4-15 謝肉祭と屠殺

 寝室の窓から見える山々にはまだ雪が厚く積もっているものの、山裾の森や平地の空気はやわらかくなった晩冬に、謝肉祭の季節がやってきた。


「はやくはやく、はじまっちゃうよ」


「今、行きますから」


 階下から響くイェレの声に急かされたギジェルミーナは、厚手のドレスを着てゆるやかな弧を描く階段を駆け下りる。

 グラユール王国の謝肉祭では、家畜を屠りご馳走を食べることで冬の終わりを祝う習わしがあるようで、王都の城の中庭でも羊の解体が行われるらしい。


「ほら、こっちだよ」


 階段を降りたエントランスには外套を着たイェレが待っていて、ギジェルミーナを外へと手招きする。


「王と王妃が来てないのに、勝手に始めることはないですけどね」


 イェレの隣には近侍のヘルベンが厚着をして控え、苦笑して主の催促に付け加える。


「だが王が呼べば、王妃の私は急がなきゃいけない」


 ギジェルミーナは手にしていた毛皮のストールを羽織って、ヘルベンに冗談めかして言い返した。


 それから後からついてきた侍女も入れて数人で、エントランスを出て城の中庭へと出る。

 黒い石畳が敷かれた中庭は普段は城で働いている見物人たちで賑わっていて、そうではない貴賓のためには簡易的な幕が張られた風よけ付きの席がいくつか設けてあった。


「国王陛下と王妃様がいらっしゃった」


 主君たちが来たことに気づいた下働きの男が声を上げると、貴賓席の貴族も含めて皆お辞儀をする。

 ギジェルミーナとイェレは堂々とその歓迎に応えて、中庭に入った。


 曇り空の午後の空気は冬の終わりとは言っても冷たく、ギジェルミーナはストールをきつく巻き直す。庭の隅にはまだ、雪かきで集められた雪が残っていた。


 イェレの方は寒さにも負けずに今は元気で、先客を遠慮させながら王のために空けられた壇上の席に上がる。


「ぼくはここで、ギジェルミーナはこっちだよ」


「はい。私はここですね」


 指し示されたイェレの隣の椅子に座って、ギジェルミーナは中庭を見下ろした。高さのある壇上の席からは、中庭全体がよく見える。

 祭りの見物のために集まった人々は円を作るように集まっていて、羊はその空いている中心で屠られるのだと思われた。


 二人が着席すると、ほどなくして丸々と太った羊を連れた屠殺人が城門の方からやって来る。

 城で働く人々は歓声を上げて羊と屠殺人を迎え、イェレもギジェルミーナに話しかけた。


「おおきくて、たくさんのひとがたべれそうなひつじだね」


 中庭の中央に引っ張られていく羊を、イェレは中庭に来たときとは少々雰囲気が違う思慮深そうな眼差しで追っている。


「そうですね。たくさんの料理ができそうです」


 さっさと温かい羊の煮込み料理が食べたい気持ちで、ギジェルミーナは頷いた。

 そんな会話をしているうちに、屠殺人は作業台に道具を広げて、準備を終えて立っている。

 羊も城の若い使用人たちが抑え込んでいて、弱々しい鳴き声が時折聞こえていた。


「国王陛下万歳、王妃様万歳」


 とってつけたように、屠殺人はイェレとギジェルミーナを称える挨拶をした。そしてそのまま、一年の安寧を願う言葉を続ける。


「新しい年もまた、飢えることなく肉を食べ続けられることを願って」


 屠殺人は短い祈りの言葉を済ませると、庖丁を手にしてまず羊ののどを切って息の根を止めた。とても手際の良い、鮮やかな行為だった。

 それから羊は逆さまに吊り下げられて、放血される。石畳は黒いので、血の赤はそれほど目立なかった。


 血抜きが終われば四肢の先端が関節から外され、皮が剥ぎ取られていく。人々のざわめきの中でも、屠殺人は落ち着いて自分の仕事をしていた。


 やがて中庭に吊り下げられた羊を見ながら、イェレは神妙な顔でぽつりとつぶやいた。


「ぼくはね、ひつじのにくがいちばんすきなんだ。でもしんじゃうのは、かわいそうかも」


 イェレの口から死ぬという言葉を聞くのは少し胸がざわつく。

 だがそれはそれとして、ギジェルミーナは家畜が死ぬのを見てもそれほど同情できない性分だった。


「陛下はお優しいですね」


 軽快な音とともに皮が剥がされ、薄紅色の肉を晒していく羊を眺めながら、ギジェルミーナはやんわりとイェレに反駁する。

 イェレは、ギジェルミーナの言葉をそのまま受け取って微笑んだ。


「やさしいこになってほしいって、ははうえがいってたから」


 ギジェルミーナの発言の意図を、イェレはまったく理解しない。

 しかしイェレの側に控えていたヘルベンは、ギジェルミーナの人間性を見抜いてささやいた。


「王妃様は羊が殺されても、何も感じないお方ですからね」


「そうだな。もしもそれが自分の羊なら、少しは可哀想だと思うはずだが」


 ギジェルミーナはヘルベンの問いに、嘘をつかずに小声で答える。ギジェルミーナは情のない人間ではないが、誰に対しても情があるわけでもない。


(だけどここにも大勢いるだろう? 羊の死に何も感じない者たちが)


 ギジェルミーナは、羊の屠殺を楽しげに見ている中庭の人々を見渡す。


 屠殺人はちょうど皮を剥ぎ終わり、腹部を切り開いて内蔵を取り出していた。冷たい風が血の匂いを運び、濃くなまぐさい色が灰色の雪と対になる。


 ギジェルミーナは屠殺の様子をしばらく見ていたが、そのうちに飽きて空を見上げた。

 灰色の薄雲に覆われた空は冷たく、綺麗な景色とは言えない。しかしそのつまらない眺めの中で、城の敷地を越えた街の方からいくつかの煙が上っているのをギジェルミーナは見つけた。


「あの煙は……」


 故郷でも見た濃くくすんだ黒い煙のすじを、ギジェルミーナは目で上まで追う。


「あれはええっと。なんだっけ」


 ギジェルミーナにつられてイェレもその煙を見たが、答えは持ち合わせてはない。

 その正体について答えたのは、ヘルベンだった。


「あれは謝肉祭を祝って、街で人形を焼いてる煙です。罪を着せた大きな藁の人形を」


 ヘルベンが羊の屠殺とは別の、もう一つの謝肉祭の催しについて語る。


「それは、私の祖国でも行われている」


 毎年宮殿の窓から見えていた煙と、今見えている黒煙を重ねながら、ギジェルミーナはつぶやいた。

 藁の人形を焼く謝肉祭の催しは、ギジェルミーナの故郷でも盛んである。


(確か、そうだ。昔見たあの藁の人形は、布でできた王冠をつけていた)


 それからギジェルミーナは以前に一度、宮殿から抜け出して見た帝都の街の謝肉祭で見た光景を思い出す。


 幼いころにはその意味を理解してなかったが、街の人々が笑顔で燃やしていたのは確かに王を模した人形だった。赤い炎に覆われて黒く焦げていったのは、王冠を被った王の姿だった。

 古い支配者を燃やすことで物事は逆転し、人々は新しい季節を迎えるのだ。


(王を殺したいのは、よくあることなのか)


 時折抱く衝動の普遍性に気づき、ギジェルミーナは安心すると同時に、自分が特別ではなくなったような気がした。

 しかしだからこそ、イェレが不幸であることも納得する。兄アルデフォンソのように絶対的な支配者であるのも王であるが、燃やされる藁の人形のように傷つけられるのも王であると、ギジェルミーナは理解した。


「ギジェルミーナ。もう、おかしをもらうじかんだよ」


 物思いにふけるギジェルミーナに、イェレが澄んだ瞳で顔を覗き込む。

 気づけば羊の解体は終わり枝肉は大鍋の中へと運ばれ、祭りの見物客には揚げ菓子が配られていた。


「これはギジェルミーナにあげる」


 イェレは自分がもらった揚げ菓子を一つ、ギジェルミーナに渡した。丸い小さな、小麦でできたお菓子である。


「ありがとうございます。とても素敵なお菓子ですね」


 こんがりときつね色に揚がった菓子を手に、ギジェルミーナはお礼を言う。


 揚げ菓子はほんのりと甘く、空の煙も薄れていた。


 中庭には熱々に茹で上がったじゃがいもや温められたワインなども運ばれてきて、祭りは一層にぎやかになって夜まで続いた。

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