第37話 思い出の香り

  次の日の朝は大変だった。お人形ちゃんは起きてわたしの顔を見るなり、目覚まし時計も顔負けの大泣きをし始めたのだ。


(ど、どうしよう……)


 わたしにできるのは、お人形ちゃんを抱きしめて、頭を撫でてあげることだけだった。


 お人形ちゃんはなかなか泣き止まない。こればかりは言葉が通じたとしてもどうにもならないだろう。


 本当の意味でお人形ちゃんを泣き止ますには、無垢なメイドさんの無実を証明して、助け出すしかない。けれどまだ、無実を証明できる算段は立っていなかった。


 時間は限られている。この国の司法制度がどうなってるかはわからないけれど、無垢なメイドさんがお屋敷から連れていかれる前に決着をつけなければ、わたしは手を出せなくなってしまう。


 お人形ちゃんの頭を撫でながらそんなことを考えていると、猫の断末魔が響いた。坊っちゃんが起きてきたのだ。坊っちゃんはわたしたちを見て、何も言わずに廊下へと出ていった。


「え? ちょっ! 一人で行っちゃ……!」


 わたしの声は聞こえているはずなのに、坊っちゃんは戻ってこない。向かった先はわかっている。食堂だ。いつもの日課通り、調理の過程を見に行ったのだろう。


 いつもだったら一人で行ったって、ちょっと文句を言うぐらいで我慢する。でも今は違う。誰が坊っちゃんを狙っているかわからないのだ。調理してるとこを見るくらい、今は我慢すれば――


(あれ? 違う……?)


 今だからこそ……なのかもしれない。だって誰も見ていなかったら、料理に何を入れられるか、わかったもんじゃない。


(それも少し違う。そうだ……)


 わたしにとっては昨日始まったことでも、坊っちゃんにとってはそうじゃないんだ。わたしが来る、ずっとずっと前から、坊っちゃんは戦っていた。


 坊っちゃんは料理しているところを見るのが好きなんじゃない。いつ誰に毒を入れられてもおかしくないと知っていたから、料理しているところを見に行かざるをえなかったんだ。


(わたしがずっと気づいていなかっただけで、わたしも坊っちゃんも、いつ殺されてもおかしくなかった……?)


 いつの間にかお人形ちゃんを撫でる手が止まっていた。手を動かそうとしても、震えて動かない。昨日、料理を吐き出したときよりもずっと怖かった。


(逃げないと……)


 そう思った瞬間。頭に小さな手が添えられた。


「―――――?」


 お人形ちゃんが泣き顔そのままに、両手を伸ばしていた。


「お人形ちゃんは……強いね」


 わたしよりもずっと苦しい思いをしているはずなのに、泣き止むことすらできないくらいなのに、わたしなんかを気遣えるのだ。


「わたしも、頑張らないと……」


 わたしの手は震えたままだったけれど、お人形ちゃんの頭を撫でるくらいには動いてくれた。


「そろそろ行こう……坊っちゃんが待ってる」


 涙で汚れたお人形ちゃんの顔を袖で拭いてあげる。お人形ちゃんは自分でも涙をぬぐって、ぎゅっと目をつぶった。そして目を開くと、涙はすっかり止まっていた。


「よしよし……」


 涙が止まったといっても、泣きたての目はまだ赤く、少し置いてから人前に出た方がいい。いや、それ以上に――


(髪を、どうにかしよう……)


 お人形ちゃんのふわふわの髪は、一晩寝たことにより絡まりあって、古いセーターみたいになっていた。このまま連れて行ったらお人形ちゃんがかわいそうだ。それに、もし黒ドレスさんに見つかったら、お人形ちゃんの世話を他のメイドさんに移されてしまいかねない。


 机の中を探してみると、ブラシはなかったけれど櫛があった。前のメイドさんの私物か、もしくは坊っちゃんの世話をするために用意してあったのだろう。


(いつもと違うかもしれないけど……ごめんね)


 ボリュームのある髪に苦戦するかと思っていた。けれど櫛を入れ始めると、柔らかい髪はするするとほどけていって、少しすいただけで元通りのふわふわお人形ヘアーに戻った。


(無垢なメイドさんは、お手入れ頑張ってたんだろうな)


 わたしがずっと預かっていたら、いくら櫛を通しても直らないくらい、お人形ちゃんの髪が痛んでしまいそうだ。


(早く無垢なメイドさんに戻ってきてもらわないと)


 とりあえずお人形ちゃんの髪だけ整えて、扉を出た。顔を洗ったりはしてないけれど、もうお人形ちゃんが泣いていたのはわからないだろう。


 食堂に着くまで誰にも会わなかった。それどころか、食堂の中にも人の姿はない。


(あれ? 坊っちゃんは?)


 お人形ちゃんと顔を見合わせていると、キッチンの奥からいつものおばちゃんが出てきた。おばちゃんはわたしを見て表情を緩める。でもお人形ちゃんに視線が動くと、少し驚いたように表情が固まった。何か言いたそうに口を開いたけど、その先が続かない。そしてため息をつくと、わたしの方を指さした。


「わたし……?」


 わたしが自分を指さすと、おばちゃんは首を横に振って、少しだけ奥に指を突き出した。


(後ろ?)


 入ってきたばかりの扉を、もう一度開けてみた。その先にはロビーが広がっているけれど、坊っちゃんの姿はない。


(ん? あれかな?)


 ロビーの向かい側、ちょうどこの扉の正面のところに小さな――このお屋敷でなければ普通サイズの扉がある。


 お人形ちゃんに手を引っ張られた。お人形ちゃんは小走りで、正面の扉にわたしをエスコートする。それでも扉を開けるのはわたしの役割だ。


 扉の向こうには人だかりがあった。いるのは猫目メイドさんに眠気メイドさんと姫ちゃん、姉御ちゃん。あと双子ちゃんの全部で六人だ。六畳くらいの部屋だったので、人数以上に多く見える。


(こんなとこで何やってるの? てか坊っちゃんは?)


 猫目メイドさんも眠気メイドさんも、双子ちゃんまでもが、わたしたちと目が合わないように、伏し目がちにこちらの様子をうかがっている。姫ちゃんと姉御ちゃんはがっちりと肩を掴まれていて、食堂での毒騒動のときみたいだ。


(昨日の今日だし、仕方ないか)


 それよりも坊っちゃんの姿がない。おばちゃんが指さした場所はここではなかったのだろうか。


「―――――」


 眠気メイドさんが何か言うと、みんなが左右に割れるように中央から離れた。その奥にあったのは下りの階段だ。そこをみんなで覗き込んでいたのだろうか。


(どうしてこんなところを……? いや、そんなことよりも、坊っちゃんはこの下?)


 それならわたしに道を開けてくれたのも納得だ。


 階段は二人分くらいの幅があった。地下までまっすぐ伸びているようだ。


(これで、この先に坊っちゃんがいなかったらどうしよう)


 階段の半ばで、その心配はなくなった。正面から小さな影が駆け込んできたのだ。


「坊っちゃん……!」


 逆光気味でよく見えなかったけど、すぐにわかった。わたしは両手を前に出して坊っちゃんを受け止める準備をする。


 でも坊っちゃんはわたしの横を通り過ぎた。


「え?」


 振り向いた先で坊っちゃんはお人形ちゃんに抱き着くように体当たりをしていた。


「―――――!」


 坊っちゃんはお人形ちゃんを押さえたまま、右手で階段の下を指さして何か叫んだ。声がかれそうなくらい力の入った声には、怒りの色があったような気がした。


(わたし一人で行けってこと?)


 坊っちゃんを見つけるという目的を果たしたから、すぐにでも戻りたいところだけど、それは許されないらしい。


 階段降りてしまうと、その先の廊下はまるで蛍光灯がついているかのように明るかった。石でできた天井を見上げると、斜めに天窓のようなものが付いている。そこから光が入るようになっているようだ。


(地面に直接穴が開いてるのかな? 地下で火を明りにしたら危なそうだもんね)


 そのおかげで十メートル程度の廊下の奥にいる人もよく見える。二人の兵隊さんと黒ドレスさんだ。まるでわたしを待っていたかのように、こっちを見ている。


 ふと、わたしは足を止めてしまった。別に黒ドレスさんの視線が怖くなったわけじゃない。


 重たく冷たい香りが鼻を突いたのだ。生臭いそれは暗い小屋の中を思い出させた。色でいうと赤。物でいうと錆びた鉄。


(そうだ。前の集落の屠殺小屋で嗅いだのと同じ……)


 そこでやっと、何を意味する臭いなのかわかった。黒ドレスさんたちが立っているすぐ右の壁に鉄格子が見える。


「まさか……!」


 体の中を冷たい血が駆け巡る。どうして坊っちゃんがお人形ちゃんを連れて行ったのか。わかってしまったからだ。


(まだ、決まったわけじゃない)


 走っているわけでもないのに、脚がもつれた。巡る血は冷たいのに、体が熱くなってくる。


 鉄格子にたどり着いたわたしの目に飛び込んできたのは、ふわふわな黒髪と、赤黒く汚れた苔色のワンピースだった。

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