第34話 理想のお料理

 わたしの後ろで猫の悲鳴のような音が聞こえたとき、わたしはまだ手紙を眺めていた。振り向くと、黒ドレスさんが坊ちゃんの部屋から出てきていた。


 黒ドレスさんはわたしを一瞥すると、何も言わずに去っていく。


(あれ? もうお勉強終わったの?)


 わたしが手紙と向き合ってから、数時間経ったことになる。その間ずっと返事の内容を考えていたのだけれど、何も思いついていない。


 もともとわたしも、チャットとかの返信に時間がかかる方だ。時間がたっぷりある手紙なら大丈夫だと思っていたけれど、白紙同然の手紙に何を返せばいいのかわからない。


(せめて紙に書きながら考えられたら違うのかもしれないけど……ただでさえこういうのに頭回らないのに、無理だよ)


 わたしの手元には紙がない。セルペーパーならあるけれど、メモ代わりに使うのはさすがにもったいない。


 また猫の悲鳴が響いた。坊ちゃんが出てきたのだ。


(あ、食堂に行く時間か)


 わたしは手紙を封筒に戻して、スカートのポケットに入れた。とりあえず手紙のことは後で考えよう。


 坊ちゃんはわたしがポケットに何か入れたの気づいたみたいだったけれど、何も言ってこなかった。いつも通り先行して、階段を下りて食堂に入る。


 食堂にはふわふわの金髪と黒髪の、二つの影があった。


(あれ? お人形ちゃんたちだ)


 お人形ちゃんが左から二番目の椅子に座っていて、そのすぐ横に無垢なメイドさんが立っている。お人形ちゃんはすぐにわたしたちに気づいて駆け寄ってきたけれど、無垢なメイドさんは振り向くことすらしない。


 坊ちゃんは何か言ってから、左端の席に向かった。わたしは坊ちゃんについていかず、お人形ちゃんと向き合った。


 お人形ちゃんは頭の上に両手を載せている。


「ん? お祈り……?」


 わたしがたずねると、お人形ちゃんは何か言いながら無垢なメイドさんの方を見た。無垢なメイドさんは向こうを見たままで、両手を頭に載せてお祈りのポーズをしている。


(食材のために祈ってるのかな?)


 お肉とかも使っているし、牛が殺されるところを見たわたしとしては、祈りたくなる気持ちはわかる。実際、ここの人たちはいただきますの代わりにお祈りをしている。


(でも、今まで早めに来て祈ってたことなんてないよね?)


 お人形ちゃんも変に思ってるみたいで、機嫌の悪い友達を見るような目で、無垢なメイドさんを見ていた。


 わたしはお人形ちゃんの頭に両手を載せた。ちょうど、お人形ちゃんの手の上に手を重ねるような形になる。


「だ、大丈夫だよ……」


 自分でも何が大丈夫かわからなかった。こういうときに、わたしは気が利いた事が言えない。


(まぁ、何を言っても伝わらないからいいけど)


 わたしの手が持ち上げられる。お人形ちゃんはわたしと手をぴったり合わせたまま、バレエダンサーのように反転してわたしの方を向いた。お人形ちゃんの手が交差してしまったので、わたしが手を交差してもとに戻してあげる。


 お人形ちゃんの目から不安の色は消えていた。何かを決めた、強い目をしている。


(なんだかよくわからないけど、元気になったんならいいか)


 お人形ちゃんが元気なら、無垢なメイドさんも大丈夫。なんだかそんな気がした。


 お人形ちゃんは駆け出すと、さっきまで座っていた椅子によじ登り始めた。


「あ、危ない……」


 無垢なメイドさんは気づいてないのか、止めようとしない。


 坊ちゃんを見ると、堂々と椅子の上に立っていた。お人形ちゃんはそれの真似をしようとしてるのかもしれない。


(あーもう。こうなるんだったら、坊ちゃんに厳しくしとけばよかった)


 わたしはお人形ちゃんの方に足を進めた。すでにお人形ちゃんは椅子の上に立っている。


 お人形ちゃんが両手を上げた。バランスを崩したのかと思ってヒヤリとしたけれど、そうではないみたいだ。上げた両手は無垢なメイドさんの頭に添えられた。お祈りしている手の上に、小さな手が重なる。


 無垢なメイドさんもさすがに気づいたのか、お人形ちゃんの手を握って頭から下ろし、体を左手で支える。そして右手でその頭を撫でた。するとお人形ちゃんはお返しにと両手を伸ばし、無垢なメイドさんの頭を撫でたのだ。


(うわ、仲良しじゃん。いいなぁ)


 坊ちゃんを見ると、料理をしているおばちゃんをつまらなそうな顔で眺めていた。


 手持ち無沙汰になったので、とりあえず坊ちゃんの近くに移動する。


 お人形ちゃんたちの方を見ると、無垢なメイドさんと目が合った。いつも通り笑いかけてくれるかと思ったけれど、無垢なメイドさんは顔を伏せてしまった。


(やっぱり、どこか具合が悪いのかな?)


 具合が悪くても、お人形ちゃんを見ないといけないから部屋で休んでもいられないのだろう。


 食事が終わったらお人形ちゃんたちのところに行ってみよう。わたしがお人形ちゃんの相手をすれば、無垢なメイドさんも少しは休めるはずだ。もしかしたら、他にも手伝えることがあるかもしれない。


(さすがに坊ちゃんもダメとはいわないよね?)


 わたしが気づいたぐらいだから、坊ちゃんも無垢なメイドさんの異変には気づいているはずだ。


 料理は最後の煮込みの段階に入っていた。料理は日替わりだけれど、いつも煮込み料理だから、毎日見ていると手順がだいたいわかってくる。この工程まで進むと、そろそろ聞こえるはずだ。


 猫の断末魔のような音だ。


 扉から入ってきたのは赤く長い髪の女の子――姉御ちゃんだ。その後ろには眠気メイドさんがいる。


 そしてもう少し経って、部屋の中が煮込み料理特有のソースから酸っぱさを抜いたような香りで満たされた頃に、姫ちゃんと猫目メイドさんが入ってきた。


(あれ? いつもより少し遅い?)


 わたしと違って時計を持っているのか、いつもは煮込みが始まったころに二組がほとんど同じ時間に入ってくる。


(猫目メイドさんもなにかあったのかな?)


 昨晩、坊ちゃんは騒ぎを起こして、今は無垢なメイドさんが元気がない。それに加えて猫目メイドさんのところでも何かあったのなら、色々なことが起こりすぎている。


(今日は厄日なのかな……?)


 意識すると気味が悪い。


 全員揃うのを待っていたように、料理がお皿へと注がれ始めた。それぞれ銀色のお皿が一枚ずつ用意されていて、スープ系の料理一品だけがそこに注がれる。


 お肉や野菜問わず色々な材料が煮込まれているので栄養はたっぷりだろう。今日は中華スープのように透明感のあるさらっとしたスープだ。少し青みがかっているので、コップに注いだらケミカル系のジュースに見えるかもしれない。。


 そこにニンジンやブロッコリーに似た色鮮やかな野菜と、鶏肉みたいなのが骨ごと浮いているのが、なんだかアンバランスだ。


(今までおいしくない物が出てきたことはないから、味は心配はしてないけど)


 全てのお皿に料理が注がれると、お祈りが始まる。それが終わってしまえばお楽しみの毒見タイムだ。わたしが夜食のパン以外を食べれる唯一の瞬間だ。


 お皿と同じ銀色のスプーンを使って料理をすくう。こっそり野菜とお肉を崩してスプーンに載せるのを忘れない。


 スプーンを口元に持ってくると、すでに部屋に充満しているはずのおいしい香りの中に、チョコレートのような香りが混じっているのに気づいた。赤ワインとかはチョコレートに香りが似てると聞いたことがあるから、そういうものが煮込みに使われているのかもしれない。


 どんな味がするのか、がぜん楽しみになってくる。


 料理を口に入れると、自分の表情が一気に明るくなるのを感じた。


(あ、これおいしいやつだ)


 おいしい以外で表現するのが許されない味。あえて言うならすっきりとした爽快感とコクのある深みが、完璧な調和によって生み出された究極の味。


(完全にチョコミント味じゃん。このスープ)


 わたしでも食事系にチョコミントの味付けをする発想はなかった。チョコレートの風味は野菜の甘みを引き出し、お肉の旨味とも相性がいい。そしてミントの爽快感はスープがくどくなってしまうのをうまく抑えていた。


(これ、わたしにも真似できるかな?)


 今は料理をするタイミングはないけれど、元の世界に戻ったときに――いや、元の世界でも料理はほとんどしていなかったのだけれど、万が一わたしが料理をするときに目標とする味は間違いなくこれだ。


(カップ麺にチョコミントを入れたら似た味になったりするかな? それともお味噌汁のお味噌の代わりにチョコミントを使ってみるとか……)


 そんなことを考えている間に全員の毒見が終わっていた。眠気メイドさんと猫目メイドさんが若干顔をしかめていたのはきっと気のせいだ。


 子供たちがスプーンを手に取り、坊っちゃんもスープをひとすくいした。でもそこから進まない。じっとスプーンの中を見たまま固まっている。


(嫌いなものでも入ってたのかな? 料理してるとこをずっと見てたんだから、そのときに言えばいいのに)


 それとも嫌いなものでもちゃんと食べようと思っていたのだろうか。でもいざ料理を目の前にしてみて尻込みしてるとか。


(いったい何が苦手なんだろう?)


 わたしの視線が坊っちゃんのスプーンへと吸い寄せられる。


(あれ?)


 背中に冷たいものが走った。


 坊っちゃんの木のスプーンにはスープとお肉が載っているだけでおかしなところはない。でも今、確かに頭の中に『黒』という単語が浮かんだ。


 その正体は視線を動かすまでもなくわかった。目の端に映っている、スープの注がれた銀皿。それが、スープを縁取るように黒くなっていたのだ。隣のお人形ちゃんのお皿は同じスープが注がれているのに、まっさらな銀色のままだ。


「だめ!」


 反射的に坊っちゃんへ手を伸ばしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る