第3話 蕎麦屋の出来事

 おいおい、なぜ結婚したのか、という話ではなかったのか。ここまでの話はむしろ逆ではないか、とツッコミたいかもしれない。


 しかし、この前提がなければなぜ私が夫と結婚するに至ったかを理解するのは困難を極めるため、ご容赦願いたい。




 さて、そんな私がなぜ夫と結婚したのか。それは度重なる偶然の積み重ねにほかならない。あまりこういった言い回しは好まないが、それこそ〝運命の悪戯〟といえなくもないだろう。


 ◇ ◇ ◇


 それはある日、会社近くの蕎麦屋で注文したたぬき蕎麦を待っていたときのこと。その日はいつにもまして忙しく、通常の時間帯にランチを取ることが出来なかった。そこで仕方なく一人で蕎麦屋に入り、ササッと済ませようとしていたわけだが、スマホをいじる私の耳に、我社の社員と思しき二人組の会話が聞こえてきたのである。


「東条さんってさ」


「東条さん? 専務取締役の?」


「それ以外に誰がいるよ」


 無論、鈴木や佐藤に比べれば人口は少ないであろうが、東条さんだって他にも探せばいるでは、というツッコミは置いておいて、ここでいう〝東条さん〟とは、我社では女性社員として初めて専務取締役までキャリアを積んだ〝東条さん〟のことだろう。

 ジェンダー平等の名の下に必修とされている研修の中でも、モデルケースとして取り上げられているから、少なくとも今の若手社員の中で知らぬ人はいないはずだ。


 盗み聞きなどあまり褒められたものではないが、知っている人の話に興味をそそられるのは人間の性というものだ。私は静かに聞き耳を立てる。


「いや、知らんけど。で、その東条さんがどうかした?」


「いやぁ、東条さんってさ、処女だと思う?」


 いやいやいや。いくらランチには遅い時間で人もまばらとはいえ、真っ昼間に何を言っている。


 そう思うけれど、得てしてこういうときに警戒心が働かなくなってしまうのもまた人間の悲しい性である。


「う~ん」


「多分、処女だと思うんだよね」


「あー……そっかぁ、あの人未婚だっけ」


「そうそう。専務取締役は魅力的だけどさ。女の幸せを捨ててまで欲しいもんかね?」


 ちょうどそこで注文していた蕎麦がきたので、私は店員との短い会話を終えると耳のシャッターをピシャリと閉めた。




 あまりに聞くに堪えない、なんと下品な会話か。人の出世を妬んであることないこと言う最低の屑め。


 心の中で思いつく限りの罵詈雑言を並べる一方で、心の奥底にもやりと広がった不安を無視することはできなかった。


 私もいつか、あんな風に陰口を叩かれる日が来るのではないか。


 別に出世街道を上り詰めようなどという気はサラサラない。それでも今の仕事は好きで、そこそこ評価もされている。専務取締役とまでは言わないが、管理職になる日は来るかもしれない。


 そんな時、〝未婚〟というだけでこんな屈辱的なことを言われるのか。


 そう思うと心の中に広がるもやもやがどんどん大きくなるのを感じた。


 もちろん、それを屈辱と思うこと自体が私の差別意識や偏見だということは分かっている。そしてこの手の輩はあら探しをしているのであって、未婚でなければまた別のつつけそうな話題を探してあることないこと言うだけだということも分かっている。


 それでもこの出来事は、私に改めて〝結婚〟を意識させるものだった。

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