渡りの先にて

MIDNIGHT RADIO

渡りの先

 僕が通うこの喫茶店では、時々、まるでおとぎ話の世界と繋がっているかのような、不思議なことが、ごく自然に、日常にとけ込むように起こる。

 いつの間にか暖かい日が増え、空気にほんのり初夏の香りが混じり始めた頃のことだ。

「では、例年どおり、第一第三水曜日に、コウエンにコーヒーをお届けしますね」

 マスターが珍しく一人のお客と話し込んでいたのだが、どうやらお開きとなるようだ。マスターの言葉に、お客は、ありがとう、と言って椅子から立ち上がった。

 このお客について、気になることは幾つかある。まずは、店に入ってきたときだ。彼に乗って、風がびゅうっと運ばれてきたような気がしたのだ。それで思わず顔を上げた。しかし、ほかの人の反応から、自分が感じた風は実際には吹かなかったことがわかる。皆が一瞥を投げたのは、彼から明るくよく通る声が発せられたときだった。

「やあ、どうも!」

「いらっしゃいませ――あぁ、よかった。そろそろいらっしゃる頃だと思っていましたよ」

 次に、服装が気になった。二人は、顔を合わせるなりすぐに話に夢中になったので、僕は、その内容に聞き耳を立てない代わりに、彼のことを観察した。凝ったデザインの黒いジャケットは、襟や袖口の折り返しなどに光沢のある濃紺の繻子が使われているのだが、それよりも一番の特徴は、後ろの裾が燕尾服のように分かれていることだ。ジャケットと共布のズボンには、サイドに同様の繻子による太いラインが入っている。帽子、手袋、靴も黒ずくめの中、シャツは白く、蝶ネクタイは臙脂色だ。その結び方にはきっと何か名前があるのだろうが、僕にはわからない。蝶結びから垂れた先をクロスさせて、シャツのボタンほどの大きさの宝石で留めている。彼が着こなしているので違和感はないのだが、仮に舞台衣装だと言われても納得できる格好だ。入店時に脱いだ山高帽を脇に抱える様などは、役者に見えなくもなかった。

 そして、今、マスターは「公演」と言った。やはり何か、舞台あるいは見世物小屋をやっているのだろう。これは少し話がずれるが、届けるとは、ここはいつから出前を始めたのだろうか?

「あぁ、そうだ。お帰りの前に紹介しておきます。――キミ、こっちに来られるかい?」

 マスターに急に呼ばれて驚きつつも、僕はすぐに二人の方に向かった。

「こちら、うちの常連さんなんですけど、きっと時々はこの彼がコーヒーをお届けに伺うと思いますから」

「えっ?」

 寝耳に水とはこのことで、僕は二人を交互に見た。マスターは妙ににこにこしているし、もう一人はもう一人で、僕の困惑など見えていないように、穏やかな微笑みを浮かべて握手を求めてきた。

「初めまして。私はラリーといいます。よろしくね、キミくん」

「えっ? あっ、はい。こちらこそよろしく、お願いします」

 黒い瞳に真っ直ぐ見つめられて、否定すべき点を何一つ指摘できずに、僕は、彼の手を握り返した。

「ラリーさんはね、燕の先導役をしているんだよ」

「……?」

「先導なんて、オーバーだよ、マスター。私は少しきっかけをつくるに過ぎない。本当は、別に私がいなくとも、みんな、ちゃんと全てをわかっているように行動できる。それが渡り鳥ってものだからね」

 それじゃあ、また、と立ち去ろうとする背中にお礼の言葉を返していたマスターが、途中でやめて呼び止めた。

「あ、そうだ。うちの軒先は、いつでもどうぞ」

 彼は、それはそれはうれしそうにこちらを振り返った。

「ありがとう! 去年の夫婦が喜ぶよ。とても気に入ったらしくてね。実はもう待ち合わせ場所にしているらしいんだ。彼らに代わって私から、今年もよろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げ、もう一度丁寧にお礼を言うと、彼は帰っていった。

 すぐに片づけを始めるマスターに、僕は声をかける。

「あの、マスター、さっきの話はどこまでが本当なんですか?」

「どこまで? 全てが本当のことだよ。彼がこの街に燕を連れてくるのも、うちに燕の夫婦が引っ越してくるのも、もちろん、キミが時々彼にコーヒーを届けてくれるのも、ね。ちなみに、公演ではなく公園によろしく」

「えっ――!?」

 それからしばらくして店を出たところで、黒い影が滑らかに目の前を通り過ぎた。その行方を追いかけて見上げると、店の軒先に、いつからあったのだろうか、燕の巣が本当にあった。


二〇二二年、玄鳥至

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る