17 空の境地 三

 一旦逃げ出した彩であったが、辰也の姿が見えなくなった辺りで立ち止まった。

 黒蛇ジャジャに仇なすという辰也。彼はどうしようもないほど裏切り者だ。なのにどうしようもないほど気になっている自分がいることに彩は気付いていた。

 その感情の名前を彩は知らない。しかし、また会いたいという気持ちが時間が経つにつれて沸沸と沸き立って来る。

 もう二度と会うべきでないと分かっているのに。そもそも蛇剣衆に狙われて生き伸びた者を聞いたことがない。だから、間違いなく辰也は殺される。

 それに今戻ったとして、ジャジャに敵対していると認識されればそれこそ彩の命がない。

 逃げるべきだ。そう頭で分かっているのに、辰也がいるところに戻りたいと思っていることが奇妙で仕方がなかった。

 二つの思考に挟まれた彩は、どうすればいいのか分からず、この場で立ちすくんでいた。




 太腿に突き刺さっている鎌を、田所が鎖を引っ張ることで引き抜いた。

「つっ」

 強い痛みが走り辰也は顔をしかめた。赤い血が垂れ流れているが、どうやら骨には達していない。

 辰也は中段に再度構えて、目の前にいる敵と対峙する。

「くはは」

 愉快そうに笑い声を立てる田所は、鎌をくるくると回していた。

 蛇剣術鎌首飛ばしは、自由自在に鎌を飛ばす技だ。それによって予想外の方向から鎌が襲って来る。まるで車田正治の蛇剣術からみのようだが、あれは刀である以上変化に限界があった。対して鎌首飛ばしは、刀ではあり得ない方角から飛んでくる。おかげでより対処がしにくい。

「ちあっ!」

 田所は鎌を投げた。今度は辰也に向かって一直線に。

 辰也は動かない。

「きあっ!」

 目前で鎌が上に跳ね上がった。そして辰也の頭上から落ちて来る。刀で打ち返すも、田所の尋常ならざる巧みな操作によって再び襲いかかって来る。さらに打ち返しても鎌は何度も何度も襲いかかる。蛇の如く執拗さだ。

 ここで手をこまねいては埒が明かぬと、辰也は鎌を防ぎながら一歩一歩確実に近寄っていく。

 だが近寄れば近寄るほど、鎌が襲いかかって来る間隔が短くなる。

 どちらの反射神経が上回るか。

 田所は相手が近づいて来るのに余裕を崩さない。己の技量に絶対の自信があるのだ。

 対する辰也は必死に食らいつく。飛んでくる鎌への対処などこれが初めて。片時も集中力を切らすわけにもいかず、一歩踏み込むごとに神経を擦り減らす。

 そして、残り数歩。

 弾けば即座に襲って来る鎌を全て捌く。一秒の間に十は打ち合っている。音はほぼ連続で聞こえ、出来の悪い早太鼓のよう。まるで前に進められる隙がない。

 ここまで来ればもはや根比べ。先に集中力を切らした方が負ける。

 だが先ほど負傷した太腿からはどくどくと血が流れ続け、体力の消費は辰也の方が明らかに大きい。時間が長引くほど不利になっていくのは間違いない。

 そのことを裏付けるかの様に、辰也の動作が一瞬遅れた。

 一瞬だがこの攻防において初めてできた大きな隙だ。田所が見逃すはずがない。

 ほんの少し手首をひねるだけで、鎌は心臓を狙って襲いかかった。

 同時に田所は気づいてしまった。辰也の口元にうっすらと笑みが浮かんでいることに。

 田所はぞっとして、慌てて鎌を戻そうと鎖を引く。

 だが辰也の方が早かった。自身の体をひねって前に出る。鎌は左の二の腕に突き立った。

「な」

 驚愕の声が田所から漏れたが、すでに遅い。

 鎌を引き抜けない。まるで万力で挟まれているかのように、微動だにしないのだ。

「剣宮流錬気法、山桜」

 辰也は山桜によって強化した筋力で鎌を締め付け、動けなくしているのである。

 右手だけでハナを持ち、狙いを鎖に定めた。

「ま、待て!」

「待たぬ」

 音もなく振り下ろす。鎌につけられた鎖はあっけなく切れた。

 それから鎌を引き抜いて地面に落とすと、からん、という乾いた音が響く。

「まだ、だ」

 戦力は大幅に落ちたはずだ。だが未だ田所は諦めていない。

 数歩離れ、今度は分銅を回し始める。風を切る音が耳に響いた。

 辰也は中段に構える。

 分銅の速度は徐々に上がって行く。今や目視ではほぼ捉え切れぬほどの速さに達していた。

 全身全霊の一撃が来る。

 鬼気迫る田所の表情で、辰也は察する。彼の全身からは凄まじい殺気が放たれていた。

 あの速度で放たれた分銅が頭に当たれば、即死は免れないだろう。

 冷や汗が辰也のこめかみを流れた。

 左の二の腕と太腿の傷は変わらずに血が流れ続け、酷い痛みに苛まれている。いかに屈強な辰也の肉体であっても、その運動能力の低下は避けられない。

「ちあっ!」

 分銅が放たれた。満身の力が込められたそれは、辰也よりも斜め上へと向かっている。

 そして唐突に急激な進路変更。

 目で追うとまたも軌道が劇的に変化する。

 なんと凄まじき手腕か。

 軌道はさらに変化し続けて、辰也の目を翻弄する。

 ここで迂闊に踏み込めば、死角から襲いかかって来るのは間違いない。

 それが分かっているからこそ、辰也は待ち続ける。

 集中をより研ぎ澄まし、気を体内に巡らせて全てに備える。

 その時、辰也の知覚は全てを捉えた。

 分銅の動き。田所の手の細やかな動き。風を感じ、匂いを感じ、音を聞き分ける。

 分銅がこめかみを掠っても動かない。当たらない、という確信があったからに他ならない。

 なぜ分かったのかは分からない。ただ奇妙なまでに心が静かだった。辰也自身も驚くほどに。

 ハナを下げ、下段に構える。考えての動作ではなかった。無意識の内に、ふと気がついたら得意の中段を止めていた。そうしてそれが、最も正しい構えだと直感していた。

 この間にも分銅は恐るべき速度で飛び続け、軌道は変化し続けている。時に惑星が公転するかのように田所の元へ戻り再加速して、再び辰也の付近で飛行する。それら全てを辰也は知覚し続けた。


 一方、田所。

 自分が持つあらゆる技術を注ぎ込んで繰り出す蛇剣術鎌首飛ばし。大抵の敵はたやすく翻弄されて隙を生み出し技の餌食になっている。

 だが今目の前にいる敵は、一向に隙を見せない。そればかりか分銅の動きを見切っている様にすら思える。

 田所は、それができた者を一人だけ知っている。

 蛇剣衆頭領、堂島豊。

 彼と手合わせを行った時、今と同じ様に全力で鎌首飛ばしを放った。だが、最小限の動きでことごとく捌かれ、弾かれ、避けられたのだ。その時の頭領と同じ雰囲気を、敵は纏っている。


 飛び交う分銅を見極めながらその時を待つ辰也は、今の境地に心当たりがあった。

 かつて桜花一刀流の開祖である剣宮竜刀は、秘伝の書にこう記したという。

『空より見据えるが如く全を見通す。此れすなわち空の境地』

 真に才能がある者にしかその境地に到ることは叶わないとされ、桜花一刀流の長き歴史においてもほんの数人しか至れなかったと言われている。当代の師範である藤堂ですら、空の境地に至っていないのだ。

 もっとも、自分のこれが空の境地であるという確証を辰也は持っていない。旅を続け死闘を繰り広げ、実感しているのは己がどうしようもないほど未熟であるという事実のみ。真に才能がある者にしかできない空の境地を自分ができるとは思ってもいないのだ。

 しかしそれでも。その片鱗でも掴めているのだとしたら、今の状況にも納得できる。

 そうして別の事を考えながらも分銅の動きを見切り、その瞬間を見極めた。

 あたかも、地に落ちた桜の花びらが柔らかな風を受けて浮かび上がるかの様に、ふわり、とハナで斬り上げる。

 激烈な分銅の動きとは対照的に、その太刀筋は、あくまで柔らかく、音もなく、速さもない。

 田所は、瞠目した。

 分銅が鎖から斬れて、くるくると回りながら地に落ちた。鎖は力なく垂れ下がり、力尽きた蛇を想起させる。

「ば、ばかな」

 田所の驚きの声を聞きながら、辰也は、じゃり、と地面を踏み締め、一歩一歩近寄る。

「くっ」

 と、田所は懐から脇差を抜き、白刃を辰也に向けた。

 動じない辰也。

 斬りかかる田所。

 虫を払う様な動作で、辰也は田所を袈裟懸けに斬り上げる。血を吹き出させながら田所はあっけなく倒れ、その生命活動を終わらせた。

 その様子を見届けると、辰也はがくりと膝を突く。

 荒々しく呼吸をし、脂汗を流している。辰也も限界であったのだ。


「大丈夫?」

 と、ハナが気遣った。

「……ああ。だがしばらく歩けそうにないな」

「怪我の治療もしないといけないし、少し休んで行こうよ」

「そう、だな」

「あ、誰か来た」

「何?」

 同時に、土を踏む音が背後から聞こえた。

 辰也は振り返る。

 そこにいたのは、逃げたはずの山辺彩。凄惨な死体を見た彼女の顔は、青ざめている。

「なぜ、ここにいる?」

「……考えてもみれば、私も進む方向が同じです。もう勝負は決していると思い、今ここに戻りました」

「それで、どうする? 今なら君でも俺を殺せるかもしれんぞ」

「……いいえ、いたしません。それよりも怪我をなさっていますね。私が治療をしましょう」

 彩は怯えを見せながらも近づいて、蹲み込んだ。

「なぜだ?」

「この世界は自由です。だから、私が何をしようとも自由です。剣宮様を治療するのも、私を護衛してもらうために必要なことだからです」

「また、先ほどのように蛇剣衆に襲われるぞ。そうなれば命の保証はできぬ」

「その時は、その時です。私は今までいかなる手を使ってでも生き延びてきました。今回は、剣宮様を利用しようと思っているだけのこと。もしもまた蛇剣衆に襲われれば、その時も真っ先に逃げましょう」

 彩は手を動かしながらそう説明する。

「好きにするといい」

「そうします。ですがそれよりも、聞きたいことがあります。その、刀から声が聞こえたように思えたのですが」

「さすがに気付くか」

 そう言って辰也は、ハナを見せた。

「ご察しの通り、私は喋れる刀なの」

 ハナの声に、彩は驚きで目を見開く。

「驚きました。この様な刀、初めてです」

「で、あろうな」

「あなたが何を企んで戻ってきたのか分からないけど、私の辰也を誘惑しても無駄なんだからね!」

 何やらハナは怒っている。

 彩はよく分からないらしく、きょとんとしていた。

「わ、私の?」

「あまり気にするな。それよりもこのことは他言無用で頼む」

「はい。どうせ言っても誰も信じないでしょうし」

「私を無視するな! 怒ってるんだからね!」

「うるさい」

 辰也はハナを小突いた。

「あいたっ」

「……何度も言うが、お前は刀だろう?」

「心が痛いの! 私は繊細なんだから!」

「分かった、分かった」

 一人と一振りの息のあったやりとりを見ていた彩は、くすりと笑った。

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