どうして石になっちゃうの 3

『掃除は奥から外へ』

 母がよく言っていた。アンは奥、つまり彼女の借りた部屋から埃や塵の掃き出しを開始した。窓という窓を開け、ドアというドアを開け放ち、汗を垂らしながら箒を振るった。

 案の定、アンが一度では運びきれないほどの汚れ物らしき山も見つかった。洗濯のための大きな桶も、恐らく体を洗うための広い水場も。この家には整理されていないながら、必要な物はなんでも揃っていた。

 その代わり、どこもかしこも汚れて埃が溜まっていた。水場にも緑の苔が生えている始末にアンは目を回し掛けた。

 「何でこんなに汚いの!」 

 アンは懸命に働いた。


 長箒の先で蜘蛛の巣を絡め取り、家中を掃き清め水を撒いた。水場の石床にももう苔はない。ついでに自分の足の裏も洗い終え、休憩を取ろうと彼女は空室の丸椅子に腰掛けていた。

 がらんとした部屋の窓からいい風が部屋を渡って、すぐに床を乾かしていく。アンの汗をも、爽やかに冷やす。

 ――ここは本当に不思議な家だわ

 外では酷く冷たい風も中に入れば暖かな南風に変わるのだ。何処にも火を焚いていないはずなのに。

 アンは掃除が終わる頃にはそういった『不思議』に出遭っても、驚きはすれど不安に思うことはなくなった。全てが有り難いことばかりだったからだ。

 実際、休憩を終え立て掛けてあった大きな洗濯桶をひっくり返すと、見る見る内に水が湧き出した。アンは嬉しくてわぁ! と歓声を上げた。水を取り替えなくていいなら、作業も捗る。

「よぉし、洗濯もやっちゃおう!」

「……そこまでにしとけ」

 へ? と見上げた先に、男がいた。

「ヴィオ、さん……お仕事終わったんですか」

「まだだ」

男は洗濯桶を元に戻した。

「あ、葡萄酒ですか。杯を洗っておいたので」

「メシだ。もう夕方だ、じきに夜になる来い」

「はい! 何を準備しましょう」

返事をして立ち上がったアンに、男は眉間に皺を寄せた。

「……その前に風呂だな」

 ふろ? と、男を見返す彼女の全身は文字通り埃だらけだ。長い髪には蜘蛛の巣をつけ、スカートは煤か何かで真っ黒になっている。

「いいから来い」

 男は大股で廊下を進み、彼女を水場に先導した。そこは使い方の分からない物ばかりで、アンは石床を磨きはすれど物には触っていなかった。

――ふろって何だろう

「服を脱げ」

 え、と声が出た。裸になるの、とアンは動揺する。

「早くしろ」

 男は彼女を淡々と急かしつつ、壁から突き出ている丸いドアノブの形の金属に触れた。

 その途端ザァァと天井、いや男の持っている細長い棒のような物から、勢いよくお湯が出てきた。

 アンはその『不思議』では済まない出来事に目をみはった。

 ――火を焚いて沸かしてもいないのに、お湯が『勝手に湧いてくる』なんて!

「……早く脱げ」

「あの……ヴィオさん、手拭いがあれば自分で拭けます! あっ、そうだ着替えもないですし!」

「着替えは出してやる」

「あの、その」

 もじもじと視線を揺らすアンの目に、男の手が映った。指環が填まっていた。改めて見れば髪もまただらしなく下ろされ、あの銀の輪っかも紫の瞳も見えない。

「心配するな。子どもを風呂に入れるくらい出来る」

 ――あ、あたし十六!

 けれどアンは口をあわめかせるだけではっきりと主張はできなかった。湯で体を洗えたらどんなに気持ちいいだろう、きれいになるだろうと考えてしまったのだ。

 そうして有無を言わさぬ男の様子にアンは根負けし、背を向けて服を脱いだ。

 羞恥で小さくなっていると、頭から湯を掛けられ泡の出る何かで擦られた。特に髪は何度も洗われすすがれた。背を撫でられるとくすぐったくて身を捩るだけ捩った。

 ――し、知らない男の人に体を洗ってもらうなんて!

 アンは温かさも手伝って耳まで赤らんだ。

 耳の裏まできれいに擦られて彼女が分かりやすく震えたとき、あとは自分でしろと抑揚のない声が降った。

「ここに触れれば湯は止まる。体を洗ってきれいになったら、この湯を張った浴槽に浸かって温まってから出て来い。熱いからってすぐ出るな。温まったら出るんだ。そこに手拭いと着替えを置いておく。着替えたら真っ直ぐ台所に来い、いいな」

「はい」

「湯はそのままにしていていい。あとで私が入る。温まりすぎては倒れるから長く入りすぎてはいけない。ほどほどにするんだ」

「はい……?」

 アンは痩せておよそ年頃とは思えない薄い胸を隠しながら、とりあえず返事をした。男の言う『ほどほど』はよく分からなかった。けれどアンは手にたっぷりの『泡』が渡されると、その感触が面白く男の様子など気にならなくなった。知らず前を隠す手も泡で遊んでしまう。

「……それを肌に滑らせて伸ばせ。汚れたところに特に多めにつけて、お湯で流せよ」

「あ、はい!」

 さすがのアンも、前の方を顔を突き合せたまま洗われるのは恥ずかしかったので、何度も勢いよく肯いた。

 水場はもうと湯気が立ち、視界が良くない。男は熱さのせいか顔が赤いようだったが、それを指摘する間もなく水場を出て行ってしまった。

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