恐ろしい魔物がお前を石にして食べてしまう 2

 アンの母が倒れその日の内に死ぬと、村人たちが見計らったように家に入り込んだ。そして別れを惜しむ間もなくネリの亡骸は火に掛けられた。彼女の手元には僅かな骨だけが残った。

 父の遺骨は森の側に埋めてある。母と父を一緒にしてあげなければ、と思っても、彼女にはできない。母の形見は一つもないからだ。

 ――かあさん、ごめん。あぁ会いたいよ、かあさん。とうさん、寂しい……!


 べちゃ、と顔が不快に濡れて、アンは悲鳴を上げた。

「……すまない」

 見れば手拭いを持った男が立っていた。髭に囲まれた唇を引き結び、所在なげに。

 アンはその大きくて真っ黒な男が恐ろしく、急いで起き上がると手元の掛布を引き寄せて体を隠そうとした。

 けれど次の瞬間、彼女は男から果実を施されたことを思い出した。掌は変にべたつき、顔にも引き攣るような違和感が残っている。彼は食べ物ばかりか寝床さえ貸してくれた、命の恩人に違いなかった。

「ぁ……ごめ、……なさ、い」

「いい。これで拭うといい」

 渡された手拭いは使うことを躊躇ちゅうちょするほど清潔で、しかも清らかな水に浸した物だった。

「ありがとう、ございます」

 アンは躊躇とまどいながらも手を拭った。そして顔を拭い、長く息を吐いた。

 顔の皮膚が新しい呼吸を始めたような、産毛の一本一本まで洗われて生まれ変わった心地になった。

 酷く汚れた手拭いを受け取り、男は目を細めて言った。

「明るい内に帰れ。夜になれば、また道に迷う」

「帰る……そんな家は……あ! かあさん!!」

 不安に腰を探ると、抱いて寝たはずの革袋がない。アンは掛布をひっくり返し、寝台の上を這い回った。そして側にはないと分かると男に喚いた。

「かあさんは何処!」

「……お前の母は一緒ではなかった。お前だけが倒れていた」

「違うわ! 革袋……かあさんの骨が入ってるの!」

 男はあぁ、と肯き、手拭いを掌に握り込んだ。

 え、とアンは呆気に取られて目を瞠った。手拭いが消えたのだ。

 すると男はまた手を握り込んだ。今度はカチリと指環の合わさる音が鳴ったと思うと、手にはアンの大切な革袋が出現していた。

「え……なんで。どうやったの……?」

「ほら、これだろう」

 アンはハッと我に返り、革袋を受け取った。中を見る。慌てて開けたので白い灰が少しばかり舞ったが、それは確かにネリの物だった。

「かあさんのだ!……良かったぁ」

「てっきり『石』にするのかと思って先に預かっていた」

 そっと袋を胸に抱いた格好のまま、アンはぎくりと身を強張らせた。

「……石?」

「お前たちは人が死ぬと、遺骨を私の処に持ってくるだろう。ほら、こういう石にしてくれ、と」

 ゾッと鳥肌が立った。指環を突き出す男から後退ったが、背が壁についた。寝台の向こう、黒い男はアンをただ見下ろしていた。

「あ……あなたが……まも、の……?」

 あぁそうだ、と男が肯いた。

「お前はまだこどもだな? 『石』にしてもらいたくてひとりで森に入ったのか? 望むのなら、叶えることも可能だ」

 どの指環につけようか、と『石』だらけの右手をかざす男の姿に、アンは震えたまま動けなくなった。

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