第27話 弥勒寺境内
家を飛び出したものの、
長い石段を一気に走り抜けたため、まだ呼吸が荒い。
周囲を見回すが、空気に薄墨を流したように視界が悪かった。
それもそうだ。
半月が、もう中空にある。
夜が濃い。
一度、狐に頼まれて柏餅を持ってきたときは、宴会騒ぎで提灯が飾られていたが、いまは何もない。
ただ、生ぬるい風が境内を抜け、銀杏の木を揺らしている。
(どこか、座るところ……)
目がだんだん慣れて来た。
美月は草履をぺたぺた鳴らしながら、拝殿に近づく。
廃寺にしては、非常によく手入れされている。
境内には草はなく、落ち葉もほとんどない。石段を登って、鳥居をくぐると、右手に手水。左手にしめ縄の張られた倉庫が、闇に飲まれている。
美月は、石畳を拝殿まで歩くのだが。
ふと、奇妙な音に気付く。
足音だ。
ぺたぺたぺた、と。
自分とは違う足音が、すぐ近くから聞こえてくる。
(狐……? まさか
どきり、と心臓が拍動するまま、振り返る。
月が作る長い影が、美月の足元まで伸びていた。
その影の持ち主は、三人。
狐でも、旭でもない。
(……誰……?)
最初は訝しく思っただけだった。
暢気に立ち止まり、石段を上がったばかりの、その人影を凝視する。
見覚えのない顔。町人とも商人ともおもえない服装。ひとりは、着流しの上から派手な羽織を着ている。もうひとりは、袖まくりした腕に、なにか靄のようなものが見えるとおもったら、刺青だ。最後の男は、女のように伸ばした髪を、奇妙な色に染めていた。
「お。いたいた」
刺青の男が美月を指さした。
「ちょうどいいじゃん。あの、拝殿に連れ込もう」
派手な羽織の男が言い、長髪の男が下卑た声で笑った。
美月は、それでもきょとん、と周囲を見回す。
誰かほかにいるのだろうか。
そんな顔は、近寄ってきた男たちにもわかったらしい。粘着質な笑みを浮かべた。
「あんた、他に誰か友達でも呼んでんの?」
「いますかー、どこかに。出ておいでー」
「あんたひとりで、おれたち相手にするのは、ちょっと可哀そうだもんなぁ」
狐に祓ってもらったというのに、また、右手が冷たい。
いや、右手どころの騒ぎではない。全身に怖気が走った。
まずい。
この男たちが標的にしようとしているのは、自分らしい。
じりじりと後退をしながらも、睨みつけた。
「大声出すわよ」
「出せば? まあ、こんなところ、誰か来るとは思わないけど」
派手な羽織の男が笑う。
「民家、遠いもんなぁ」
刺青の男が笑い、舌なめずりをするから、ぞっとする。
「誰なの、あんたたち」
凍りそうなほどの右腕を、袖の上から必死に擦る。もう、感覚がないほどだ。
「まあ、おれたちも、あんたのことよく知らないんだけど」
げらげら、と三人は笑った。
「嫁になんかいけないようにして、って。頼まれちゃって」
「楽しめる上に、カネを大量にもらったもんで」
「今日はついてるわ。最初、家に押し込もうとおもってたら……。本人が出て来るんだもんな」
甲高い声でけたけた笑い、美月は肩を震わせた。
「最初は誰がするか決めようぜ」
「じゃんけんな」
「まだ夜が明けるには早いしさ。二回目は、また決め直そうぜ」
派手な羽織の男が、好色な色をにじませた瞳を美月に向けた。
「おれ、気に入ったら持ち帰ろうかな、この女」
ぞわり、と背中に怖気が走り、美月は背を向けて走り出す。
だが、帯を掴まれたのか、ぐい、と、唐突に後ろに引き戻された。
尻餅をついた拍子に、仰向けに転倒する。
痛い、と悲鳴を上げる前に、歪んだ視界に映るのは、夜空の半月。
上半身を起こそうと思うのに、派手な羽織の男に顔を覗き込まれて身を竦めた。
「なんだ、ここでやりたかったのか。そう言えよ」
げらげらと笑い、男は羽織を脱ぐ。がたがたと震える美月の目の前で。
男は、いきなり、宙を吹っ飛んでいった。
「………え」
ぐちゃり、と音を立てて男が右を下にして境内に落下した。
意識がないのかもしれない。
がちがちと歯を鳴らしている美月は、寝そべったまま、動かない男を見る。白目を剥いていた。
「まったく、下品な服じゃ」
聞き覚えのある声に、美月はがばり、と起き上がる。
境内にいるのは、狐が姉御と呼んでいた女性だ。
今日も、牡丹柄の振袖を着、派手な頭飾りをつけていた。
白魚のような手で、男の羽織を摘まみ上げては、柳眉を寄せた。
「ふん」
姉御は、ぴくりとも動かない男に向かって放り投げる。ふわり、と風を孕み、ゆっくりと男の上にかぶさって、その顔を隠した。
「な……、なんだお前!」
「なにをしやがった!」
刺青の男と長髪の男が怒鳴る。
姉御はうるさそうに眉根を寄せると、帯に挿した扇子を取り出し、ばらり、と開く。
香木の香りが、豊かに夜闇に乗った。
「
ばさり、と扇で扇ぐ。
旋風が巻き起こった。
咄嗟に顔をそむけた視界の端を、ふたりの男が吹き飛んでいくのが写り込む。
長い尾を引いた、逆三角形の強風は、境内の葉と一緒に男たちを空中高く舞い上げ、そのまま、姿を消した。
「あ、あの……」
呆気にとられていたが、美月は姉御に慌てて頭を下げた。
「すいません。危ないところを……。ありがとうございました」
「なんの。婦女子の敵は、妾の敵じゃ」
ふん、と鼻から息を抜くと、ゆっくりと扇で自分自身を扇ぎ始める。
「それに、
「狐が?」
目を丸くする。逆に、姉御は目を細めた。
「あれは、そなたの一族が大好きなようじゃ。信田には世話になっておるからの。かまわん、かまわん。……これ」
姉御が呼ぶ。
ふわり、と、黄金色の光玉がみっつほど、空中を舞ったかと思うと、ぼわりと闇にとろけだし、気づけば三人の
「はい、お
よく似た顔立ちの
「美月と宴をする。準備せよ」
こっくりと頷いた三人が拝殿の方に駆けだすや否や、建屋自体が眩しい光に覆われた。
咄嗟に目を閉じ、そして再び開いた時。
そこは、あでやかな御殿に変わっていた。
吹き曝しだった木枠には、薄物の布がかかり、入り口には御簾がかかっている。薄物の布が揺れるたび、良い香りと、穏やかな光が漏れ出て来る。中には色とりどりの几帳が立てられ、
「美月」
「は、はい……」
ぽかんと開いたままだった口を、慌てて閉じる。姉御が嬉し気に笑った。
「そなた、酒はどうじゃ? 飲めるほうか」
「お酒……。まだ、飲んだことないです」
なんと、と姉御は口元を扇で隠して目を見開いた。
「そなた、なんのために生きておるのだ」
「いや、なんのため、って……」
「酒を知らぬとは、人生に彩を欠いておるようなもの。いたわしい。よしよし、では、今晩は、妾が酒のすばらしさを教えてやろう」
はあ、と気の抜けた返事をしたものの、とりあえず、今晩の宿は確保した。
今日は家に帰りたくない。
姉御がゆったりと振袖を揺らして歩く。重い気分で、脚を踏み出し、その後をついていこうと足を振り出す。
「美月さんっ!」
一歩目が境内の土を踏んだ時、旭の声が聞こえた。
姉御と同時に振り返る。
石段を必死に駆けあがってきたのか、膝に手をついて荒い息を吐く旭の姿があった。
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