15 空の境地 一

 この世は弱肉強食だ。

 まだ十代半ばの山辺彩はそう思う。

 いつだって弱い奴は強い奴の食い物にされる。利用され、骨の髄までしゃぶられながら、従順に従う他に長生きできる術はない。

 そうは言っても、別にこの世界のことを嫌っているわけではない。それがこの世の理でしかないのだ。たったそれだけの話だ。

 だから、小川に沿った道を歩いていただけで男に襲われ、それに抗う術を持たない彩は、一切の抵抗を放棄した。

 力づくで組み伏せられ、鼻息荒くいやらしく笑う臭い男のことを冷然と見つめながら、嵐が通り過ぎるのを待つ。下手に抵抗をするから殺されるのだ。こうして何もかもを受け入れていれば、少なくとも死ぬことはない。

 男の大きな手が彩の頰を掴み、醜い顔が迫ってくる。凄まじい嫌悪感が駆け上がるが、彩は表情一つ変えなかった。

 だが次の瞬間、男が「うっ」と呻き声を上げ、横に倒れた。どうやら気絶しているらしく、うんともすんとも言わなくなっている。

 一体何が? そんな疑問を頭に浮かべながら上体を起こすと、男が一人立っていた。

 藍色の着流しを着た彼は、腰に桜模様の鞘を据え、右手には桜色に光る不思議なほど綺麗な刀を握っている。

 彼はどうやら峰打ちで男を打ったらしく、刃は血で濡れていなかった。

 そのことになぜかほっと安堵している自分に気づいて、少しおかしくなったが、表情を出すのを我慢した。でも、仕方ないと彩は思う。こんなに綺麗な刀に、汚い血の赤が似合うはずがないのだから。

 ちん、と澄んだ音を立てて納刀した彼は、

「大丈夫か」

 と、優しい声音で聞きながら右手を差し出してきた。

 彩は彼の大きくて暖かい手を借りて立ち上がる。全身を確認するも、少し背中が痛むだけで問題はない。

「はい」

「そうか。この辺りに住んでいるのか?」

「いえ。旅の途中です」

「ふむ。俺と同じだな。だが女の一人旅は危険だ。気をつけるがいい」

「……あの、それならどちらに行かれるところなのですか」

 男は指で指し示した。奇しくも、空の黒蛇の流れと合致している。

「ならば頼みがあります」

「頼み?」

「私はこの辺りの地理に少し詳しいんです。道を案内する代わりに護衛をお願いします。幸運にも、私が行きたい方角も同じのようですし」

「ふむ」

 男は考える素振りを見せた。

 彩は上目遣いになって男の顔を覗き込んだ。胸元が見えるだろうがそれも計算の内。

「それから、報酬の代わりと言っていいのか分かりませんが、道中、私のことを抱いても構いません」

 どうせ男などどれも同じ。旅の途中で襲われることに代わりない。ならばこちらから言い出した方が主導権を握りやすい。だから彩は先手を打った。

 だが一転、男は困惑した顔になっている。

 なぜ、と彩は思う。想定していた男の反応と違う。ああ言えば、単純な男のこと、目の色を変えてすぐに承諾するものだと思っていた。

 しかし、

「せっかくだが、やめておこう」

 あっけなく断られて、彩は驚く。まさか断られるとは思わなかったのだ。

「どうして、ですか?」

「それは……」

 と男は言いかけたと思うや、すぐに「少し待て」と言ってその場から離れていく。追いかけようとすると、背中越しに着いてくるなと言われる。

 そういえば、何か少女の声が聞こえた様な気もした。だがこの場にいるのは、彩と助けてくれた男と、気絶した男だけだ。他に少女がいるはずがない。きっと気のせいだと、彩は思った。

 それから待つこと数分。

「……気が変わった。案内は頼む」

 戻ってきた男は苦虫を噛み締めたみたいにそう言った。

「やっぱり」と彩は破顔する。「夜もお任せください。これでも自信はありますから」

「いや、それは必要ない」

「え?」

「案内の代わりに護衛をする。それで十分だ」

「……分かりました」

 奇妙に思いながらも彩は承諾する。まあ、抱かれないならその分得か、そう心の中で呟きながらも、どこか少し残念に思う自分がいることに気づいて、彩はかぶりを振った。

 それから二人は互いに自己紹介をする。

 彼は剣宮辰也と名乗った。

 変わった男。それが彩が抱いた辰也に対する感想である。




 山辺彩と名乗った少女は辰也の横に並んで一緒に歩いていた。

 ガス灯に照らされた彼女は頭一つ分低く、服装も継ぎ接ぎが多い着流しで、所々色が違っている。太陽に焼かれることがないため肌は白いが、何日も洗っていないのと、先ほど男に押し倒されたせいで汚れている。頭髪は鴉の様に黒く、首元辺りでばっさりと切られ、櫛を通していないのかあちこちに飛び跳ねていた。

 彩はその真っ黒でつぶらな瞳で辰也を見上げ、楽しげな笑顔を浮かべている。

「その刀、凄く綺麗ですね」と、彩は弾む様な声で言う。「銘は何というんですか?」

「桜刀ハナ」

「へえ。誰が打ったんですか?」

「俺が住んでいた村の刀鍛冶が打ったものだ」

「あんなに綺麗な刀を打つのですから、きっと凄く有名なお方なのではありませんか?」

「そうでもない。村一番の刀匠だが、村の者にしか刀は打たないからな。村の外に出回ることもないだろう」

「意外ですね。あれほどの腕なら欲しがる方も多いでしょうに。剣宮様の村はここから遠いのですか?」

「遠いな。とても遠い所にある」

「そうなんですか」

「さっきから聞いてばかりだな」

「あ、気に障ったならごめんなさい。剣宮様のこと、知りたくて」

「俺のことを? なぜ?」

「あはは。女の子が男の人のこと知りたいなんて、そんなの理由は一つだけですよ。それはですね、剣宮様のことが気になるからです」

「気になる?」

「ええ。とても気になります。私が知っている男の人の誰とも違っていますから」

「そうだろうか」

「そうですよ。普通の人は誰かを助けるなんてしませんから。普通は素通りするか、混ざるか、襲っている相手を殺してから襲うか、ですから」

 彩は笑いながら、そんなことを言う。

 まるで何度も男に襲われているかのような言動に面食らいそうになる辰也であったが、無表情を努めた。きっとこれが、黒蛇ジャジャに支配された世界の日常なのだろうから。

「……たまたまではないか?」

「そうかもしれません。ですが、たまたま初めて助けてくれたのが剣宮様でした」

 だから気になるんです、と彩は楽しげに言う。

「同じことを言う子が前にもいた。俺としては信じられないのだが」

「剣宮様の村では助けるのが普通だったのでしょう。ですが私が知っている限りでは、人を助ける男の人は……いえ、女の人も含めて、いないですね。ところで……その同じことを言っていた子というのは、女の方でしょうか?」

「そうだが?」

「やはり……剣宮様は女性に慕われる様ですね。村でもさぞ女の方に好かれていたのでしょう?」

「そうでもない、と思う。俺が知っている限りでは一人だけだ」

「意外、ですね。たった一人だけだなんて」

「そうか? もっとも好かれるのはその一人だけで十分だが」

「ほほお。聞き捨てなりませんね。その一人というのは、もしや剣宮様も好きだったのではないですか?」

「ああ。その通りだ」

 臆面もなく辰也は答える。

「う、そうはっきり言われると、少し嫉妬の念を禁じ得ません。ですがそうなると、気になりますね。どうして剣宮様は村を出たんですか? その女の方は一緒ではないんですか?」

「いや……」辰也は意味深に笑み、ハナの柄を優しく叩く。「今でも一緒だ」

「あ……すみません」

 何かを察したらしく、彼女はばつの悪い顔をした。

「なぜ謝る?」

「いえ、聞くべきことではなかったと思いまして」

「気にするな。とうの昔に吹っ切れている。それに……」

「それに?」

「ああ、いや、なんでもない」

 と、辰也はかぶりを振った。思わず、一緒なのは事実だからだ、とでも言うところであったのだ。

 それから二人は無言で歩いていると、彼女は「あ」と声を上げた。

「この先には、確か誰もいない小さな社があるんです」

「ほう?」

「今晩はそこで泊まって、この先にある険しい峠に挑むのが良いかと思います」

「なるほど」と辰也は思案する素振りを見せる。「そうしようか」

「はい」


 彩が言っていた通り、古びた社があった。

 長い間手入れがされていないらしく、雑草が所構わず生えており、社は苔むしている。

 境内に足を踏む入れると、神聖な気を感じないことに辰也は驚く。

 神様はもうここにいないのだと、桃源島にいた頃から幾度となく聞かされてきたことであったが、改めて突き付けられるとやはり衝撃を受ける。

 そんな辰也のことを意に介さず、彩は軽い足取りで社の戸を開いて進入する。まるで勝手知ったる友達の家に上がり込む様な、遠慮のない慣れた動作だ。

 対して辰也は、ゆっくりと合掌した。もういない神様であれど、敬意を払わずにはいられない。それから失礼しますと小声で断ってから、辰也は続いて中に入った。

 社の中は何も見えないほどの暗闇に支配されている。

 だが彩は迷うことなく進んで、前に泊まっていた時にあらかじめ備えておいたろうそくに火を灯した。ぼ、とほのかな光で照らされる。

 辰也は目を見張った。素晴らしい御神体に目を奪われたわけではない。むしろその逆。中には何もなかったのだ。どうやら何者かがすでこの中にあったあらゆる物を盗み出したようである。これではどのような神が祀らわれていたのか、誰にも分からない。

「……一体、どのような神様を祀っていたのだろうな」

 と、辰也はぽつりと漏らした。

 彩は不思議そうな顔で首を傾げる。

「さあ? ですがきっとろくな神様ではありませんよ。でなければジャジャ様が他の神様たちを駆逐するわけがありませんから」

「……そう、であろうな」

「そうですよ」

「……腹が減ったな。俺はそこの川で魚でも獲って来る。山辺はここで待っていてくれ」

「それなら私もご一緒させてください」

「いや、良い。ここで待っていてくれ」

「……分かりました」

 残念そうに呟く彩を尻目に、辰也は社から出た。

 それから川に向かうと、

「また可愛い女の子を引っ掛けて。私の辰也ったらとんだ女たらしね」

 早速ハナが話しかけてきた。

「いや、そもそもハナが守ってあげてと言ったのではないか?」

「でもどうせ、こっそり護衛するでしょう?」

「ぬ」

 図星だった。

「はあ。まあ、分からなくはないけど。大方、またあの子が祝福を受けるかもとか、考えていたんでしょう。あんな子に祝福したって、辰也を倒せるわけないってことぐらい、ジャジャももう十二分に理解しているわよ」

 辰也は川岸に辿り着いた。背後の道を照らすガス灯だけが唯一の光源だ。かろうじて見えるが、ほとんどが暗闇に没している。

 辰也はハナを引き抜いた。ぼんやりと桜色に光っている。刃先を水面に近づけて、魚を探す。

「ねえ。いつも思うんだけど、刀を灯りに使うのって、辰也だけじゃない?」

 何やら釈然としない様子でハナは言う。

「仕方ない。他に火を持っていないのだから」

「起こせばいいじゃない?」

「面倒だ」

「全く。私を灯り代わりにして、しかも魚も獲っているだなんて、島のみんなが知ったらどう思うんだろう?」

「問題ない。ここには島の人間は俺たちの他にだれもいないのだから」

 と、辰也は魚の影を見つけると、すかさずハナで突く。引き上げると刃は見事に魚を貫いていた。この暗い中で一撃で仕留める腕前は、流石としか言いようがない。

「もう何匹か獲るぞ」

「……はいはい」

 呆れた返事が、刀から漏れた。




 社に戻ると、彩が境内で焚き火を焚いて待っていた。

 膝を抱えて座っていた彼女は、辰也に気づくとにんまりと笑う。

「お帰りなさい」

 炎の光に当てられているせいか、彼女の顔はほんのりと紅潮していた。

「ただいま」

 そう答えながら、辰也は獲った魚を見せる。栄養は乏しい様で、どれも痩せた魚だ。それでも魚には違いない。

 辰也は焚き火の前にどしりとあぐらを掻いて座った。

「お魚をお貸してください」

「ん? ああ」

 差し出した魚を彩は受け取ると、あらかじめ用意していた串を慣れた手つきで串刺しにして、焚き火の前に挿していく。

「すまんな」

「いえ。私の分も獲ってくださりありがとうございます」

「なに、ついでだ」

 そうして魚が焼き上がるのを待った。

 炎は暖かく、ぱちぱちと爆ぜる音は耳に心地よい。

「なぜ、旅をしている?」

 と、辰也は炎を見つめながら尋ねた。

「なぜ、といいますと?」

「君の口ぶりから、襲われたのは先ほどの一件だけではないのだろう?」

「はい。初めて襲われたのは、私がまだ村に住んでいた頃に夜這いされて。そのあとも、村でも旅の間にも、何度か襲われました」

「助けてくれるものはいなかったのか?」

「いるわけがありませんよ。それに、私だけが襲われているわけじゃないですし。よほど見てくれが悪い子以外は、みんな襲われていると思います。私が知っているだけでも、両手で数えきれないぐらいですから」

「抵抗しなかったのか?」

「まさか」と彩は乾いた声を発した。「そんなことしたら、私はこうして剣宮様とお話できていませんよ」

「それほど危険なのに、君は旅をしている。何か、事情があるんじゃないのか?」

「事情、ですか……。いえ、大した事情はないですね。ただ」

「ただ?」

「村で襲ってきた相手は、義父でした。その後も何度も強引に相手をさせられていた所、母に見つかりました」

「母は助けてくれなかったのか?」

「助けるわけがありませんよ。家族であってもそれが普通です。それでも見て見ぬ振りをしてくれたら良かったのですが、母は私に嫉妬してしまいましてね」

 彩は口端を歪めて自嘲する。

 辰也はただ聞いていた。

「私は母に殺されそうになりました」

「まさか」

「……別に、普通の話ですよ。本当に、どこにでもあるような、普通の話。……それでですね、私はもう村にいられなくなったので、旅をすることにしたんです」

 暗い顔を辰也はしていた。それを見た彩は、笑顔を浮かべる。

「本当に、辰也様はお優しいんですね。あなたみたいな方は、初めてです」

「君は、この世界を嫌だと思ったことはないのか?」

「そういえば、嫌になったことはないですね。どうしてだろう。やっぱり自由だからじゃないですか?」

「自由?」

「だって、そうじゃありませんか? この世界は、何をしたっていいんですよ。その結果、弱い人は強い人の食い物にされたりしますが、それが自由なんですから。だから誰も文句を言わないんです」

「そうか……」

 辰也はなんと言えば良いのか分からず、炎を眺めていた。

「ふふっ」

「どうした?」

「いえ、本当に変わった方だなあ、と思いまして」

 暗黒をあやどるみたいに、彼女は笑った。

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