第三話 タマシズメ act.3

 熊野仁くまのひとしは、自分が手当てを受けていることに気づいた。

 混濁した意識が僅かな人の気配に反応し、覚醒を求めてもがき出している。

 無自覚に動いた唇が呻きとともに、案ずる部下の名の欠片を漏らし、霞む視界が焦点を結ぶかのように、最後に見た彼らの様子を脳裏に映した。

 大室は脚を潰されながらも抵抗を続けていた。救援に向かった中野は草むらに……。

「――ッ!」

 激情が一瞬の覚醒を意識にもたらすが、重傷を負った身体は応じようも無く、指先ひとつ動くことは無かった。

 途切れ途切れな呼吸が喘鳴ぜんめいを発し、唇のチアノーゼが紫の濃度を増す。

「――また死ぬぞ」

 抑揚の無い中立的な声が、淡々と案内を告げるアナウンスのように、消えかけの知覚を素通りしていく。

 傍らに居た人物が立ち去って行くのを、再び落ちていく意識が片隅に捉えていた。


        ◇


 庁舎屋上のヘリポートからUH60JⅡ多用途ヘリコプターが離陸した。

 2名の操縦者の他、国見玲子くにみれいこと3人の隊員を乗せ、特務隊を救援すべく河川敷へと急行する。

 作戦開始から僅か十数分。それでも、遅きに失した感は否めない。

 たったひとりのグレイに特務隊が全滅されかけるなど、想像だにし得なかった事態であることは確かだった。だからといって、同隊を預かる戦術課の課長として、国見の責任と悔悟の念が軽くなるわけではない。

 果たすべき責務があることは救いだった。しかし、どんなに多忙な日々を過ごそうと、どんなに月日が経過しようと、計り知れないほどの喪失感は、決して埋まることがないことも彼女は知っている。

「――我々は、特務隊を上空より援護。対象と分断し、包囲線までの後退を支援します」

 飛行中のヘリ内部は激しい騒音に晒されるため、ヘッドセットを着けての会話となる。今の自分の声色が、直接相手に伝わらないことは幸いだと国見は感じていた。

「状況が許せば、同隊を収容。包囲網に加わることなく、速やかに現場を離脱することになるでしょう」

 ひと呼吸置き、同乗する隊員の様子を窺う。

 緊迫した空気は強い意志を内包し、伝わる高揚感が士気の高さを感じさせた。

「――包囲の強化を目的に、幽閉陣が使用される可能性があります」

 緊張感の質が一変し、隊員たちの表情に隠しきれない動揺が広がっていく。それでも、次の言葉を伝える他無かった。

「猶予はありません。皆の勇戦を期待します」

 一拍の沈黙の後、

「了解」

 短い了承の声が届く。

 ――埋まることのない穴を埋めようとして、自分は過ちを繰り返しているのではないか。

 去来する思いから逃れるように、国見は眼下の世界に視線を移す。

 不夜城を貫く漆黒の蛇へ。

 未だ明かりを灯す都市部から、黒々とした闇を湛え蛇行する河川部へ向けて、UH60JⅡは速度を上げた。


「――太子課員、配置完了しました」

 オペレーターではなく、太子課からの直通回線が永田征正ながたゆきまさに状況を伝えている。

 局長専用の庁舎内通話機を持ち、永田は不快そうに眉根を寄せていた。

「現在、特務への増援がヘリで現地に向かっている。12班も健在だ。太子課員はそのまま待機を」

「――構いませんが、高野山との同調が切れる可能性があります」

 大規模な術を行使する際、太子課は各地の協力者から思念による支援を受けることがある。今回も幽閉陣の構築にあたって、そのネットワークが駆使してされていた。

「そんなに陣を張りたいかね? 人が居るうちに――」

 感情を押し殺した平坦な声色で、冷たい揶揄が浴びせられる。

 横柄な言葉遣いと、その背景にある学者然とした太子課員の思考に触れて、絶念めいた思いが永田によぎっていた。

「……我々は命令に従っているに過ぎません」

「予想される影響は?」

 相手の応えを無視するかのように、質問を被せた。幾ばくかの希望も込めて。

「7%弱、陣強度の低下が見込まれます」

〝――やはり、お前たちの頭の中にあるのはそのことだけか〟

「……12班の退避が適わなかった時、連絡を入れる。それまで待機だ」

 喉まで出かかった言葉を飲み込み、第六特殊対策局局長は同局太子課課長にそう告げた。


        ◇


 横津悠真よこつゆうまは生殺しにされていた。

 敵は決して止めを刺そうとはせず、中途半端な攻防を繰り返すことで、肉体と精神の両面から横津をいたぶり続けている。単なる殺傷が目的では無いことは、もはや明白だった。

〝――でも、何故?〟

 最も可能性が高いと思われる事由は、生命力吸収による回復だ。敵にダメージを与え、そこから漏れた生命力を吸い取り、自らの力へと変換するエナジードレイン。死霊などが持つ、生への執着が引き起こす現象のひとつである。

 それならば、高峰の銃撃による損傷が見当たらなくなっていること、横津を傷つけながらも殺そうとはしないこと、双方に説明がつく。

 だが、充分に回復し、決定的とも言えるほどに優位に立ちながら同じ事を繰り返す理由が分からなかった。しかも――

「――ふざけるな……」

 会心のタイミングで放ったはずの一撃が防がれていた。それも、回避やブロックではない。まるでパンチングミットを使ったトレーニングのように、掌で易々と横津の拳は受け止められていた。

〝――こっちの行動を〟

 防がれているのは打撃ばかりでは無かった。左手だけで可能な全ての呪術を放ったが、かすり傷ひとつ付けることさえ出来なかったのだ。右側のヒップホルスターに収まったP226拳銃を左手で抜く試みも、悉く事前に察知され、グリップに触れることすら適わなかった。

〝――全て読まれている〟

「……は、はははは……」

 乾いた笑いが、知らず知らずのうちに漏れ出している。

 枯れつつある体力を支えていた精神が悲鳴を上げ、ストレスが中枢性疲労を引き起こしていた。頭をもたげた諦観が、四肢に痺れをもたらしながら、楽になれと囁く。

 摩耗した精神が細胞を傷つけ、身体の芯の部分に暗澹あんたんとした澱みが出来つつあった。忍び寄った闇は削られた心を埋め、慰撫するように、甘く切ない吐息で語りかける。

「――もう充分」

 母の声だっただろうか。それとも、国見の声だっただろうか。それを聞いた途端、体中の力という力が抜け、腰がくだけ、立つこともままならなくなっていた。

 膝をつき、天を仰いだまま呆けたように夜空を見つめる横津の頭を、夜闇のごとき腕が掴む。抵抗は無く、掴まれた頭を支点に身体は脱力して揺れた。

 顔面を覆う手の墨色の指が、徐々にこめかみへと吸い込まれていこうとした時――

 稲妻が地に落ち、雷鳴と暴風雨が辺りを包んだ。

「――!?」

 耳を聾する轟音と、顔を打つ風雨が横津に意識を取り戻させる。

 川面にそびえ立つ水竜巻が荒れ狂い、一帯の河川敷に嵐を巻き起こしていた。雷光が闇を切り裂いて昼夜を逆転させ、轟々たる響きに大地が揺れる。

「北見さん!?」

 竜巻の巻き上げた水が局所的な豪雨となって降り注ぎ、吹き荒れる風が地面を削った。

 顔を掴む手を振り解き距離を取った相手を、再び捉えんと黒い腕が迫る。間合いを切ってその攻撃を躱そうとした時、ぬかるんだ地面に足を取られ横津は仰向けに転がった。

「しまった!」

 ――泥水の中、追撃に備えて身構えた横津の目に映ったのは、目標を見失い佇立する敵の姿だった。読心術のごとき力は鳴りを潜め、眼下に倒れた獲物をそれは見つけられずに居た。

 吹き荒ぶ嵐と閃光が二人の姿を濃厚な影絵に仕立て上げ河岸を染める。世界は明滅し、紫電が再び横津を照らした時、その左手にはSIG SAUER P226カスタムが握られていた――

「……桶のタガの代わりにバケツの底が抜けたのかな」

 独りごちた男の前に、頭部を散々に撃ち抜かれた人影が崩れ落ちた。


 水竜巻は北見暁崇きたみあきたかを包み込み、その身体を上空へ巻き上げるべく勢いを増した。

 足首を掴む腕は、頑なに離れることを拒み、水底に留まろうと抵抗を続けている。

「――これでも外れぬか」

 術、自身共に限界が近かった。脱落する呪符が増え始め、自然力では補いきれないほどに霊気は枯渇している。

〝――次が最後の一手〟

 意を決し、残る全ての力を込めて命を下す。

 雷光が走り、周囲に複数の小型の竜巻が産まれた。それは雷鳴と共に次々と水竜巻へと合流していく。新たな力を注ぎ込まれた渦は更に速度を増し、内包した光を激しく明滅させた。

 ――ああああああああああああああ――

 足元から怨霊のごとき思念が湧き上がった。尽きること無い亡者の渇きが、無念を叫喚するかのように。

 もはや北見に心身への侵蝕を防ぐ余力は無い。

「俺が犯され尽くす前に――」

 邪念のかいなが首元まで迫った時、

「――雷よ、落ちよ!」

 術は完成し、雷光が敵を貫いた。

 ――やがて、錨のような頑強さで抵抗し続けたモノが、巻き上げられていく北見の身体に引きずられ、もろともに渦流へと飲み込まれていく。

 人にあらざる重量を吊り上げる形となった右脚は悲鳴を上げ、限界を超えて伸ばされた筋が音を立てて引き千切られる。渦中のモノは依然として足首を拘束し続け、伸びきった脚に捻りが加わった。耐えきれなくなった膝は蓋骨脱臼を起こし、激痛が全身を貫く。

「ぐあッ!」

 集中していた精神が乱れ、呪符との同調が切断されると、水流は制御を失った。

 垂直に伸びていた水竜巻は左右に曲がりくねり、頭を垂れるかのように次第にその身を屈曲させる。荒れ狂った力の奔流が、苦しみもがく龍のごとく、水と大気を攪拌し、河川敷に暴風雨をもたらした。

 吹き荒れる嵐の中、竜巻から吐き出された人影が二つ、宙を舞う。

 北見とその敵は大地に叩きつけられ、右足首を掴んでいた腕はようやく外れた。縛めを解かれた両者はばらばらに河岸を転がる。

「ぐ……がっ、はぁ……はぁ……はぁ……」

 身体が停止しても、北見は起き上がることが出来なかった。遠のいていく意識を繋ぎ止め、憔悴した心身を少しでも癒やそうと、ただ仰臥し続ける。

 いたる所の筋が断裂し、膝を脱臼した右脚は痙攣を繰り返していた。足首には黒々とした手型が残り、そこから力が抜けていくような感覚に襲われる。

 ――思わず視線を向けた時、風雨のベール越しに這い寄ってくるモノの姿が、霞む視界に入ってきていた……。


 雷光を頼りに高峰紬たかみねつむぎを探していた横津は、ソレを見つけた一瞬、思わず目を逸らしていた。

 意識を失って倒れている高峰の上に、彼女に瓜二つの容姿を持つソレが一糸纏わぬ姿で覆い被さっていたのだ。不自然に曲がった四肢が絡み合って互いを結びつけ、ぬめる粘液を滴らせながら肌を合わせる姿は蛇の交尾を連想させられた。

 豊かな肢体が纏わり付き、歪んだ肉が艶めかしく身体を這い上がる。弓なりに反った高峰の喉を閃光が白く照らし、ソレの舌が愛しげに嘗め上げた。

「こいつッ!」

 赤面した自分を恥じるように、横津はしたたかにソレの横腹を蹴り上げる。意外にもソレは容易く高峰から離れ、地面を転がってピクリとも動かなくなった。

 銃口を向けて接近した横津を白目を剥いた顔が迎え、力を失って伏した五体がゼラチン質のような弛緩をしていく。

 灰色の肌を覆う粘液が風雨に流され、括れた身体のラインに沿って落ちる様は、活動を停止してなお見る者を蠱惑した。

「…………高峰さん」

 呆けたように魅入っていた横津は我に返ると、名を呼びながら、倒れたままの同僚の元へ駆け戻る。肩を叩き、何度名前を叫んでも意識が戻ることは無かったが、確かな脈と静かな呼吸を確認することが出来た。

「良かった……」

 語尾はかすれ、指先が震えていた。目尻の涙に自身の動揺を気づかされ、泥にまみれるのも厭わず袖で拭う。怖れたのは仲間を失う痛みだろうか、それとも、残される自分の弱さへの煩慮はんりょだろうか……。埋没していこうとする意識と身体を、右手の激痛が現実へと引き戻し、痛感させられた脆弱さに打ちひしがれる。

「敵はまだ居る。どうすればいい……」

 未だ荒れる風雨から守るように、左腕に高峰を抱きかかえて横津は立ち上がった。

 一刻も早く、あのおぞましいモノから彼女を遠ざけたかった。

 ――出来ることなら逃げ出したかった。

 仲間を蹂躙される恐怖と忌まわしさを知った今となっては、決して叶わない、願うことすら自身が許さない。

 ――出来ることなら諦めてしまいたかった。

 もう充分だと語りかける自分を踏み潰して、蹴散らして。

 軋む心と、右手に走る激痛を糧に、嗚咽と憤懣を焚き付けて、横津は呟く。

「負けてたまるか。クソッタレ」

 虚勢を彩り、雷光が走る。

 それは、河岸に倒れる北見と、彼に這い寄る怪異の姿を浮かび上がらせ、ひときわ激しく轟いた。


 考えるよりも先に、身体が動いていた。

 高峰を地面に寝かせ、ベルトに挿したP226拳銃を引き抜く。閃光が北見と同じ横顔を暴いたが、迷うこと無くトリガーを引いた。

 9ミリ口径の特殊強装弾が雷鳴を裂いて怪異へと撃ち込まれる。頭部を貫いた弾丸に整った面貌を歪ませてなお、すがりつくように腕を伸ばしたそれは、かすれた咆哮を発して動きを止めた。

「――無事ですか!? 北見さん」

 駆け寄って声をかけた時、北見は地に伏したものを凝然と見つめていた。乱れた長髪の影に、血の気の褪せた唇が僅かに震えている。

「……割と色男でしたね」

「…………あれが偽物だという確信はあったのか?」

 横津の軽口には応じず、切れ長の目でねめつけて北見はそう口を開いた。

 感情の起伏に乏しく、他人に冷徹な印象を与えるのはこの男の常だ。これは間違いなく本人だと確信して、横津は答える。

「いいえ。全く」

「…………高峰は?」

 悪びれもしない横津の態度を嘆息して流し、北見は質問を続けた。そこかしこが切り裂かれた狩衣かりぎぬは土と泥にまみれ、乱れたおくみから覗く無数の擦り傷とともに、コントラストをなして白い肌を飾っている。

「無事です。意識は失っていますが、命に別状はありません。そこに」

 背後のやや離れた場所に横たわる高峰を指し示しつつ、起き上がろうとする北見に左手を差し出す。右手の出血は止まっていたが、損傷は激しく、今もほとんど動かすことは出来なかった。

「右手、やられたのか」

 出された左手を握りながら北見は問うた。伏せた長い睫毛が憂いを帯びているのは、この男なりに部下を気遣っているからなのだろう。

「……しばらくは、はしも持てませんね」

「俺は右脚だ。すまないが肩を貸してくれ」

 発せられた言葉に横津は耳を疑う。北見の班に配属されて数年、助力を求められたことなど、これまで一度も無かったのだ。

「どうした?」

「い、いえ……」

 肩を貸した時、その冷え切った体温にまた驚かされた。上背はあっても細身な身体は軽く、今の北見は儚げですらあった。

 効力を失った竜巻は消え去り、静けさを取り戻した河岸に二人の吐息が重なる。

「……くッ」

 痛みを堪えているのだろう。秀でた眉を歪めて俯く頬に、濡れて乱れた髪が纏わりついていた。

「――03班は」

「え?」

 惚けたように応じる横津を見つめ、北見は問いただす。

「熊野警部補たちはどうなった!?」

 ――時が止まったかのように横津は絶句した。

 忘れていた訳ではなかった。忘れたい訳でもなかった。その結果が自分たちに何をもたらすか、分かっていないはずもなかった。

 振り切ったはずの狼狽が蘇り足元を揺らした。振り向けば斬り捨てられるような悪寒に背筋が凍り、感情を失った唇が記号めいた言葉を紡ぐ。

「…………全滅、したそうです」

「!?」

 北見の豹変は凄絶だった。

 見開いた瞳に生気が戻り、鋭くつり上がると炯々と光を放った。見る間に紅潮した頬と固く結ばれた唇。眉と頭髪が湧き上がる怒気に逆巻く。憤怒と焦燥を宿した鬼神のごとき表情で前方を向くと、組んでいた肩を振り解き、片足を引きずって高峰に向かった。

 ボディチェックをするかのように高峰の全身を探り、残っていた装備を取り出して叫ぶ。

「ライフルと拳銃が落ちていないか!? 探せ!」

 取り残され、呆然としていた横津が我に返り、行動を起こそうとした時――

 静まった河川敷を渡る風に乗り、聞き覚えの無い声が耳に届いた。

「……御さねば、我欲を優先させるか――」

 下弦の月光を背に、川面に揺れる影を落として。

 ブラウンのスーツを着た男がひとり、水上に端然と佇んでいた。

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