7 蛇活組車田正治 前編

 川井沙紀の墓を立てたその翌日のことである。


 誰も立ち入らないような奥深く険しい山の渓谷に名も無き村があった。村の周囲は絶壁で囲まれている。わずかなガス灯が細々と照らしているおかげで暗闇の中でも辛うじて分かるが、そうでなければ、村がそこにあると分かる者がいるとは思えない。

 と言うのも、全ての家は黒木造であるからだ。僅かな光すら無くなれば、完全な闇に溶け込んでいよう。おまけに木々は枯れ果て、迷い人ですら近づくのを拒否しそうな陰鬱で殺伐とした雰囲気が立ち込めている。

 その村の最も大きな屋敷も例外ではない。枯山水と呼ばれる庭の形式があるが、これは石や砂のみを用いて風景を表現するものであるが、そもそも手入れをしているとは思えぬ荒れた風情の庭で、人が住んでいるとは一見しただけでは分かるまい。

 そんな屋敷であるが、その中の一室において、机に向かい筆と墨で書き物をしている男がいる。粗末な机の上にある一本の蝋燭だけが部屋の中を照らしていた。

 ほのかな火の光に当てたれた彼の頭髪は白く、目も白い。何もかもが黒で染まった世界において、異質に映る存在であった。

 男がふと目線を上げると、部屋の中央に黒蛇がいつの間にか出現している。だが男はそれに動じる気配はない。まるでそれが当たり前であるかの様な振る舞いだ。

「桃源島の刺客が現れた。名は剣宮辰也。一人のみ」

 と、黒蛇が不気味な声を発した。奇妙なことに、男の脳裏に辰也の姿が克明に映し出される。

「奴を殺し、刀を粉砕し、封印せよ。かの刀は神気を纏う危険な代物。我に仇なすものは何者であれ決して許すな」

 男の返事を待たずに、黒蛇は一瞬にしてその姿形を消失させた。それに気にすることなく筆を置いた男は、扉に向かって声を上げる。

「急ぎ村の者を集めよ」

 すると外にいた何者かが、さっとその場を離れた。それからようやく男は立ち上がった。


 白髪の男が外の広場に着いた頃には、すでに村中の者が集まっている。彼らはただ一つの雑談もせずに男の到来を待っていた。

 男は皆の前に立って見回す。男も女も、老人も若者も、殺気で目をぎらつかせ、今か今かと男の言葉を待っている。

「皆の者もお告げを聞いて分かっているだろう。喜べ、久方振りの仕事だ。このままでは腕を錆びつかせ、勘を鈍らせることを危惧していた者もおろう。だがそれも今日までだ」

 村人たちの反応はそれぞれだ。好戦的な笑みを浮かべる者、舌舐めずりを行う者、表情を変えず黙って聞く者。いずれにしろここにいる皆は、仕事を心待ちにしている。

「俺からも改めて言うが、名を剣宮辰也。例の桃源島の刺客だ。神気を纏う刀を振るう我らが黒蛇ジャジャ様を仇なす者。昔、同じ桃源島の一派が送り込まれたことを覚えている者も多いはずだ。奴らは手強かった。今回は一人だけだが、だからこそ相当の手練であることは間違いない」

 男は言葉を区切った。今にも飛び出さんとばかりの彼らは、寸前の所で堪えている。もしも我先にと飛び出せば、その首は一瞬で飛ぶことを理解しているのだ。

「協力して倒せ、などと世迷言を言うつもりはない。元より我ら蛇剣衆は他人と足並みを揃えるような人間ではないのだからな。俺が命令するのはただ一つ。お告げの通り、男を殺し、刀を粉砕し、封印せよ。手段は問わぬ。お前たちはお前たちの思う通りに剣宮辰也を殺せ。以上、散れ」

 そして、村人たちはあっと言う間にその場からいなくなったのである。

 後に残されたのは、白髪の男のみ。




「辰也!」

 桜刀ハナの声が耳に入った。

 橋の下で座り込み眠っていた剣宮辰也は、はっと目が覚める。しわくちゃな顔の老婆が、辰也の懐に右手を伸ばしている所だった。

「待て」

 と左手で老婆の右手首を捕まえると、老婆は奇声を上げながらもう片方の手を振りかぶってきた。その手には包丁が握られており、切っ先は辰也に向かっている。

 辰也は空いている手の指先で、包丁の刃を摘んだ。ただそれだけで、老婆の力では包丁がびくりとも動かなくなる。老婆は驚いて目を見開く。ぐ、ぐ、と力を込めるがそれでも動かない。

「……失せろ」

 辰也は凄んで見せた。小さく悲鳴を上げた老婆は、血相を変えて包丁から手を離し、一目散に逃げていった。

「……ほんと、凄いよね。島とは大違い。道を歩けば困っている人に出会す辰也の特異体質も、ここでは形なし。いや、むしろ困っているから盗みを働こうとするのかな。どう思う、辰也?」

 と、ハナは尋ねた。

「俺に聞くな」

 うんざりした様子で辰也は言う。それから刀を抜いて素振りを始めた。外に出てからも欠かしたことのない辰也の日課だ。これまで数えきれぬほど振ってきたが、今では意識しなくとも型をなぞることができる。

 いつもの回数をこなすと、軽く息切れしており、肌も汗ばんでいる。辰也は刀を鞘に仕舞った。空を見上げると昨日と変わらずに黒い蛇が空を隠している。

「行こうよ」

 ハナが促すと、「ああ」と辰也は頷いて歩き出した。

 小さな町だが、それなりに栄えているのか建物は多い。どれもこれも薄汚く、空気も濁り、嫌な雰囲気が付き纏っているけれど、今まで島から出たことがない辰也とハナにとってはどれも新鮮に映る。ジャジャの支配の元でなぜここまでの街を作ることができたのかは疑問であるが。

 通りを進む人は少ない。いてもやはり足早に歩き去っていく。誰もが誰かを警戒している。隣人を疑っている。それは桃源島とは明らかに違う点だった。

 その証拠だと言わんばかりに、建物の影から五人ほどの男が出てきて辰也を取り囲んだ。

「金を置いていけ。命が惜しければな」

 辰也の真正面に立つ男は、へらへらと笑いながら言った。

 辰也は溜息を吐く。

「金はやらん。命もやらん」

 一切の怯えを見せることなく飄々と言い切ると、男たちは途端に不機嫌になっている。

「てめえ! 舐めてんのか!」

「ああ、舐めている」

 辰也の明らかな挑発に、男たちはあっさりと乗った。彼らは拳を振り上げ、一斉に襲いかかる。しかし辰也は、彼らの攻撃をものともせずに全員をあっさりと殴り倒した。男たちは道に倒れ伏せ、しばらく動くこともできないようだった。

 まるで道端の石ころのように、辰也は少しも意に返さずにそのまま真っ直ぐ歩く。

 それから誰もいないのを見て取ったのか、ハナの声が聞こえてきた。

「馬鹿だねえ、あの人たち。辰也の実力も見て分からないのかなあ」

「そう言うな。これもジャジャの影響だろうよ」

「まあ、そうなんだけどね。だけどこう襲われちゃったら、ジャジャの所に辿り着くのが遅くなっちゃうじゃない」

「確かに」

 一人の若い女性が辰也の体とぶつかった。何も言わずに立ち去ろうとする女の手首を辰也は捕まえる。

「待て」

 強い声に女ははっとした。その手には金子が握られている。辰也が桃源島の村長から譲り受けた物だ。女が擦ったのである。

「置いていけ」

 女は舌打ちを一つして、金子を道に落とす。それから辰也が手を離すとすぐに逃げて行った。

「……ほんと、いつ着くんだろう」

 呆れた声を発するハナに、辰也は何も言えなかった。金子を拾い無言で道を進む。

 しかしその数十分後に辰也は足を止めて周囲を窺う。高い建物の群れの隙間に今はいる。

 人通りはいつの間にか途絶え、周りから音が消えていた。暗い緑色の蛇が這っているのが見える。金色に光る目が、一瞬こちらを見たようだった。

「……蛇気は感じないよ」

 辰也が蛇に注目しているのを感じたハナは、緊張感を帯びた声で教えた。

 すると今度は馬の足音が背後から聞こえてきた。複数の馬だ。それから男たちの掛け声。

 後ろを振り返ると、走り込んできた馬たちが辰也を囲んで停止した。全部で十頭。いずれも帯刀した男たちが乗っており、その中に見知っている男の姿を見つけた。

「車田正治」

 昨日、川井沙紀の借金を取り立てようとしていた蛇活組の男である。正治は嬉しそうにうっすらと笑みを浮かべている。

「また会えて嬉しいぞ、剣宮辰也」

「俺は会いたくなかったがな」

「そう言うな。……さて、もう察しているだろうが、お前を斬らなければならなくなった」

「だろうな」

「お前のことは本当に気に入っていたのだがな、残念だよ」

「ならば今すぐ見逃すのはどうだ?」

「そうしたい気持ちはあるにはある。だがな、困ったことに俺はお前と斬り合ってみたくもあるのだよ」

「それならお前一人でくればいいだろう」

「俺もさすがに歳でな。まともにやりあってもとても敵う気がせん。こいつらはそのための前座よ。もっとも、こいつら程度に破れるようであれば、それまでの男だったということだがな」

「……お前は蛇剣衆なのか?」

「元蛇剣衆だ。今はジャジャ様の命により、蛇活組の組長をやっている。もういいだろう? 始めようか」

「ああ」

 改めて見回すと、九人の男たちはいつの間にか馬から降り、鞘から刀を抜いている。

 怯えは見えず、侮っているようでもない。いずれも冷静に相手の力量を見定めようと、距離を取って辰也を観察している。その立ち振る舞いに加えて、辰也が話している間でさえ隙を見せない様子から、彼らも手練であることが察せられた。

 辰也は前後左右にいる彼らを警戒しつつ桜刀ハナを引き抜く。

 九人の男たちは摺り足でじわりと近寄ってきた。一般の者であれば気づかぬほどの亀の如き歩み。

 無論辰也は気付いている。だがこちらから動くことはできない。一対一ならば難なく倒せよう。だが九人が相手となれば別だ。一人にかかれば残りの八人による一斉攻撃を受ける。彼ら相手では辰也であっても全てを捌くのは難しい。昨日相手した蛇活組の連中とはまるで格が違う。

 やがて九人が間合いに入った。全員が呼吸を合わせているのが辰也には分かる。

 先んじて動いたのは辰也。九人同時の攻撃は防ぎきれない。ならば自ら動いてその均衡を壊す。

 辰也は正面にいる相手の面を狙って刀を振り下ろした。相手は刀でもって防ぐ。同時、即座に辰也に向かって斬りかかる八人。

 防がれるのは計算の上。無論ここで一人倒せるなら儲け物だったがやはり簡単には行かない。再度振りかぶって二撃目の構えを見せて殺気を放つ。相手は反撃する様子を見せずに再び防御の姿勢に入った。当然だろう。ここで辰也を食い止めれば、残り八人の誰かが斬ってくれるのだから。

 しかし辰也の狙いは別にあった。刀を振ると同時に相手の横を潜り抜ける。

「ぬ!」

 驚きの声を背中で聴きながら包囲網を脱出する。距離を取り、振り返り、九人全員を一度に見渡した。

 辰也は内心でほうと安堵しながらも、表情には一切出さない。

 桜花一刀流の道場で多対一の修練は行った。だがそれも辰也と同じ門下生相手だ。実戦と修練は違う。何よりも実戦では一歩間違えば死に至る緊張感がある。 

 九人の男たちは再びじりじりと近寄りながら出方をうかがっている。彼らの間に言葉はない。けれど全員の意思は同じだった。辰也を殺す。そう集中するだけで互いの動きが一致している。

 辰也は正治を見た。馬上から見下ろす初老の男は、楽しそうに眺めている。おそらく男の腕前は、この九人を相手取っても簡単に倒し切れるのだろう。もちろん出任せかもしれないが、嘘を言うような男にも見えない。

 この九人を倒せねば正治に辿り着けぬし、さらにその遥か先にいるであろう黒蛇ジャジャを斬ることなど到底不可能。ジャジャを斬るまでは負けることは許されない。

 正面にいる男が真っ先に動いた。続いてその左右の男、さらにその後ろにいる残り五人も時間差をつけて動き出す。

 正面の男は上段に構え、面を狙っている。だがここで横にかわせば、左右の男が斬りかかってくる。避けるならば後ろか。しかし長丁場になればなるほど辰也が不利になっていくのは明白だ。例えそれで九人に勝てたとしても、疲労困憊の状態で正治に勝てるはずがない。ならば選択肢は一つのみ。

「すまない」

 と辰也は小さく謝罪した。するとハナは、辰也にしか聞こえないような声量で、

「いいよ、気にしないで」

 と優しい、されど悲しげな響きを持った声で返す。

 そして辰也も前に出た。構えは中段。

 襲いかかってきた男は刀を振り下ろす。辰也は恐れずに踏み込んでさらに前へ。同時に突きを繰り出す。辰也の脳天に刃が届く前に、ハナの切っ先が相手の喉を貫く。間髪入れずに引き抜くと、赤い血が吹き出して辰也に降りかかった。

 呻き声を上げて膝から崩れ落ちる仲間を意に介さずに、後ろにいた二人が左右から飛び出した。同時に斬りかかる。辰也はしかし、慌てる様子もなく平然と後ろへ下がった。二本の刃が顔面よりほんの紙一重の差で通過するも顔色一つ変えない。そればかりかすぐさま斬り返して右の男を袈裟懸けに裂き、返す刃で左の男の手首を切断した。

「ぐあっ!」

 手首を落とされ、血相を変えて叫び声を上げる男を尻目に、右の男が脂汗を掻きながら決死の形相で刀を横に振るう。だが辰也は涼しげな顔のままハナで受け流し、そのまま相手の首筋を斬った。

 そこに辰也の背後から男がいつの間にか忍び寄っている。

「後ろ!」

 ハナの忠告。男は突きを放つ。とっさに身を翻す辰也。着流しがわずかに切れたが、辰也の体に傷は付いていない。しかし危機はまだ終わっていない。突きを放った男の背後から別の男が飛び出したのだ。一瞬煌めいた刃は、下から上へ斬り上がる。顔を逸らすが頰が斬れた。傷口は浅い。だが熱を帯びて痛む。男はさらに追撃を放とうと踏み込んだところで、辰也は男の鳩尾に前蹴りを直撃させた。

「ぐっ」

 男は腹を抑えて怯んだ。だが辰也は追い打ちをしなかった。その背後にいるもう一人が、辰也に合わせて剣撃を放とうとしていたからだ。他の四人もすぐ近くまで迫っている。辰也は数歩後ろへ飛んで仕切り直す。

 残りは六人。まだそんなにも残っている。

 その六人といえば、横に弧を描くように並んで陣形を整えたが、辰也との距離を縮めようとしなかった。辰也の力量は、この六人を遥かに凌駕しているのが分かったからである。まだ優勢を保ってはいる。しかしそれはこの人数差のおかげだ。一対一であればまず勝負にならない。この人数ならば辰也を倒せるやもしれぬが、一人二人は確実に死ぬだろう。その事実が彼らに二の足を踏ませる。

「……来ないのか?」

 と、辰也は聞いた。あれほど激しく動いたのに、彼の呼吸は何も乱れていない。

 六人は動かない。辰也の隙を探している。だがどこにも見当たらなかった。

「来ないのなら……」辰也は六人を見回す。「こちらから行こう」

 瞬間、辰也は地面を強く蹴った。標的は左端の男。瞬く間に迫る辰也に、男は反射的に刀を振るう。だが簡単な動作で弾かれ、そのまま袈裟懸けに斬られる。

 右にいた男が襲いかかるも、辰也は迎え撃つことなく距離を取った。複数を相手取るのが分が悪いのなら、なるべく一対一の状況になるようにすれば良い。辰也は完全にこの場を支配していた。


「ほう」

 と、正治は思わず唸った。危ない場面は幾度もあったが、今やそれを乗り越えて危なげなく辰也は戦っている。まだ数人残っているが、もはや勝負は決したも同然。

 正治は馬から降り立った。

 緩やかな動きで刀を引き抜く。

 正治は久方ぶりに血が湧き立つのを感じていた。

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