第3話

 赤ん坊はすくすくと成長し,半年が経ち、そして1年がすぎた。考えもしなかったことが起きたのは、それからさらに半年が過ぎた頃だろうか。

 津田の勤める会社で、社長が社員全員を集めて、月給を30パーセントカットすると発表したのだ。

 新型コロナの影響で仕事が極端に暇になっているのは津田もよく知っていたし、そもそもツアーもほとんどなくなっていたから、会社の業績もかなり悪化しているのは想像できていた。会社が存続していくために、社員を解雇したり、給与や賞与をカットするというのは、その頃よく聞く話だった。

 しかし、1歳半の子供がいて、妻も扶養していて、しかも高くもない給与を30パーセントもカットされるのは、津田にはあまりにも大きな痛手だった。

 とたんに生活は逼迫した。香織は節約に節約を重ねたが、今のマンションの家賃を払っていくのは、もう到底無理だった。

「あなたのせいじゃないのよ」

 香織がぽつりとつぶやいた。家賃が半分以下で済む公営住宅に移ることが決まった日だ。間取りは2Kで、しかも団地だから、今よりかなり狭くなるが、一家に許される選択肢は、引っ越ししかなかった。

 ぽっかりと開いた台所の四角い窓に買ってきた小さな換気扇を取り付け、頼んでおいたお風呂が風呂場に取り付けられると、老朽の進んだ住まいも生活の場らしくなってきた。唯一のタンスも、小さな冷蔵庫も、古いソファも、なんとか収まるところへ収まり、あわただしい引っ越しが一段落した。夜になって、ベランダに面した窓にレースのカーテンをかけると、めぐみはレースの裏に隠れて遊んだ。

「あれ、めぐちゃん、いないなあ」

 と津田や香織がいうと、めぐみは自分が本当にうまく隠れていると思い込み、喜んだ。

 新しい住居での最初の夕食は、香織が作った焼きそばを、3人で言葉少なに食べた。古くくすんだ壁や、きしむ床などに囲まれた住まいに重苦しいものを感じているのは、津田も香織も同じだった。

「ごめんね、香織」

「ううん、あなたのせいじゃないのよ」

 香織は暗い表情で津田を慰めた。津田は香織の気持ちに感謝したが、一家3人の平和は、その後も続くコロナ禍によって急速に打ち砕かれ、やがて津田は、しだいに些細なことで香織とけんかするようになる。


 津田は、自分が香織をどろぼうとなじったのを決して忘れない。給与をカットされた頃からは、夜8時までしか開いていない居酒屋に行く小遣いもままならなかったので、ある日、香織に少しでいいから飲み代をくれないか、といった時、香織が津田の顔も見ずに、

「そんなお金、ないわよ」

 といった時だった。津田はそれまで、たまに友人と居酒屋で酒を飲むのが唯一の憂さ晴らしだったが、その頃は金があっても居酒屋でゆっくり酒を飲める状況ではなくなっていたので、不満やストレスがたまってひどく精神状態が悪くなっていた。津田は急に、

「俺が稼いでる金じゃないか。たった2千円か3千円、何とかならないのか!」

 と強い口調で怒鳴った。

「あなた、自分がいくらもらってると思ってるの。そんなお金あれば、いつでもあげるわよ」

「ちくしょう! 稼いだ金を全部取り上げやがって。このどろぼうが!」

 香織にプロポーズした頃には、自分が香織にこんな暴言を吐くなどとは津田は想像もしていなかった。生活は、時として人の心をあまりにも変えてしまう。香織にプロポーズした頃の自分と、あの時暴言を吐いた自分は、本当に同一人物なのだろうかと津田は今にして思う。

 津田はけんかの時、思ってもいない悪口を香織に吐きかけるようになっていた。それは津田の精神が未熟なせいもあったが、なによりも貧窮のせいだった。香織にしても、津田を強い口調で怒鳴る。しかし、それは金がなく、将来が不安だからであって、もしその生活苦がなければ、津田と香織も円満な夫婦でいられるに違いなかった。

 そういえば、スイカのことでもけんかしたのを津田は思い出す。

 その頃、津田はすでに週2回くらいしか会社に行ってなかったが、ある日仕事から帰って夕食をすますと、津田は自分のスイカの金額が残り少ないのを香織に告げた。津田はいつも5千円ずつスイカのチャージをしていたから、その金をくれと香織にいった。

「今月は、お金がないのよ」

 と香織がいう。

「お金がないって、それじゃ困るよ」

「だって、本当にないんだもん。給料日まで待って」

 間もなく給料日だったが、今のスイカでは、もう会社まで往復できないのだった。

「じや、どうやって通勤するんだ」

 香織は無言だった。

「たとえ僅かな給料だって、通勤しなきゃもらえないじゃないか! え? どうなんだ、おい!」

 津田は自分の内側で何かが壊れるのを感じた。

 津田は急に手を伸ばして香織の長い髪をわしづかみにし、自分のほうへ引っ張った。

「こんちくしょう! たとえ時々でも、俺にどうやって会社へ行けというんだ! え? どうなんだ。いってみろ!」

「やめてよ! ないのよ! 本当にないのよ!」

 香織の目からは突然涙があふれ、その悲痛な声に一歳10ヶ月のめぐみも訳がわからないまま泣き出した。

「お願い! 暴力を振るわないで! 本当にないんだからしょうがないじゃない」

 香織の泣きながら訴える声と、めぐみの泣き声に、津田はたまらなく自虐的な気持ちになり、我慢がならなくなった。

                   つづく

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