第6話


 香織は朝9時ごろ出かけていく。ちょうどその頃、スーパーのパートが決まったのだった。3社目の面接で、土曜、日曜も出勤するという条件で採用された。しばらくは、津田が3歳をすぎためぐみの面倒を見ざるを得なかったが、すぐに、香織の在職証明書を添えて申し込んでおいた保育園に入園させることができた。

 香織が朝めぐみを保育園に連れて行き、そのまま出勤する頃には、津田はいつももうハローワークの検索用パソコンの前に座っていた。求人を隅から隅までチェックするためだった。

 しかし、津田は随分怖がりになっていた。募集を見ても、たいていは自信がなかった。

営業は営業経験者を採用する。経理は経理経験者採用する。そんな具合で、もう自分にできることは肉体労働くらいしかないと思っていたが、それさえ同様に経験が問われるだけでなく、たいていは30代後半というだけで断られた。

 津田はいつも沈んだ顔をしていた。背中も丸くなり、歩くのも遅くなった。家に帰ると、ただごろごろと狭い家の中で身の置き場を探し、パートから帰って炊事をしている香織に毎日文句をいわれ、しばしば口論になった。ひとたび口論になると、2人には歯止めがなかった。悪口雑言を浴びせ合い、香織は津田につかみかかり、泣いているめぐみの横で、時としてそれは何時間も続いた。そんな時、たぶん香織もだが、津田は疲れてやりきれない気持ちになった。そして津田はけんかのたびに「青森の実家へ帰れ。俺はそれでせいせいするんだ」と口走った。香織はそれで一層怒るのが常だったが、その頃津田の脳裏に、ある考えが浮かぶようになっていた。

 保険金。

津田は生命保険に加入していた。津田が死亡すると、香織には3千万円の保険金が入るはずだった。津田はその金額のことを、よく考えるようになっていた。3千万円あれば、母子家庭への手当などと合わせて、めぐみを何とか育てられる。そう考えるのだった。津田はいつも、香織に青森の実家へ帰れという時、頭の隅にその考えがあった。津田は毎日香織と傷つけ合いながら生きていくのは、もうたくさんだった。青森の実家で、3千万円の保険金を受け取り、何か仕事でもしながら両親と暮らす香織と、めぐみを想像すると、それは自分にとっても、たぶん香織にとってもひどくつらい光景だったが、しかしこのままどうにもならなくなったら、それしか方法が残されなくなったら、その時は自分で命を絶とう、そう思うようになっていた。

 1度目の失業手当が支給されたが、それは驚くほど微々たる額だった。津田は相変わらず香織とけんかばかりしていたが、それには内心のあせりも関係があった。貯金は、もう家族が3ヶ月も生活する程度にしか残っていなかった。津田は,夜寝ていて、うなされてじっとりと汗をかき、目が覚めることが多くなった。しだいに痩せ衰え、睡眠不足のために目もくぼんできた。頬はこけ、何を食べてものどを通らなかった。

 ある朝、めぐみがどうしても保育園へ行きたがらないことがあった。様子を見ながらめぐみに問いただすと、どうやら保育園のほかの子供に意地悪をされたらしかった。

「いいかげんにしなさい。おかあさんは仕事に行かなきゃいけないんだからね。おとうさんだって、ハローワークに行かなきゃいけないんだから、めぐみは家にいるわけにいかないの!」

 香織は半ばヒステリーぎみに3歳半のめぐみの小さな体をソファからひきずりおろす。「やだだの!」「やだだの!」と、めぐみは必死の抵抗を繰り返した。

「あんた、わたしはもう行かなきゃ間に合わないから、あとは何とかしてくれる」

 そういい残して香織は出勤してしまった。

 取り残されためぐみと、津田はテレビの幼児向け番組を見ながら午前中を過ごした。

 昼は津田がインスタントラーメンを作り、めぐみとふたりで食べた。

「めぐちゃん、おいしい?」

「うん、おいしい」

「おとうさんも、ごはん作るのじょうずだろ」

「じょうず」

 めぐみはすっかり機嫌を直していた。津田は目の前で、ようやく箸を使いながらラーメンを口に入れるめぐみを見ていると、いとおしい反面、残酷な、自棄の気持ちが湧き上がるのを抑えられなかった。

「めぐちゃん、おとうさんはね、おとうさんとおかあさんはね、もう、ダメなんだ。けんかばかりなんだ。もう、一緒にいるのは無理なんだよ。おとうさんとおかあさんが別々に住んだら、めぐみはどっちと一緒に住む?」

 めぐみはにこにこしながら「おかあさん」といった。しかし幼いながらも、心は笑っていないのははっきりと分かった。

 やはり母親がいいのだ。母親さえいれば、この子は生きていけるのではないか。津田はこの時、そう考えた。自分が死んで、3千万円が入れば、税金をどのくらい取られるのか分からないけど、それでも香織は青森の実家で何とかめぐみを育てていくことができるのではないか。自分が家計も、家族の平和も、どちらも台無しにしてしまっているのだ……。

 午後になって、津田はめぐみを連れて散歩に出かけた。失業してからひと月が過ぎ、もうすっかり春めいていた。めぐみの手を引いて、団地の商店街を歩いていると、ふともう1度、何としても自分はこのまま終わるわけにはいかない、という気持ちが湧いてくるのだった。

 アルバイト募集。夜10時以降時給1150円。

 コンビニの店先に、貼り紙があった。ひと月に25日働けば、1日10時間で日給1万円以上なら、何とか生活できなくもない。津田は明日、このコンビニを履歴書を持って訪ねようと考えた。

「めぐちゃん、そろそろ帰ろうか」

 めぐみと一緒に家へ向かいながら、津田はこれでいいのだと考えていた。たとえ深夜の仕事で,家族と生活が逆転しても、そうして生活しているうちに、いつか未来が開けることもあるかもしれない。戦争が終わり、コロナも落ち着いて、また旅行会社に復帰できる時が来るかもしれない。とにかく今は、さしあたっての生活費が稼げれば何もいうことはない。津田ははやる気持ちを抑えながら、自宅に戻ると履歴書を書き、そしてその夜は一睡もすることができなかった。とにかくはどん底から脱出すること。何でもいいから仕事をして現金を稼ぎ、食いつなぐこと。それさえできれば津田は満足する気持ちになっていた。

                   つづく

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