック。聞かされていた迎えがきたのかもしれない。

 ルシアは、ドアチェーンを外さないまま、用心深く隙間を開けた。

 ルシアの身長は、女性の一般平均より十センチメートル以上は高い。そのルシアが、女性の訪問者と視線をあわせるために、あごをあげた。

 でかい。タテの方向に。

 足が思わず後ろにさがった。

「南方面分署のリウ巡査です」

 名乗りながら、ラフに着たバンドカラーシャツの裾をさばき、ウエスト部分につけた警察バッチを見せた。

高城たかぎルシア・ロペスさんで間違いありませんか?」

「巡査……ホントに?」

 銀色のポリスバッジを付けていても、警官だという説得力がない見た目だった。

 最初に目についたのは、半袖からでた左前腕のタトゥー。

 さして大きくなないが、原始的で呪術的的な独特の文様だった。痩身ながら筋肉質な前腕上部から肘にむかって絡みつく文様が、深い青墨色で主張してくる。

 そして、眠たげにもみえる切れ長の目と、左の目尻に、小さくてもくっきり目立つ傷痕。

 自分と同じ二十代後半に見えるが、年齢にそぐわない老練な雰囲気で、実際の歳がわからなかった。

 ルシアが働いているのは、いわゆる風俗店だ。銃やナイフを隠し持ち、使うことにも躊躇いがない連中も出入りしている。

 そんなやつらとは見てくれは似ていても違った。麻薬課によくいる、悪党と見分けがつかない刑事ともまた違う。

 どういうやつなのか——。

 探ろうとするのは、隠れている身のルシアには当然のことだった。

「高城ルシア・ロペスさんでしょうか」

 応えないルシアに苛立つようすもなく、リウ巡査が再度訊いてきた。

「先にIDを見せてもらえる?」

 こういう反応に慣れているのか。頭半分、高い位置にある顔が、静かにうなずいた。

 左のヒップポケットから皮ケースを出すとき、シャツの裾からヒップホルスターがのぞいた。左利きらしい。

 見やすい位置で開かれたIDケースをルシアは注視した。

 ミッドナイトブルーのシャツに黒のネクタイ。制服姿のリウ・フォンリィェン(劉風蓮)が、カメラ目線でうつっている。

 ルシアは、ID写真の人物と同じ顔に視線を戻した。あえて訊いた。

「高城ルシアはあたし。で、用件は?」

「ダニエラ折場おりばカルヴァーリョさんの件です。検察から警護の要請をうけましたので」

「そ。で、あんたがだって、どうやって信用させてくれるの?」

「————」

 心なしか、リウが眉を寄せたような気がした。

 何度も訊きなおして、気にさわったかもしれない。けれど、安全を確かめるためには妥協できなかった。

 人殺しをゴミを捨てる程度にしか感じない、カルテルの連中を敵に回しているのだから。

「もとから警察なんて信用してないけど、今回のことで、ますます信じられなくなってる。言ってる意味、わかるよね?」

「…………」

「バッジさえ見せたら信用されるなんて、あんたも思ってないでしょ?」

「ごめん! ありがとー!」

 無言になった巡査の背後から、相反する台詞をならべた、やや高い声が駆けよってくる。

 同時に、リウが安堵を感じさせるため息をついた。声のほうを振り返り、ドアの隙間から姿が消えた。

「はやいな」とリウの声。

 ルシアは、ドアの向こうに耳をすませた。

潤餅ルンビンの屋台すぐに見つけたし、食べながら階段あがってきたし。で、まだドア開けてもろてないいうことは、説明おわってないねんな?」

「……本人確認はした」

「わかった。交替しよ」

「さっさとして。これ以上放置するなら、ドア閉めるよ?」

 声からして若い女だが、これほど強い訛りは、高齢者か芸人ぐらいでしか聞いたことがない。

 今度はどんなやつが来たのか。

 好奇心をくすぐられたルシアの前に、新たな人物があわられる。今度は視線をぐっと下げることになった。

 小さい。圧倒的に。

 自分から銀バッチとIDを見せてきた。

「クドー・マリア巡査です」

 体のラインは成人女性そのものでも、後ろに立っているリウより、頭ひとつぶん以上低い身長しかない。そのうえ瞳が大きな童顔だから、警官の制服を着たID写真が、コスプレに見えなくもなかった。積極的にIDを見せるわけだ。

 アウターにしているシャツと、Tシャツのコーデに失敗しているところだけは、ある意味警官らしく見えた。

「そっちのでかいお巡りさんから、警護にきたって聞いた。ダニー……ダニエラ折場カルヴァーリョのことで守ってくれるっていうんなら、あいつらの仲間じゃないって証明してみせて」

「つまりあたしらが、ダニエラ折場さんの近しい人を盾にして、証言を封じ込めに来た悪者かもしれへんと?」

 ルシアは険しい視線を返して答えにする。

 クドーは、にっこりした。

「そやったら、こうしてドア開けてもろた瞬間に、ボルトカッター差し込んで、チェーン切り落としてますって」

「…………」

「この家、窓に面格子もついてへんから、押し入るのは簡単です。せやから警護させといてください。高城さんに安心してもらうために、あたしらのこと、うちの副署長に電話で確認するいうのはどうですか? 市警察本部からきたばっかりの幹部やから、高城さんが心配するような——」

「わかった、わかった。入っていいから」

 ルシアはチェーンを外すために、いったんドアを閉めた。そのまま話しかける。

「こんなことになるとは思ってもみなくて、ちょっと神経質になってる。誰が味方かわかんないの。気を悪くしたなら謝るわ」

「全然。用心はええことです」

 ドア越しのクドーの声に、不機嫌な色はない。

 ルシアはチェーンを外し、ドアを解放した。

「つまんないことなんだけど……」

「なんなりと」

「さっき『ルンビン』とかいってたの、なに?」

「台湾の野菜クレープみたいなもんです。朝ごはん——世間的にいうと昼ごはんを食べそこねてたんで」

「この街にきて四年になるんだけど、聞き慣れない単語だったからさ。符牒を疑ったとしたら笑う?」

「リウと行動をあわせるための?」

 クドーのうしろで、糸杉みたいに立っている警官をさした。

「心配しすぎて妄想はいってるよね」

「不安なときは、そういうもんです。ただ——」

 クドーが深刻な顔つきになる。

「カルテルの連中が相手です。どれだけ用心しても、用心しすぎることはない。それぐらい警戒してもろて、ちょうどやと思います」

 そうして気さくな表情に戻った。

「気が紛れるんやったら、雑談相手にもなります」

「フランクなのはいいけど、仕事中にルンビン食べるのはOKなの?」

「ほんまはダメです」

 言い切ったくせにクドーは笑う。

「口止め料に差し入れでもせんとあかんかな? 食事外出も控えてほしいんで」

「いいよ。告げ口しないし、食欲もない」

 ルシアは、凹凸コンビを部屋へとうながした。


「おじゃましまぁす!」

 遊びにきたようなクドーに続き、いることを忘れそうになっていたリウが、黙礼をして入ってきた。

 ふたりの背中を見ながら、ルシアは妙なことになったとも思う。

 自分みたいな夜営業の店のダンサーに、警官の警護がつくとは。

 ダニエラが警察に情報を提供する条件のひとつとして出したのだろうし、それだけ重要な情報を持ち出したということでもあった。

 ただ、屈強な男性警官ではなく、クドーのような巡査がきた。警察からみれば、夜の客商売の女など、この程度のものかもしれない。

 でもまあ、話し相手にはよさそうなので、考えようによっては悪くなかった。クドーの人懐こく明るい雰囲気は、緊張や不安をほぐしてくれるだろう。

 苦境に立たされても、明るい展開を思いつづけて、ここまできた。ルシアは、ダニエラの証言がうまくいった先のことを考えることにする。

 ダニエラが組織から抜けたら——

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