5 桜刀ハナ 三

 今日も太陽がさんさんと光り輝いている。見ているだけで気持ちの良い青空は、島の外が闇に満ちた世界であることを感じさせない。

 辰也と花奈は島の中心部に来ていた。多くの人々が立ち並ぶ露店を巡っていて、とても活況な様子だ。それに心なしか、今日はいつもよりもお店の数が多い様だった。

 二人は例の如く行く先々で困っている人たちと出会し、その全てを助けたりしながら、露店を一つ一つ見て回っている。

「今日は一日暇だねー、辰也。まさか藤堂先生に今日は来るなって言われるとは思わなかったよ」

「そうだな。自主訓練は毎日かかさずしているが、やはり手合わせを行えないのは困る」

「私も今日は神社の午後番のはずだったんだけど、来るなって言われちゃった」

「いつもの日課ができないのは困るよな」

「うん、困るね」

 などと話しながら歩いていくと、かんざしを並べた露店が目に止まった。どれも精巧な意匠の数々で、確かな技量を感じさせる。感心しながら花奈はなんとなしに見ていると、

「何か買うか?」

 と辰也が聞いて来た。それを首を振って否定する。

「ううん、大丈夫。素敵なかんざしなら私はもう持っているから。それに、私にはもう必要ないでしょう?」

「……そうだな」

 辰也は憂いた顔をした。そんな辰也の心情を察して、花奈はあくまで陽気に振る舞う。自身に課せられた使命など、気にすることはないんだと言わんばかりに。

「そんな顔しないでよ。今日は久しぶりに丸一日お休みを貰えたんだから、もっと楽しもう!」

「ああ」

 花奈の明るさに引っ張られるように、辰也は自然と笑みをこぼした。

 そうして二人はふと屋台の前に止まった。店主は串に刺さった鶏肉を景気の良い音を立てて焼いている。自慢のタレが放つ香ばしい匂いは、なんとも食欲を誘った。

「いらっしゃい!」

「二本もらおうか」

「まいど!」

 店主は威勢よく言うと、焼き上げたばかりの串焼きを白い紙に包んで二人に手渡した。

「ありがとう」

 辰也は礼を言うと共に、懐から財布を取り出す。

「いくらだ?」

「そうだなあ」と店主は一瞬思案して見せた。「お代はいらねえや。持ってけ」

「……いいのか?」

「おう! 剣宮家や神楽崎家にはお世話になっているからな。そのお礼だよ」

「ありがとう。もらっておく」

「いただきます、おじさん」

「ああ、たんと食べてくれ」

 いただいた串焼きを頬張りながらさらに屋台を練り歩く。もはや見慣れた光景だ。それでもこれで見納めかと思うと感慨深い。二人は弾むような会話を楽しみながら目に焼き付けていく。

 不意に二人を呼ぶ声が聞こえた。立ち止まって見回すと、天ぷらを揚げていた四十前の女性が近寄って来た。紙袋を持っている。

「これを差し上げます。どうぞ食べてください」

 と言って彼女は紙袋を手渡して来た。花奈が貰い受けて中身を見ると、串に刺さった数本の天ぷらが入っている。

「そんな、悪いですよ」

 そう花奈は遠慮をしたが、

「いいから。気にしないで」

 女性は有無を言わさぬ笑顔を浮かべて、返される前にその場から離れる。慌てて二人は礼を述べたけれど、話はそれで終わらなかった。周囲の屋台や露店からわらわらと人が集まって来たのである。

 彼らはそれぞれの食べ物や商品を携えて、辰也達に半ば強引に押し付けて来た。そうして、てんやわんやの末に、辰也と花奈の両手には沢山の品々がてんこもりになっている。

 思わず顔を見合わせた二人は、乾いた笑いを発して困った顔を浮かべている。そんな二人を遠巻きに見ていた老婆が近づいて来た。

「みんなあんた方に感謝しとるんですよ」

 それは先日、野菜で一杯になっていた荷車を押していた老婆であった。

「あなたはこの前の…」

「ここいらの者であんた方の世話にならなかった者はおらんです。その上さらに島を救おうとしていらっしゃる。それがどう言うことなのか分からぬ者はおりはせん。みんなここの味をあんた方に覚えていて欲しいと、そう思っておるんです」

「……私たちは、この島のことを絶対に忘れたりはしないよ、お婆ちゃん」

 花奈は優しい笑みを浮かべる。

「ほんにありがとうなあ。ほな儂からはこれをあげますさかい」

 そう言って老婆は、辰也と花奈が持つてんこもりの品々の一番上に、りんごをそれぞれ置いて歩き出した。

「わっ」

 唐突に加わった重さに、花奈は思わず荷物を落としそうになった。かろうじて堪えつつも、平然と持ち続ける辰也に恨めしそうな視線を送るのであった。


 続いて向かった先は、常世桜を一望できる丘だ。二人は多量の荷物を抱えてここまで来た。辰也は涼しい顔だが、花奈は息も絶え絶えで、やっとの思いで登って来たのある。

 今日もなぜか誰もいないから、一番見晴らしの良い場所へ迷わず座る。

「や、やっと着いたぁ」

 花奈は四肢を投げ出して芝生の上に寝転んだ。汗ばんだ顔は疲労の色が濃い。

「無理してここまで来なくとも」

 と、辰也は見るに見かねて苦言を呈す。

「だって……これで最後だと思うと、やっぱり一番いい場所で食べたいじゃない」

「そうだな」

 最後だと言われればもはや何も言えない。辰也は常世桜を見た。今日もこの星で一番の桜は美しい。

 花奈はもらった天ぷら串を取り出して頬張り始める。辰也も手に取って咀嚼する。

「美味しいね」

「ああ、美味い」

 貰ったものを食べていく。名残惜しむように一口一口噛み締めながら。

 けれどその量は、辰也はともかく花奈には多い。食べる速度が目に見えて落ちていく。苦しそうにも見える。それでも花奈は食べるのを止めようとはしない。

「もうその辺りで止めたほうが」

 と辰也は止めるけれど、花奈は大きく首を横に振る。

「嫌だよ。全部食べるの。だって私はもう食べることはできないから。みんなそのことを知っているから、私や辰也がいつまでも島の味を覚えていて欲しいから、だからみんなくれたんだよ。だから私は全部平らげなきゃいけないの。みんなみんな、忘れないように」

「……怖くはないのか?」

 花奈は食べる手を止めた。視線が下に落ちる。

「怖いよ」

 雨粒が落ちていくような声だった。花奈の小柄な体は小刻みに震えている。

「だったら、今からでも止めにしないか」

「それは嫌」

「……花奈」

 花奈はゆっくりと顔を上げて辰也の目を見つめる。彼女の瞳は涙で濡れて、儚い光で満ちていた。

「あのね……十歳になる前にはもう、辰也は黒蛇を斬る使命を授かったよね。その時の私にはまだ使命を帯びていなかったから、辛い修行を続ける辰也を見守ることしかできなかった。私はね、それがとても歯痒かった」

 とつとつと花奈は語る。

「辰也が修行で怪我をするたびに、私は気が気でなかった。何もできない自分が嫌だった。私は辰也の力になりたかった。辰也とずっと一緒にいたいって思ってた。離れ離れになんかなりたくなかったんだ。だから、私も使命を帯びることができて、すごく怖い使命だけど、その反面とても嬉しいの。これで辰也とずっと一緒にいることができる。やっと辰也の力になれるって、そう思った」

 花奈は目を伏せた。

「でも、やっぱり怖いや。ほら手が震えてる……」

「花奈が望むなら、俺は逃げることも」

「その先は言ったらだめだよ。辰也」

「しかし……」

「私だって逃げることは何度も考えたよ。例えば辰也と二人きりで誰も知らない島に行くの。そこで二人だけで生活して……だけど私はやっぱりこの島のことが好きで、島のみんなが好きで。どんな想像をしても後悔だけがずっと引っかかり続けるの。きっと逃げたらそんな日々が続く。幸せからはきっと遠いの」

 花奈はゆっくりと身体を寄せて来た。そうして手を伸ばし、辰也の体にしがみつく。小さくて柔らかい体は冷たく震えている。

「お願い辰也。私を強く抱きしめて。強く強く抱きしめて。そうしてくれたら、私はきっと大丈夫だから」

 辰也は花奈の背中に手を回し、言われた通り強く抱きしめる。彼女の震えが止まる様に。彼女の体が暖かくなるように。そう願いを込めて。

「ありがとう。大好きだよ、辰也」

「俺もだ、花奈」

 二人はしばらくの間、お互いを離そうとはしなかった。これが二人にとって最後の抱擁だった。




 綺麗に晴れた夜の空を、縁台に腰掛けた花奈がしみじみと眺めている。満開に咲いた月も、可憐に咲く星々も、あの黒蛇の空の下では見られない。だからこれが花奈にとって最後の夜空だ。

 最後と言えば、今日の晩御飯もまた花奈の最後にふさわしかった。見渡す限り、花奈の大好物が並んでいた。屋台の食べ物を限界いっぱいにまで食べた後はやはり苦しかったけれど、それでも母と祖母が腕を奮ってくれた料理の数々は、どんなに高級な食事であっても霞むぐらいに美味しかった。美味しすぎて胸が一杯になるほどに。

 いつもならこんなに食べたら太ってしまうと、残すような量だった。だけどこれが文字通り最後となるのなら、太ることなんて気にする必要がないのだ。花奈はもちろん全て食べきった。

 それでもやはり苦しいらしく、花奈は自分のお腹を撫でてみた。食べすぎたおかげでぽっこりとお腹が膨らんでいる。辰也には見せられないなあ、そう思っていると、背後から静かに近寄ってくる誰かの気配があった。

「……お姉ちゃん」

 掛けられた声は落ち込んでいる。

「どうしたの、花絵?」

 そう花奈が尋ねたが、花絵は沈黙している。花奈はやれやれとばかりに、自分の隣の床板をぽんぽんと軽く叩いた。

「こっちに座りなさい」

 花絵はうんとも言わずに、黙って花奈の隣に座った。

 少し待っても何も言い出さない花絵に代わり、花奈は取り留めのないことを喋り始める。今日もいつも通り辰也と一緒にいると困っている人と出会うから助けてあげたことや、露天の人々から沢山食べ物を頂いたこと。だけど花絵は上の空で、せいぜい簡単な相槌を打つぐらいだ。

「……それでどうしたの?」

 なるべく優しい声音を意識して花奈は聞いた。花絵は精一杯の勇気を出した様子で顔を上げる。目が潤んでいて、今にも泣き出しそうな表情。そうして彼女は花奈に抱きついた。

「……行かないでっ、お姉ちゃんっ」

 涙混じりで訴える。悲しみが溢れた出した顔はあまりにつらそうだった。

 花奈は困り顔で妹の頭を撫でてやると、鼻が詰まったような嗚咽が聞こえてくる。

「ごめんね……」花奈は悲痛な面持ちで言う。「そういうわけにはいかないの。これはみんなを守るためなんだから。もちろん、花絵を守るためでもあるから」

「でも……そんなの私望んでない。なんでお姉ちゃんじゃなきゃいけないの? どうして?」

「これは私が自分で決めたことだから。それに私は嬉しいんだ。あの人の力になれることが。ね。お願いだから、分かって」

「う、うう……」

 納得していない様子の花絵を見て、花奈はため息を吐いた。それからややあって、何かを思いついたような仕草を見せる。

「そうだ」

 と、花奈は自分の頭に手を伸ばし、かんざしを引き抜いて髪を解く。長く美しい黒髪がはらりと流れ落ちる様を花絵はきょとんと眺めている。花奈は微笑みを浮かべて、涙を流している花絵の手にかんざしを握らせた。

「これは……?」

 花絵は驚いた様子で、手の中に納まっている桜を模したかんざしを見つめている。

「花絵にあげる。前から欲しかったんでしょう?」

「で、でも、これは辰也お兄ちゃんに買ってもらった大切な物だからって」

「うん。だけど私にはもう必要のないものだから」

 悲壮な決意に満ちた発言に、花絵は言葉に詰まった。

「それにね、花絵にとても大切なことを頼みたいの」

「大切なこと……?」

「うん。使命を終えて帰って来た辰也はきっと、たくさんたくさん傷ついてると思うの。体も、心もね。だから花絵にはね、帰って来た辰也を支えてあげて欲しいの」

 それはお姉ちゃんの役目じゃない、そう思わず口に出そうになった花絵は、どうにか堪えることができた。大好きなお姉ちゃんは、それができないのだと分かっていたから。

「辰也のこと、好きなんでしょう?」

「……うん、好きだよ、辰也お兄ちゃんのこと」

「だから、この役目は花絵にしか任せられないの。お願いできる?」

「うん、私、辰也お兄ちゃんをお姉ちゃんの代わりに支えてあげる」

「よかった。約束だよ」

 花奈はそう言って小指を差し出した。

「うん、約束」

 と、花絵は自分の小指を姉の小指に絡ませる。

 それから姉妹は目と目を合わせて微笑みあった。

「ねえ、お姉ちゃん」

「どうしたの?」

「今日は一緒に寝てもいい?」

「うん、いいよ」




 小鳥の鳴き声と共に、太陽の光が部屋の中に射し込んだ。暖かな温もりを感じながら、真っ白な布団に包まれていた花奈は目覚める。どこか心地よい圧迫感と体温を背中に感じ、何があったのか思い出して緩く笑む。

 花絵が後ろから抱きついていた。彼女の寝息が首筋をくすぐる。穏やかな調子で眠っているのが顔を見なくとも分かり何とも可笑しい。

 花奈は起こさないように彼女から抜け出して、布団の中からのっそりと出た。ついで妹の寝顔を見る。よだれを垂らして眠る彼女は、とても気持ちよさそうだった。けれども、まぶたから零れる一筋の涙を見て、後ろ髪を引かれた。

 音を立てないように着替えを始める。寝間着を脱ぎ、綺麗に丁寧に畳む。それから昨晩あらかじめ用意しておいた巫女装束の小袖に腕を通す。一つ一つの動作にいつも以上の心を込めているのは、この何気ない朝の習慣も最後となるからだった。そう思えばこそ、普段なら気にも留めない一瞬一瞬がまる宝物のようにかけがいのないものに感じる。

 着替えを終えて、花絵の寝顔を名残惜しむようにもう一度見て、それからようやく部屋を出た。

 玄関に向かった先、待っていたのは父と母と祖父と祖母。

「おはようございます」

 いつものように花奈が挨拶をすると、家族もまたいつものように返した。

「いよいよ今日なのね」

 悲しげな眼差しを向けて母は言う。

「はい」

 と、花奈は神妙に頷いた。そうしておもむろに膝を折って四つ指をつき、深々と頭を下げて座礼する。

「今まで育ててくださり、本当にありがとうございました。花奈はこの家に生まれることができ、とても幸せでございました」

 四人は困惑した。

「お礼なんて……」母は戸惑いを隠そうとせずに言う。「むしろこんな時代に生きることになって、私たちは歯痒いわ……。それに使命のことだって」

「そんなことはありません、お母様。私は嬉しいんです。あの人の刀になれることが」

「……私はお前のことを誇りに思う」父は感情を押し殺したような声で言う。「このようなことが二度と起こらぬよう、尽力を尽くすことを誓おう」

「ありがとうございます、お父様。ですが杞憂に終わるかと」

「なぜだ?」

「辰也は使命を成し遂げ、星に太陽を取り戻すからです」

「……そうだな。あの者ならば無事にやり遂げるであろう」

「はい、お父様」

「本当に不憫な子よ。もっと私たちに力があれば……」

 沈痛な面持ちで祖母は言う。

「気になさらないで、お祖母様」

「儂からはもう何も言わぬ」

「お祖父様……」

 花奈は立ち上がり、それからもう一度頭を下げて礼をした。

「それでは行ってまいります」

 花奈は草履を履き、玄関から出た。心苦しそうに四人は見送っている。

 そして花奈が庭の半ばまで歩いた時だった。軽い足音が後ろから響いて来た。

「お姉ちゃん!」

 花奈が振り向くと、花絵が泣きながら迫っている。抱きついて来た彼女を、花奈は優しく受け止めた。目に一杯涙を溜め込んだその顔を見るだけで心が痛む。それを誤魔化す様に花奈は頭を撫でた。くすぐったそうにしながら、花絵は姉の顔を見つめている。

「花絵。約束、覚えているよね?」

「うん。任せてお姉ちゃん」

「それじゃあ行ってくるね、花絵」

「うん……」

 花奈は今度こそ、家の敷居から外に出た。背後から聞こえてくる泣き喚く声を背中で受け止めながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る