契約結婚してください! 私は和菓子屋の経営しか興味ありませんから、恋愛についてはどうぞご自由に!

武州青嵐(さくら青嵐)

第1話 神狐

 葬儀の終わった室内で、美月みつきはただひとり、ぼんやりと祭壇に飾られた白木の位牌を眺めていた。


 縁側から伸びるのは、夕暮れの橙色だ。


 香炉から薄く流れる線香の煙は、伸びあがりながら、その橙の色にまぎれていく。

 一応祭壇の両脇には、提灯が用意されているが、火をいれるにはまだ早い。


(……着替えても、いいのかな)


 さっさと喪服を脱いでしまいたかった。

 祖父が気に入っていた普段着が、無性に恋しい。


 木綿の、これといって特徴のない着物だ。ふくらスズメが描かれている帯をそれに合わせていた。祖父が「お前に似合う」というから、もうずいぶんと着ていたせいで、「着たきりスズメとはこのことだな」と苦笑いされた。


「いい加減、お前に新しい着物を作ってやらないと」と。

 その、祖父の笑い声は、もう聞こえない。


 いや、聞くことは叶わないのだ。


 路地を売り歩く棒手振ぼてふりの声が遠く聞こえるだけで、そう広くもない居間は、しんと静まり返っている。


 あれだけやかましく通夜や葬儀の采配をしていた伯父夫婦は、今は僧侶の接待のために美月を残して近所の小料理屋に行ったまま戻ってこない。どうせ、美月の用意した葬儀費用で飲み食いしているのだ。


(まあ……、戻ってこない方がいいんだけど)


 朝から何も食べていないが、空腹は全く覚えない。

 小さくため息がこぼれたのは、放っておかれた悲しみよりも、通夜の後、伯父夫婦が持ち掛けた提案のせいだ。


『女のあんたには、この和菓子屋 睡蓮すいれんの相続権がない。あんたの父親である兄貴ももう死んでいるし……。相続権は、うちにあるんだ。どうだい。この店を売っぱらって持参金にするってのは。それで、うちの息子の嫁になればいい』


 尊大な態度で伯父は言い、その隣で伯母はしきりに頷いている。そのふたりの背後から、無言で視線を寄こす従兄弟のあまねが、たまらなく気持ち悪かった。


 喪が明けるどころか、葬儀もまだなのにそんな話を持ち掛ける伯父夫婦が嫌で、美月は以降、口をきいていない。


 十六の娘にそんな態度をとられて憎らしく思っているようだが、表立ってはむかってこないのは、それだけ伯父夫婦の懐具合が厳しいのだ。


 伯父が言う通り、女である美月には、祖父の遺産や不動産を引き継ぐ権利がない。

ただし、配偶者がいれば別だ。


 美月が男であれば引き継ぐべき遺産を、配偶者は引き継ぐことができる。

 あるいは、後見人を立てることも可能だ。


 そうして、来るべき未来の婿のために、一時的に遺産を保留しておくことができる。

 十六の美月にはまだ配偶者がいないが、機嫌を損ねてどこからか配偶者や後見人を連れてこられるのが恐ろしいのだろう。


 喉から手が出るほどに、美月の持参金が欲しいに違いない。それほど、祖父からのれん分けしてもらった和菓子屋の経営が思わしくないらしい。


「なんや、辛気臭い顔して」


 いきなり聞こえてきた関西弁に、美月は息を呑んだ。咄嗟に腰を浮かし、中腰になったまま、声の方を見る。


 するり、と。

 祭壇裏の襖が開き、狐が一匹入ってきた。


 大きな狐だ。

 一瞬、山犬かとおもうほど体格もしっかりしている。だが、金色の毛並みや、ぴんと立った大きな耳がそうではないことを示していた。


 その、大きな立耳に、きらりと光るものがある。翡翠ひすいだ。この狐。右耳に耳輪をしている。


 手も大きい。顎を下げ、上目遣いに琥珀色の瞳で美月を一瞥すると、つい、と、天鵞絨ビロードのような鼻先を祭壇に向けた。


「おじぃ、小さくなってもてんなぁ」

 しみじみと、白木の位牌を見つめて言うから、美月は目を見開いた。


(しゃ……、しゃべった……)

 あっけにとられ、今度はへなへな、と畳に座り込む。


「どないしてん。大丈夫か?」

 狐はお座りの姿勢をすると、不思議そうに小首を傾げる。


「い、いやだって……。狐が」


 ぱくぱくと口を開閉し、息を吐くと同時に言葉を発していたら、狐は愉快そうに琥珀色の瞳を細めた。


「なんやねん。いっつも、僕ら、会うてるやん。ただ、しゃべってへんかっただけやんか。美月、毎日、水と米を供えてくれてるやん?」


 そこに、と。

 狐は右手を上げて何かを指し示す。

 つられて美月は天井付近を見あげた。


 稲荷だ。


 今は葬儀のため幕で覆われているが、梁に棚板を打ち付け、稲荷社が設置されている。社の前にいるのは、陶器製の狛犬こまいぬならぬ、狛狐こまきつねだ。


「あ!」


 咄嗟に声を上げた。

 その、狛狐の耳に、耳輪がついていたのを思い出したのだ。


『うちの神狐しんこさまは、一等いっとうえらいんだ』


 なぜ、狐がこんな耳飾りをつけているのか、と尋ねた美月に、祖父は自慢げに答えたものだ。


「わかった?」


 狐はふっさりとした尾を左右に揺らし、美月を見た。その耳には、狛狐と同じ耳輪。


「……どうして?」

「どうして?」


 狐は、目をぱちくりとさせる。


「いや、その……。今まで、こんな風に出て来たことなかったでしょう? どうして今……」


「そりゃあ、この家の一大事やもん。このまんまやったら、あの伯父夫婦に言い負かされて、美月、この和菓子屋睡蓮を売っぱらってしまうんと違う?」


 はっきりと言われて美月は唇を引き絞る。

 そんなわけないじゃない、とは言い返せない。


 伯父の提案に不機嫌な態度で応じているが、それを撥ねつけるだけの何かを、美月は持っているわけじゃなかった。


 自分の意見に沿ってくれる婿がいるわけではないし、腕の立つ後見人など、どこにいけば出会えるのかさえわからない。


 美月自身が、祖父のような菓子職人であれば、その仲間が助けてくれたかもしれないが、それも望めない。


 意固地になってここにしがみついたところで、店や祖父の遺産は法的手続きを経れば、伯父のものになってしまう。


 婿や後見人がいない美月が生きていくためには、この和菓子屋を売り、その金を持参金として嫁に行くのが一番いい選択だと、実は自分自身で一番よくわかっている。


 だけど。


「私だって、この和菓子屋を売りたくない」


 知らずに拳を握りしめる。


 祖父の作る菓子は、別格だった。毎朝炊く、小豆のふつふつという音。ふわりと身体中を包むもち米の蒸した香り。ごつごつした指で作り上げる、繊細な飾り。


 それらは、祖父のみならず、美月にとっても誇りだった。


「ここに、ずっと居たい」


 喉から搾りだしたのは、切なる願いだった。つん、と鼻の奥が痛む。涙が出そうだ。


 祖父の臨終の際は、まったく涙など出なかったというのに。


「おったら、ええがな。僕が助けたる。安心しい」


 するする、と狐は足音もなく近寄ってきた。

 湿気た黒い鼻先を近づけ、ふすふす、と鼻を鳴らす。


「おじぃがおらん今、この家の主は美月。ほなら、お前を守るんが、僕の役目や」

 琥珀色の瞳が柔和に緩んだ。


「なんてったって、僕は、一等えらい神狐やからな」


 祖父を真似て言う狐に、美月も思わず顔をほころばせた。途端に、涙が一粒頬を流れ、慌てて指で拭う。


「だけど……、どうしたらいいんだろう」


 狐はあっさりと、「おったらええ」というが、このままでは生活が困窮することは目に見えている。


「僕に、ええ策があんねん」

 えっへん、とばかりに狐は胸をそびやかせてお座りをする。


「策?」

「美月。お前、婿をとれ」


「……………え。それ、あの従兄弟の周さんと結婚しろってこと?」

 眉が寄り、不機嫌な声が出る。狐は「あほう」と、更に低い声を出した。


「あんな、あんぽんたんに、睡蓮を任せられるかい。おじぃには、弟子がおる」

「弟子?」


 美月は目を丸くする。

 そんな話、聞いたことはない。


 祖父には、子がふたりいた。

 ひとりは、美月の父。もうひとりは、伯父。


 それぞれに分け隔てなく和菓子の技術を教え、父には和菓子屋睡蓮を。伯父には結婚を機にのれん分けをし、芍薬庵しゃくやくあんという店まで出してやった。


 祖父が弟子と呼ぶのは、自分の子たちではないのか。


「もうすぐ来るはずや。そいつを婿にして、ほんで、美月。この家を継げ」

 狐はあっさりと言うが、困惑するしかない。


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