第3話

   八月二十五日・二日目

    ニュー・デリー~ 2 



 運転手の男は黙って運転していた。私も無言であった。手にはもちろん疑わしく思っているコーラの瓶を握っている。そのうちに、何だかどうでもいいような気になってきて、グビグビ飲んだ。身ぐるみはがされるなら早い方がいい。近場なら何とかなる。コーラを飲み干して、会話を始めた。


 牛のことを聞いてみた。道の方々に牛がノソノソ歩き、道端の草を食べている。道の真ん中に居座る牛にクラクションを鳴らすこともあった。

 あれは、野良牛ですか?野良が何というのか分からなかったので、辞書を引いてみる。「Field」フィールド・カウでいいのかな?


あれらはフィールド・カウですか?

そうだ、、、黒い方はバッファロー(水牛)、白い方はカウ(牛)だ。バッファローの乳はストロング(強い)で主に男が飲む。白い牛の乳はライト(軽い)で女子供が飲むのだ、と言った。

 

 名前を聞くと、ラメーシュである、と名乗った。ハライナの出身である、と言われるが、はあ、そうですか、としか答えられない。どこなんだ?

私の名前はタクである、と言うと、色々聞いてくる。


日本人か?

そうです。

学生か?

いえ、会社員です。

何歳だ?

二十四です

結婚はしているのか?

していません。

ガールフレンドはいるのか?


いえ、と答えると、インドの女はどうだ?欲しいなら連れてくぞ、と言われ、ノーと答える。

結婚は?と聞くと、十歳を頭に二人の息子と二人の娘が要ると言う。ビールは好きか?と聞かれ、好きです、と答える。しばらくすると車を止め、待っていろ、と言う。ビールとタバコを持って帰って来た。飲め、と言う。タダですか?と聞くと、いや、タダじゃない、後でもらう、と答える。


 ラメーシュは車を走らせ、私はビールを飲んだ。そして今後は必要なものは自分で買うからお構いなく、と言った。

インドでビールを飲んでしまった。アルコールはほとんど飲まない国だと聞いていたので、こんな道端で簡単に買えてしまうのは意外だった。インドでは飲酒は一般的じゃないんでしょ?イスラムは全く飲まないと聞いてるし、、、と聞くと、そんなことはない、ヒンズーもイスラムも、飲むやつもいれば、飲まないやつもいる。日本でもそうだろ?と言う。確かにそうだ。そして私は、飲むやつの方だ。


 ビールを飲みながら、またふつふつと疑いの念が沸き上がって来る。さっきのコーラが全然効かなかったので、とどめを刺しに来たのでは、、、? 朝からの一連の出来事に、すっかりインド人不信が根付いてしまったようだ。ビールを飲むと、眠くなってきた。ついに来たか、と思いつつも、腹が空なんだから当たり前なのだった。


 大きな建物が見えたので、何だと聞くと、大学だと言う。この辺りには大学が多く、百はあると言う。お前の街にはいくつある?と聞かれ答えに詰まる。東京にはいくつ大学があるのだ?さっぱり分からないので、千位だ、とでたらめに言うと、そうか、と頷いた。

デリー市街を抜けるとのどかな田園風景が広がる。道端にはバナナ、リンゴ、水、正体不明の生ジュースなど様々な物を荷台に乗せた物売りが立っている。そして、とても家には見えないアバラ屋に人が住み、野グソをしていたりする。


 前方に、何か大きな動物が荷車を引いているのが見えた。車が近づいて行くと、それはやはり大きな動物、ラクダだった。窓からカメラを構えると、ラメーシュは車を止め、撮ってこい、と言う。大きく頷き、車を降りて近づいて行った。

 でかい!つま先から頭まで二m五十はある。撮っていいか?と聞くと、荷台に座っていた男がうんうんと頷く。写真を撮ったあとで、こう聞いてみた。

 

ヒンディ・メーン・イセ・キャー・カハテ・フーン?(ヒンズー語でこれを何と言いますか?)

使おうと思って、ガイドブックに載っていたのを暗記してきたのだ。

 「ウート」と一人が言った。ウートか。ラクダはウートと言うのか、、、。四頭いたのでチャール(四)ウート!と言うと、そうだ、と言うように頷く。

 礼を言って引き返した。初めてヒンズー語を使ってみたが、分かってもらえたようだ。

車に戻ると、ラメーシュは、ウートか、とつぶやく。そうだ、ウートだ!チャール・ウートだ!興奮していた。不意に出現した巨大なラクダ。ヒンズー語ではウートと言うのだ。


 日が暮れかかる頃、車はアグラの街に入った。狭い路地には小さな店が軒を連ね、人々が行き来している。人をよけ、人によけさせながらゆっくりと前進する。そして、ひときわ賑やかな所に差し掛かった。イスラムの祭りなんだ、とラメーシュは言った。

 祭りか、、、。華やかに彩られ、けたたましい音楽の鳴り響く通りをゆっくり進む。それを窓から眺めるうちに、ある思いが沸き上がって来ていた。

 

 七時過ぎに、今日の宿に着いた。宿は自分で探すと言ったものの、こう暗くてはしょうがない。一泊三百五十ルピーだと言う。昨日の半額だ、安いだろ?とラメーシュは言った。彼は私が昨日の宿は六百六十ルピーだったと言うのを聞いて、目を丸くしていた。今日はもう遅いからここのレストランで飯を食え。明日の朝迎えに来る、と言う。あなたはどうするんだ?と聞くと、別に泊まる、ドミトリー(大部屋)だ、ここは高くて泊まれないからね、と言った。

ギクッとした。そして、さっきから感じていた物の輪郭が少しずつはっきりし始めていた。

 

 ラメーシュは宿の男と何やらゴニョゴニョ話していた。分からないヒンズー語で二人の喋るのを横で聞いている私には、この小僧をどうやって身ぐるみはがそうか、と言う相談をしているように思えるのだった。

 ラメーシュの去った後、宿の男の案内で部屋まで行く。そして屋上にも案内された。あたりを見回していると、天気がいいとあっちにタージ・マハルが見えるんだけどね、と言われて目を凝らしたが、モヤが掛かっていて何も見えなかった。


 夕食の八時まで部屋で休み、時間に降りて行くと、食堂に案内された。十畳位の部屋に、何も載っていないテーブルが四つと、椅子しか置かれていない。ガラーンとした部屋に、客は私一人だった。この部屋の奥が厨房になっているらしく、そこから料理が運ばれて来る。大皿に、野菜のカレー、豆のスープ(ダル)、オニオンスライス、薄い円形のパンのようなチャパティが載っている。

 

 カレーを食べてみる。薬草のような香辛料が鼻を突き、口に広がる。まずい!ダル、、、酸っぱいお汁粉!オニオン、苦い!チャパティ、付けて食べるカレーがまずいのだから、単独で食べても味がない。

 

 出された以上、食べることにする。しかしこれは何とも、、、。奥から時々入れ替わり男たちが見に来る。どうだ?と聞くので、アッチャー・カーナー(おいしい)とひきつった顔で答える。チャパティが無くなると足してくれる。やっとのことで残り少なくなったカレーに次を足されてしまった。もういい、と言ってみるものの、そうか、というように足していく。

 もう入らない、ごちそうさま、と言って席を立つ。残しちゃいました、ごめんなさい、と言って部屋に戻った。

 

 生ぬるいシャワーを浴びて、ベッドに横たわり、旅を記録する手帳をパラパラめくっていると、不意に電気が消えた。下の階はついているから停電ではない。インド人不信の私はパニックになった。ついに来やがった。押し入って来て身ぐるみはぐ気か?それとも電気代がもったいないから早く寝ろとでも言うのか?


 次に何が起こるのかと息を潜めていると、廊下で何やら声がして、ガチャガチャ音がする。ライターの火を手掛かりに扉の鍵を外し、そっと覗いてみる。男が何やら機械をいじっている。ブレイク・ダウン?故障か、と聞いてみた。どうやらそうらしかった。しばらくすると、電気はついた。

 

 心の平和は戻ったのだが、腹にはモヤモヤするものがあった。止めるべきか、続けるべきか、それが問題だった。

タクシーでバラナシまで行って帰って来る、、、。

 バラナシは見たかった。ヒンズー教徒にとって最大の聖地、人々は沐浴し、岸では死体が焼かれ、川に流される。ガンジスはゆったりと流れ、巨大な太陽が沈んでゆく街。生と死がごちゃまぜに混沌としている街。全身病気だらけの物乞いが恐ろしくいる街、、、。

 

 今までに読んだり、聞いたりした情報をつなぎ合わせると、こんな感じだ。そんなものを見たら、とてつもないショックを受けるだろう。人生観がひっくり返るかも知れない。しかし、そこまで車を飛ばしていく必要があるのか?ハードスケジュールの中で、時間に追われて見るものなのか?それではパックツアーとどこも違わないではないか、、、。

 

 出発点に戻る必要があった。旅の動機を、思い起こさなければならない。やりたかったのは「放浪」だったのだ。無目的に、うろうろする。そして、何より重要なのは、自分の足で歩く、ということではなかったのか?「バザール(市場)を歩く」これがインドの旅の目的だったのだ。そして、今日一日の車の旅を回想する。今日一日何があったのだろう? 何もない。通り過ぎただけだ、、、。

 

 歩くという行為が、完全に欠落していた。ここで止めよう、この旅を、、、。ラメーシュに明日そう告げる。しかし、何と言ったらいいのだ?会ってその旨を口頭で伝えるには、英語力があまりに足りない。手帳に文章で書くことにした。


 私は試行錯誤しながら一人で旅をしたい。タクシーの旅は快適だが、歩いて何かを発見する、ということが欠けている。

私のインドの旅の目的は何だったか? もちろん観光は目的の一つだが、大きな目的は、「放浪」と、インド人の生活を自分の目の高さで体験し、感じることだ。

タクシーの旅では、それは不可能だと、昨日感じた。だから私は、タクシーの旅を打ち切り、ここから一人で旅をする。

昨日の料金と、あなたがデリーまで帰る分を除いて、金を返してくれないか?


 我ながら仰々しい文だと思いつつ、辞書を引きながら訳していった。何とか書き終えてから眠った。

 

 

                ~続く~

   

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