第2話 契約




麻里と別れた眞緒は、その足で事務所へと向かった。


理由は簡単、アルバイトを辞めるためだ。


もともと生活費の足しになればと思って始めたアルバイトなので、離婚した私にはもう必要ない。


アルバイト収入という建前を崩さないためにVTuberで得た利益は会社の利益にしてもらい、月給として7万円のみ自分に振り込まれるようにしてもらっていた。


VTuberという仕事は収益化するまでが大変らしいので、その間でも固定で給料が入ってくるのが嬉しかったし、事務所の気遣いには感謝している。


しかしそれでもアルバイトは正社員と比べると社会的に立場が弱い。


今までは旦那の扶養に入っていたから健康保険や住民税等は大丈夫だったけど、今の私には何にもない。


専業主婦だった私には貯金すらもないため、なるべく早く仕事を見つける必要があるのだ。


実家に帰ることも考えたが、あんなところに帰るくらいならのたれ死んだほうがマシ。


そんなことを考えながら事務所があるビルに入ると、見覚えのある人物が受付の前で待機していた。


彼女は眞緒を見つけるとトタタっと駆け寄ってきた。


「お疲れ様です!天抱さん!」


「!!声がでかいです!!」


眞緒は彼女の口を抑えると、周囲を見渡す。


都会の人間は忙しいので、幸いなことにこちらを気にする人はいなかった。


「...お久しぶりです、佐倉さん。」


「ええ!敬語!?私たちの仲じゃないですか!気軽に『さくちゃん』って呼んでくださいよ!!」


「めんどくさい私のマネージャーを引き受けてくださってる佐倉さんにそんなこと出来ませんよ...『さくちゃん』呼びは後ろ向きに検討します。」


「そんなぁ...」


彼女の名前は『佐倉 咲良さくら さくら』。私こと天抱まおのマネージャーを務める社会人4年目の女の子だ。


ニコニコしながら彼女は眞緒に話しかける。


「でも確かにお久しぶりです!前に直接会ったのは確かグッズ販売の打ち合わせの時なので...1年ぶり?相変わらず生で見る天抱さんは抱擁力がありますねー!でもどうしたんです?いつもはビデオ通話でお話するのに、今日ははるばる事務所まで?」


「今日は直接話さないとと思いまして...社長の手は空きそうですか?」


エレベーターに乗り込みながら眞緒は彼女の顔を見てそう尋ねると彼女はニコリと微笑む。


「久しぶりに天抱さんと会えるからって、午前中のうちに全ての仕事を片付けてソワソワしてましたよ?」


初々しい中学生みたいでしたよ、とケラケラ笑いながら言う佐倉マネージャー。その言葉を聞いて眞緒は少し安心した。


事務所内に入ると、佐倉マネージャーの先導で眞緒は一直線に社長室に向かう。道中すれ違う社員さんが頭上に疑問符を浮かべているのが見えたが、それは当然だろう。


天抱まおの魂の姿は、社長と佐倉マネージャーしか知らないのだから。


専業主婦に主軸を置いていた以上、連絡は基本的に通話やメールであり直接会うことはない。他所へ移動しなければいけない配信は基本的にやってこなかった眞緒は、同期にすら顔を知られていないのだ。


事務所に顔を出すことも片手で数えるほどなので、眞緒のことを知らなくて当然である。


「社長、天抱さんをお連れしました。」


「入っていいわよー」


社長の声を合図に咲良は勢いよく扉を開けた。


壁一面のガラス窓に背中をむけキーボードで何かをぱちぱちする女性は、眞緒の姿を視界におさめると満点の笑顔を浮かべた。


「天抱さん久しぶり!会いたかったわ!」


「お久しぶりです、お忙しいところお時間をいただいてすみません...」


「いいのよ!ライバーのためだったらいつだって時間を割くわ!!」


そう言って社長は眞緒を抱きしめる。


「少し痩せたんじゃない?顔もなんかやつれてるみたいだし...」


「そんなことないですよ!ほら!こんなに元気!!」


眞緒は笑顔を作り腕を曲げて、筋肉を見せるようなポーズで元気さを表現する。


社長は訝しげに眞緒の顔を見るが、表情に変化がないので視線を外した。


「何かあったことはわかったわ。とりあえずそれは後で聞くとして、先に本題から片付けてしまいましょう。佐倉さん、お茶淹れてくれる?」



※ ※ ※


応接室のようなソファに向かい合って腰をかける。


ふわふわとした茶髪が腰まで伸び、モデル顔負けの容姿を持った社長『橘 綾香たちばな あやか』はお茶を一口飲むとほうっと息を吐いた。


「それで、今日はどうしたの?」


「はい。天抱まおの活動についてなんですけど、範囲を広げようかと...」


「ええぇ!?本当に!?」


事務所内に社長の叫び声が響き渡り、勤務中の社員は何事かと社長室へと視線を向ける。


テーブルに身を乗り出していた社長は即座に口を抑えると、席に座り直した。


「ち、ちなみにどれくらい広げて大丈夫なの?」


「もうなんでも大丈夫です。」


「ええぇ!?本当に!?」


再度事務所内に社長の叫び声が響き渡り、勤務中の社員はビクっとして再度社長室へ顔を向けた。


またもやテーブルに身を乗り出していた社長は即座に口を抑えると、席に座り直す。


「じゃあ、今までは振ってこなかったあなたへの企業案件とか、同期でのオフコラボとか、耐久配信とかやってもらうことになるけど...?」


「はい、大丈夫です。」


「そう、じゃああの話、受けてくれるってことでいいのね?」


社長は眞緒の目を見据えながらそう尋ねる。


あの話とは、天抱まおのチャンネル登録者数が20万人を超えた頃にまで遡る。


ビデオ通話にてマネージャー佐倉さんと配信の打ち合わせをしていた時に、こんな会話が出たのだ。




ーーー


『そういえば、同期の皆さんが天抱さんとオフコラボしたいって言ってましたけど、どうしましょうか?』


『うーん、旦那がいない時間に調整できれば大丈夫なんですけど、皆さん夜型なのでちょっと難しいですね...』


『旦那さんには話していないんですもんね?』


『専業主婦やってますからね、旦那と一緒にいられる時間を減らしたくないんですよ。』


『そうでしたか〜、でも旦那さんは羨ましいですね!こんなに愛されて!生のASMR聴けるなんて!』


『そんなことないですよ、私なんてまだまだです。』


『何言ってんですか、ASMR配信の時に同時接続数が10万人超えるなんてそうそうないですよ!?』


佐倉マネージャーとそう話していると、眞緒の端末にとある人物が映る。


『そうよ天抱さん!あなたには人を惹きつける才能があるんだから、そんなに謙遜してちゃだめよ!』


佐倉マネージャーの背後に社長が現れ、画面の中の佐倉さんは振り返って挨拶する。


『天抱さん、あなた正式にVTuberやってみない?』


『え?』


社長の言葉に眞緒は驚きを隠せない。社長は話を続ける。


『さっき話してたASMRだってあなた以上の人気を出せる人はVTuberの中には存在しないわ。いや、もしかしたら世界にもね。普段VTuberの動画を見ない人があなたの配信、声を聞いてVTuber自体を推し始めるという人もたくさんいる。家庭の事情でアルバイトという立場だけど、私はどうしてもそれがもったいなく感じてしまうのよ。正式にVTuberとして活動してくれるのなら今まで以上のバックアップは惜しまないつもりよ。ただ、やってもらうことは多くなるけどね。』


どうかしら?というおちゃらけつつも真剣な社長の声音に眞緒は頭を悩ませる。


『答えはすぐじゃなくていいわ。でも少しは考えてみてね』


そう言って社長は離れていったのだ。



ーーー




「はい、お願いします。」


眞緒の回答に社長は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう!!決断してくれて嬉しいわ!できれば契約書を更新したいんだけどまだ時間は大丈夫かしら?」


「はい、大丈夫です」


「すぐ準備するわ!待ってて!!」


バタバタと契約の準備を始め、すぐさま署名捺印、正社員になるにあたっての必要事項の説明を聞く。


全てが終わった時、佐倉マネージャーが満面の笑みで話しかける。


「でも天抱さんの帰りが遅くなったら旦那さん寂しがるんじゃないですか?配信でもあんなに惚気てたわけですし!」


眞緒にとって特大の地雷を踏み抜いた。


「......旦那....ぐす...」


「「....え?」」


顔を俯かせ大粒の涙をこぼし始める眞緒に社長と佐倉マネージャーは戸惑いを隠せない。


しかし一度思い出してしまうと、ダムが決壊したように目からミスが溢れ出す。


麻里との会話で枯渇した涙の水源が一瞬で元通りになった。


「うわあああああああああああああああああん!!!!」


「え!?ちょっと天抱さん!?」


声を上げて泣き始める眞緒に二人はあたふたとしており、事務所内は騒然となった。



※ ※ ※



眞緒をなんとか落ち着かせて帰宅させた後、社長室で社長と佐倉マネージャーが話していた。


「まさか離婚してしまったとは思いませんでしたね...」


「天抱さんの不倫を疑って離婚するなんて、他の男と会ってすらいないでしょうに..」


「むしろ旦那さんが不倫してたりして。」


「まさかぁ...まさかね?」


「ははは...」


そして話題は泣いた眞緒へと移る。


「あんなに泣いちゃうなんて思わなかったわ。」


「それほど愛していたんでしょうね。」


「でも...これいっていいかしらね?不謹慎かしら?」


「二人しかいませんし、私も多分同じこと思ってます。」


「じゃあ遠慮なく...」


二人は息を深く吸う。




「「泣き顔、可愛かったわぁ...」ですね...」




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