第25話 観応の擾乱

☆ 観応の擾乱 ☆


 流れとして観ていけば、直義は、師直を排除したかっただけなんだろうと思う。尊氏→義詮の承継は前提で。とすると、師直排除後に話をややこしくしたのは誰なんだろうと思う。('20/05/03)


 まあ、その筆頭は尊氏だろうけど……('20/05/03)


 人間は感情の生き物なので、直義が考えるようには、尊氏も、義詮も、直冬も思わなかったんでしょうね。('20/05/03)


 義詮は疑心暗鬼でしょうし、直冬はもしかすると自身が跡継ぎのチャンスと思ったかもしれない。上杉能憲に見せた怒りや、京に持ってからの顕氏とのエピソードを見ると、尊氏の怒りは相当だったんでしょうね。('20/05/03)


 尊氏にとって師直の存在は、直義が考える以上に重要だったのでしょうね。だから排除しようと考えたのでしょうけど。('20/05/03)


 三人だけなら折り合いも付けられたのでしょうけど、それぞれ、多くの支援者がいたので、折り合いは難しかったのかもしれませんね。('20/05/03)


 身を引くかのように亡くなった直義。その直義に従二位の追贈を求めた尊氏。最後に二人はどのような言葉を交わしたのか。思いを馳せてしまいます。('20/05/03)


 そのふたりの位牌は、[高野山の金剛三昧院]本尊愛染明王の脇に、仲良く祀られています。('20/05/03)


 [四条畷の戦の影響]その通りだと思います。これでパワーバランスが崩れた。直義の焦りが原因でしょうね。('20/05/03)


 楠木正行が観応の擾乱を誘発させたと考えると、この擾乱によって窮地を脱した正儀は、死んだ兄が守ってくれたんだなと……。('20/05/03)



☆ 正平の一統 ☆


 尊氏の両統迭立は後二条系ではなく、やはり後醍醐系です。後醍醐帝を廃して光明帝を立てると成良親王を東宮に付けました。親王は後醍醐帝の六の宮で、直義が奉じて鎌倉に下った鎌倉将軍宮です。後醍醐帝が吉野に出奔しなければ、尊氏は宮を帝としたはずです。直義はわからんですが。('20/11/15)


 尊氏の本心は、畏敬の念を持つ後醍醐帝に認められて征夷大将軍に成りたかったんだろうな。だから後醍醐帝の元で将軍になっても、朝廷をないがしろにすることも無かったと思う。少なくとも尊氏の代では……。('20/11/15)


後醍醐帝を廃して将軍になったとき、強烈な後ろめたさを覚えていたんだろう。直義に引っ張られ過ぎちゃったなと。だから、いつか後醍醐系に皇統を戻さなければいけないと思ってたんだろうと。苦し紛れのようにも言われる正平の一統ですが、尊氏によってはちょうどよい機会なだけだったんだろうと思う。('20/11/15)


 そういう意味じゃ正平の一統は、南朝にとってホントに惜しいことをしたと思う。一統の成功は、ひとえに、そんな尊氏を利用した親房の力だけど、失敗もひとえに親房のせい。策士策に溺れるっていったところか。('20/11/15)


 だから、小説の中では親房に対し厳しめに書いています。親房ファンの方、ごめんなさい。('20/11/15)


 顕家の死はあれだけいっぱい書き記しているのに、正成の死については「正成とかいう武士が……」ですね。知らないはずないんですけどね。('20/11/15)


 家格を重んじる保守だし、隠岐派との対立もありますしね。('20/11/15)

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