『漆黒の慕情』読了後にお読みください。

芦花公園

ないりの祝福①

「あのさあ、私、言ったよね」

 石の床は冷たくて、長い時間座っていると、体の芯まで冷える。

「何度も見直ししなさいって、言ったよね」

「しました」

 言ってしまってから、言わなければよかった、と思う。

「へえ、したんだあ」

 薄い唇から舌がちろりと覗く。そのまま舌がぐるりと一周すると、捲れ上がった皮膚がしなりと倒れる。

「見直ししてそれなら、本当にバカってことじゃん」

「バカ……」

「そう、バカ。どうしようもないバカ」

 ぎゅっと目を瞑る。予想に反して、目の奥に火花が散るような痛みは頭を襲わなかった。

 足音が止んでいる。

 薄目を開けて、叫びそうになる。

 目の前にいた。

「バカは罪だよねえ」

 罪。

 教会で見た、地獄の絵。異形の悪魔たちが罪人たちをどこまでも苛む絵。

「私、罪なんて」

 乾いた音がして、すぐにじんじんと腕が痛む。細いアクリル製の棒。良くしなって、定規みたいに角で出血することもない。

「バカは罪よ」

 そんなことはないはずだ。パパさんも、こうきくんも、教会の誰も、そんなことは言わなかった。罪は、心の中にあって、キリストの十字架によって赦されるもの。

「教会では習わなかった、とか思っているんでしょう。あの人たちは良い人だから、本当のことは言わないのよ。『幸喜くん』も怠け者でバカなあなたには呆れるって言ってたよ」

 嘘だ。こうきくんはそんなことは言わない。

 いつもニコニコ笑って、七菜香ちゃんは小さい子の面倒を見るのがうまいねって褒めてくれて、私の話を真剣に聞いてくれて、絶対に悪口なんか言わない。

 でも、本当に言っていたら。

あの優しい口調で、困ったように眉毛を下げて、困りますね、と微笑んでいたら。

そう思うだけで胸が苦しくなる。心臓よりももっと深いところを握り潰されたみたいに痛くなる。

「ねえ、どうするの?」

 お父さん、帰ってきて、そういうふうに思っていたことを思い出す。でも、お父さんが帰って来ても、仕方がないから。お父さんには何もできないから。

「もう二度としません」

「何をしないの?」

「問題を、間違えない」

「それ、こないだも言ったじゃない」

 アクリルの棒がひゅうと鳴って、さっきとは反対側の腕に当たった。

「嘘つきだね。あなたは嘘つきだよ」

 嘘つき、嘘つき、嘘つき。

 嘘つき、と聞こえるたびに、痛いところが増えていく。

「嘘つき。お母さんとお父さんをがっかりさせて、あなたは最低だよ」

「ごめんなさい」

 私は、嘘つきで、最低の子供です。

 腕と膝が震えて、ごめんなさい、が言えなくなったとき、本当に反省しているならそこに座っていなさい、と言われる。

 本当に反省しています。

 こんな問題を間違えるのはバカだし、一生懸命働いて塾のお金を稼いでくれるお父さんとお母さんを裏切っているどうしようもない子供です。

 あと一時間くらいすれば、お母さんが来て、抱きしめてくれる。

『私はあなたが大好きで、世界で一番大事なの』

 そういうふうに言ってくれる。仲直りのハグをしてくれる。それで一日が終わる。

 分かっている。

 お母さんは私のことを一番に考えてくれている。

 私は恵まれている。

 クラスの誰よりも。

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