第5話 明日からのこと
「ま。これでなんとかなるやろ」
ぱん、と狐が両手を叩き、それを合図に、
「す、すいませんっ。つい!」
今更ながらに、自分が美月を抱きしめていることに気づいたらしい。目元のあたりを真っ赤にして、狐の隣まで移動し、ついでに手をなぜか後ろで組んだ。
「いえ、別に……。私こそ、その。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、旭が当惑したような顔をする。
「
「いや、その……。これからですよ。実際、わたしの作る菓子で客が来なければ、三か月後にはつぶれるわけですし……」
「しけた顔すんな、幸運まで逃げてまうで!」
眉を下げる旭の背中を叩き、狐が愉快そうに笑った。
「とりあえずは、明日からのことを話し合おうや。店は開けるんやろ」
狐に尋ねられ、美月は上目遣いに旭の様子を窺いながらも、頷いた。
「できれば……、開けたいんだけど。お菓子とか、どうですか」
なにしろ、作るのは彼なのだ。彼の準備が間に合わなくてはどうしようもない。
「睡蓮さんが使っておられた道具や材料はそのままなんですか?」
不安の色をにじませながらも、旭は前向きに考えてくれているようだ。
「祖父は急に倒れてそのままなので……。小豆や砂糖、小麦粉なんかも整理せずに置いてあります」
勢い込んで言った後、ちらりと居間の出入り口付近を見て周がもう家を出たのを確認しつつも、美月は声を潜めた。
「さっきは言いませんでしたが、祖父はレシピを残しています。あとでそれをお渡しするので、見ていただいたら結構かと……」
「レシピ」
旭は形の良い瞳をまんまるにする。
その様子に美月はもったいぶって頷いた。
「おじいちゃん、若いころは全部頭に入っていたらしいんですけど、年と共に忘れていきそうだから、って、作り方を事細かく書いてたんですよ。あ、これ、内緒ですよ」
人差し指を立てて唇に寄せると、旭は呆気にとられたような顔のまま、何度か小さく頷いた。
「手順書、と言う意味のレシピ、ですか。なるほど」
(手順書? 作り方ってことかな?)
随分とまどろっこしい言い方をするんだな、と内心で首を傾げる。
「ですが、よかった。朝生菓子なら睡蓮さんから何度も教わっていましたが、さすがに上生菓子は不安だったので……。レシピを見れば、心強いです」
旭が目元を緩めて笑うので、今度は美月が首を傾げる。
「朝生菓子って?」
「自分、菓子屋の娘やのに知らんのかい」
狐が腕を組んだまま笑う。
「柏餅とか団子、大福のように、その日のうちに作って、その日のうちに召し上がってもらう菓子のことです」
旭が丁寧に教えてくれる。ははあ、なるほど、と頷きながら、狐に向かって口を尖らせて見せる。
「説明してもらったらわかるもん」
「そりゃ、誰かてわかるわい。ほな、旭。明日からいけそうか?」
「いや、さすがに上生菓子まではちょっと不安なので……」
慌てて旭は首を横に振り、申し訳なさそうに美月と狐を交互に見る。
「数日は朝生菓子を出して……。商品が無くなり次第、店じまいというかたちでもよろしいですか? その間に、上生菓子をいくつか用意しますので」
「私は問題ないです」
ぶん、とひとつ首を上下に振る。
「でね。ひとつ、私、提案があるんだけど」
「なんや」「なんですか」
狐と旭が声をそろえる。
「ポイントカードを作ったらどうだろうと思って」
「「ポイントカード」」
ふたたび、狐と旭の声が重なるが、旭の声は完全に裏返っている。
「お菓子一個購入ごとに、ひとつ判子を押すの。で、カードのマス目が全部スタンプで埋まったら、お菓子1個無料プレゼント。どう?」
「それ、損せぇへんの?」
「損しない程度のものをあげるのよ。なんだったら、失敗作あげたらどう。廃棄寸前の商品とか」
「商売人っていうか……。人として、お前ひどいやん」
「いや、さすがにお客様に失敗作とかは出せませんが……、いや、あの……」
旭は困惑を通り越し、奇妙奇天烈なものを見るような眼で美月を眺める。
「あなた、一体何者なんです? ポイントカードとか、スタンプとかレシピとか……」
思わず口を閉ざし、ちらりと狐を見る。狐は狐で、見えない狐耳を伏せて「やべ」という顔をしていた。
まさか、前世の知識をこの狐が呼び起こした結果、こんなことを思いついた、とは言えない。
「………ただの、和菓子屋の孫娘です」
「そやそや。大変お困りのお嬢さんや」
「……そう、ですか」
旭も納得はしていないだろうが、引き下がることにしたらしい。小さく息をつき今後の段取りを考えるように視線を宙に彷徨わせていたが、ふと、「そうだ」と呟いた。
「あなたのことはなんとお呼びすればいいでしょうか」
美月を見てそんなことを言うから、目をまたたかせる。
「対外的には夫婦ということで押し通すつもりですが……。実際はそうではありませんし」
旭は申し訳なさそうに眉を下げる。
「どちらかというと、雇い主と使用人という関係の方が正しいでしょうから……。お嬢様とお呼びしましょうか」
途端に爆笑したのは狐だった。
「お、お嬢様、やて。けけけけけけ」
「なんで笑うのよ、もう! 私だって立派な和菓子屋のお嬢様だっていうのにっ」
ばしり、と狐の背中を叩くと、「いてっ」と言いながらも、まだ笑っている。美月は苦笑いをしたまま、旭に向けた。
「美月でいいですよ。私の方が年下でしょうし」
「いえ、それはやはり……」
どうもひどく遠慮があるらしい。散々ひとりで悩んだ後、おずおずと申し出た。
「では、美月さん、とお呼びすることにします」
美月はくすりと笑い、了承する。
「じゃあ、私は旭さんとお呼びしますね」
言った途端、旭がまた目を丸くするから、焦った。
「あ……。旭様とかの方がいいですか?」
そうだ。勘当されたとはいえ、どうもこの青年、品がいい。自分こそ彼の呼称に気をつけねばならなかったのではないだろうか。
「いや、違うんです。あの……」
ためらう旭の言葉を継いだのは、笑いを含む狐の言葉だ。
「普通は、旦那様、とかちゃあうん? ご主人様、とか。一応夫婦なんやろ?」
「ああ、そうか。そういう設定だもんね。いや、でも……」
まじまじと目の前の旭を見上げる。
なんとなく、旦那様、とか、ご主人様、という呼称からはこれまた程遠い。
「旭さん、が、一番似合うんだけど。だめですか?」
学生服の彼を見つめる。
切りそろえられた短髪は、夕闇を呼び込むような色で、日焼けすらしていない肌は陶器のようだ。
美月は、改めてなんて美しい青年だろうと思った。
「光栄です」
ふわり、と旭がほころぶように笑う。
その笑みが、とても透明で。
本当に朝日が染み入るような穏やかさと温かさを持っていて。
なんとなく美月は頬が熱くなる。
「いえ、こちらこそ」
赤くなりそうな顔を伏せるように頭を下げると、狐が、けけけけ、と笑った。
「ええなあ。新婚。ええなあ。あ。邪魔者は消えよ」
言うなり、するり、と居間を出て行く。
「え。ちょっと! どこに行くの!?」
慌てて顔を起こすが、からりと玄関扉が開く音がした。急いで廊下に向かうが、もう彼の姿は見えない。本当に出て行ってしまったらしい。
「……あの、
振り返ると、びっくりした表情の旭がいる。
「……いえ、通りすがりの書生で……」
美月は狐が口にしていたフレーズを繰り返すしかなかった。
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