-Ⅰ

 折り返し地点から浮き沈みが激しくなった高校生活を送った彼方は、結局、水泳選手としてはそれほど優れた成績は残せなかったが、できないなりにこつこつと重ねていた受験勉強が功を奏したのもあって、地元の公立大学に入ることができた。それまでの生活の激しさに疲れていたのもあり、運動系のサークルに入る気はさらさらなく、ほとんどまともな活動をしないだろうという理由で身を置いた、地元の文化を研究するという名目のサークルに参加したものの、週に一回行くか行かないかといったところで本腰をいれもせず、最低限の講義を受け、さっさと帰るという生活を送っていた。

 高校時代とは打って変わって家に帰ってくるようになった息子に、両親はほっとしながら、再び姉を押しつけてきた。三年ほど前はあれほど嫌がった姉の世話だったが、この頃になると以前のような悪感情は消えていた。それは、姉が家を出るということがほとんどなくなったということや、廃屋で目撃した際の興味がいまだに継続していたというのが大きいのだろう。

 弱視が進行した結果、ほとんど使いものにならなくなった姉の目では、日常生活を送るのが困難になった。入学していた大学も、姉のような人間に対する受け入れ態勢が整っていなかったのもてつだい、休学の末、退学することを姉が決めた。当初、両親を含めた周囲は大学を説得するからと退学を翻意させようとし、それが無理だとわかるとあらためて聾学校付属の大学に移ることをすすめたが、姉は首を縦に振らず、家にこもった。周りの人間が、時間が必要なのだろう、と勝手に解釈したのもあり、姉は放っておかれた。そんな状態の年上の肉親の世話を、彼方は引き受けることとなった。

 とはいえ、突然外に出なくなった姉は、ほとんど手間がかからなかった。以前と異なり、ともにいることが苦になっているわけではなかったため、じっとしている姉の横で、本を読んだり、テレビを見たり、慣れない試験勉強や予習復習をしたりと、終始、穏やかな時間を過ごすことができた。元々、姉の方からかかわってくることがきわめて少なく、以前の内面の得体の知れなさのおそれが純然たる興味へと移り変わったのもあって、どちらかといえばその時間を好ましいものに思いはじめていた。こうした心の変化に戸惑いつつも、まるで吸血鬼のような生活を送る姉の傍に付き添っていた。

 時折、姉から携帯電話を差しだされ、読んで欲しいと頼まれることがあった。無愛想な姉は番号とメールアドレス以外の情報を登録していなかったのもあり、相手の名前は知ることができなかったが、時折玄関脇で電話していた時の声から男であるというのだけはわかった。おそらく、付きあっているのだろうと薄々感じとってはいたが、メールの粗野な男らしい文面を見て、あの日の廃屋の中で見て以来、聞けもしなかった姉の彼氏という存在の生々しさをようやく実感するにいたった。あの日と同じ相手かどうかまではわからなかったが、家での姿や過去からして、人付き合いがそれほど良くない姉が、何人もの男を捕まえているというのが元々持っていた印象にそぐわなかったのもあり、おそらく同じ相手だと推測した。

 だが、彼氏であるのならば目が見えないのを知らないわけではないはずなのに、なぜ、見えないとわかってメールを送ってくるのだろうか。そんな疑問とともに、彼方は顔も知らない相手に対して苛立ちを覚えた。

 ある日、メールを読んで欲しいと頼まれた際、思いきって、なぜ相手はメールを送ってくるのか、と尋ねた弟に、姉は、目が悪くなったことを言ってないから、とさらりと告げた。それを耳にして、たしかにこの年上の肉親の今までの行動からすれば、相手が誰だろうと自らの弱みをみだりに曝したりはしないなと思いあたった。しかし、別段、姉も好んで彼氏とぎくしゃくしたいわけではないなら、こういった不安要素はさっさと伝えてしまった方がいらぬ誤解を招かないのではないのか。今までの経験から、ほうれんそう、の重要性を実感していた彼方は、いらぬお節介だと自覚しつつも、そう助言してみせたが、姉はなにも言わなかった。

 彼方の見立てどおり、相手の男は無神経な性格だった。メールは終始横柄なもので、自分の都合しか入っていない文面を姉に叩きつけていた。それを言われた通り読みあげると、姉は指先を素早く動かして、そそくさと返信をした。メールの応酬は一晩中くりかえされ、彼方は舟を漕ぎつつ、返信の度に起きあがっては文面をつたえた。もっとも、ずっと文字だけのやりとりということは少なく、たいていは、途中で電話に切り替わり、姉は家の中でもあまり声が響かない場所に移動していった。さすがに盗み聞きするのは趣味が悪いと心得ていたのもあり、極力、耳にしないように心がけていたが、どうしても、物を取りにいく際に電話をしている肉親の傍を通らなくてはならない時があり、その際は、受話器越しですら響いてくる男の低い怒鳴り声を耳にすることになった。そんな時、姉は最低限の相槌で応じているにすぎず、彼氏の言葉を聞いていることがほとんどだった。よく聞いているようでもあれば、すべてを右から左へと聞き流しているようでもあり、相変わらず心模様はうかがえなかった。ただ、誰が相手であってもさほど興味を示さないような態度をとる姉が、多少なりとも相槌を打っているというところからすれば、それなりに楽しんでいるのではないのか、と勝手な推察もしていた。

 ほぼ一日中家に引きこもり、飯を食べ、排泄をし、風呂に入り、携帯を使い、就寝する。きわめて単純な生活サイクルに身を置いた姉は、以前にもまして美しさを増したように見えた。こうした自堕落な生活を送れば、幼年期のように丸くなってしまいそうなものだが、小食なためか節々が折れてしまいそうなか細さも相変わらずだった。加えて、弱い肌を守るために注意を払っていた日の光を、外に出ることがなくなって浴びなくなったせいか、肌は透き通ってしまいそうなほど色が薄くなっていた。その様は慣れていない人間が見れば、死相が出ているとでも言っただろうし、そばにいる時間が多い彼方や両親であっても、風に吹かれたら消えてしまうのではないのかと思ってしまうほどだった。そんな家族たちの不安をどこまで知っているか、姉は肉が少なくなったことでより目立ちだした顔の部品の一つ一つを呼吸や反射以外の目的でさして動かすこともなく、外に出る、という一つの日常が損なわれた以外は、今までどおりにふるまった。隕石が降って地球が滅びる寸前でも眉を少し動かすくらいで済んでしまうのではないのか。そんな風に疑いつつも、同じ親から生まれたとは思えないくらい整った姉の横顔を盗み見しながら、その世話で時間を潰していた。

 その最中も、彼氏の横柄さはより大きくなっていき、メール内の苛立ちも増していった。彼方は当初、できうるかぎり姉の送信メールを見ないようにしていたが、もしかしたら打ち間違えをして相手の機嫌を損ねているのではないのかと疑い、文面の一部をあらためたが、特におかしなところは見受けられなかった。おそらく、このようになる前から、折り合いが悪いのだろう、と推測し、そんな状態であっても、横柄な彼氏に付き合う姉の苦労を考えた。しかし、内面が見えない以上、下手なことを口にはできず、自分なりのお節介を少々焼く程度しかできなかった。

時折、それとなく母や父に相談を持ちかけてもみたが、姉自身が周りに苦しみをうったえていないのもあり、詳しい事情を勝手に説明するのがはばかられ、おおまかに彼氏と上手くいっていないらしい、という点くらいしか語ることができなかった。そんな息子の言葉に、両親は大げさだとでもいわんばかりに、その内良くなるだろう、とたかをくくったように応えた。彼方が姉のそばにいることが多くなったからか、あるいは今まで気を張り続けた反動からか。両親は肩の荷が下りた様子で、以前ほど姉への庇護意識を向けなくなっていた。

 何度か同じような話をして、そのことごとくが無駄に終わった。今のままでは周りからの助けを受けることができないと判断した彼方は、とりあえず、なにが来てもいいようにと、備えることに決めた。次第に、生活の中での存在感が増していく姉を見守りながら、以前であればほとんど寄せなかった心配の念を持ち続けた。

 そんな風にしていたある日の夜、姉が一際長い電話をした。ここのところ、母から毎月の電話代が高い、などという愚痴が漏れるくらいには彼氏との長話が増えていたが、それにしてもこの日はなかなか切れなかった。第二言語のフランス語の書きとりを面倒だと思いつつこなそうとしていた彼方も、いつまでも帰ってこない姉が気がかりなのもあってか、少しも集中できなかった。

 元より姉がほとんど喋らないのもあり、壁一つ隔ててしまえば、ほとんど声は聞こえてこなかったものの、この日の静寂はそれにしても深く、自然と心をざわついた。しまいには筆記用具を置いたまま、なにをするでもなく姉が彼氏と話しをするために出ていった扉の方を睨みつけていた。

 早く寝るようにと母親に注意されてから、どれだけの時間が経っただろう。なにをするでもなくぼぅっとしていた彼方の前で、扉が開かれ、姉が無愛想な顔で白磁の肌と青い目をさらしていた。姉は弟がいるのをみとめると、まだ、起きていたんだ、とばかりに一瞥してから、そばにやってきて隣の椅子に腰かけた。両親から聞いた通りの視力であれば、おそらく、彼方の輪郭を捉える程度しかできていないのだろうが、それでも、家の中の移動であれば、長年の慣れもあってさほど苦にしない。なにをするでもなく、気だるげな表情をしたまま目を細める姉を見ながら、彼方は、コーヒーでも飲むか、と聞いた。姉は薄く眼を見開いてから、紅茶がいい、ミルクと砂糖も入れて、と口にしてみせた。こういった細かな意思を伝えようとすること自体が珍しいため、やや戸惑いつつも、彼方はわかったと口にして、薬缶に火をかけにいった。薬缶の表面に映る自らの眠たげな顔を見返しながら、姉のどことなくらしくない様子を思い起こし、なにかあったんだろう、という確信を深める。そして、それが一般的にみれば悪い方面のなにかだというのも想像がついた。

 さほど時をかけずに砂糖を入れてかき混ぜた紅茶と無糖のコーヒーを作り終えた彼方は、おまたせ、と短く口にしたのちに、姉の前に紅茶を差しだす。ティーカップの取っ手に年上の女の指がかかるのを待ってから、ゆっくりと手を離した。姉は頷いてみせたあと、カップを自分の顔の前に持ってきてから、二三度息を吹きかけてから、一口。もうちょっと、砂糖を入れてもよかったかも。そう付け加えた姉を見て、やはり、今日はよく口が滑る日なのだろう、と判断し、じゃあ入れようか、と尋ねる。姉はカップをテーブルにおろしたあと、静かに首を縦に振る。彼方はシュガースティックをもう一本足してから、先程と同じ動作でカップを持たせてから、コーヒーを口にする。あらためて、甘い、と口にした姉とは真逆の味に舌を浸していると、ぼんやりとしはじめていた頭が働きはじめるのを感じた。

 しばらくの間、室内灯に照らされた居間から言葉は消え、コーヒーと紅茶を啜る音が静かに響くのみだった。彼方は舌先からつたわる苦味が少しずつ温さをともなっていくのにあわせて、ゆったりと時間が流れているのだろうなと察しつつも、テーブルの上に置いてある目覚まし時計の文字盤を確認する気にはならず、紅茶を口につけてはカップを持ちあげたまま黙りこむ姉を眺めていた。彼方の中に、特別な考えがあったというわけではなかったが、なにかを待っているという感覚が、胸の中を漂っていた。

 やがてカップの中のコーヒーがなくなりかけ、もう一杯おかわりしようか悩んでいた矢先、姉がティーカップをテーブルの上にゆっくりとおろした。その中には、肌色の絵の具を流しこんだようなミルクティーが、最初にいれた量の半分ほど残っている。その色合いに、なぜだか、気色悪さのようなものをおぼえて目線をそらした彼方は、自分のカップの中にあるものを飲み干すが、先程まで気にならなかった冷めた感じがどうにも受けつけなくなっていた。とはいえ、いつまでも見ないというのもどこか具合が悪かったため、再び振りかえる。姉はもう手元のカップに触れる様子を見せもせずに、つまらなさげな顔をして目を固くつむっていた。眠っているのか、と疑った彼方は、普段の世話をしている時の習慣にしたがって、自分の椅子の後ろにひっかけてあったストールを手にとって、姉の肩にかけようとした。

 寝てないから、放っておいて。さほど音を立てなかったにもかかわらず、気配を察知したのか、姉は淡々とした物言いで、彼方を突き放した。その声音はとても静かなようで、どこか苛立ちを含んでいるように聞こえた。いよいよ、時が来たのだな、と理解する。

 なんかあったのか。これまで、必要以上の事柄を聞こうとしたことが少なかったのもあり、彼方は姉にどう聞くべきなのか、と迷いかけたが、どのみち気の利いた言い回しなどできないと思い、まっすぐに尋ねてみせた。

 なにもない。少し間を空けてから返ってきたのは、姉の素っ気ない声だった。抑揚が少ないせいか、その言葉が嘘であるのか本当であるのか判断しかねたが、最初の直感を信じ、前者であると受けとった。

 けど、なんか、心がここにない感じだし、なんか、いつもと雰囲気が違う。拙い印象をまとめて言葉にしてぶつける彼方の前で、姉は目を瞑ったままでいた。まるで、心を閉ざしてしまったかのようだと評しそうになったが、いつも通りだなと思い直す。やはり、答えは返ってこない。もしかしたら、聞かなかったことにされたのかもしれないと、再び、同じ言葉を言い直そうとも考えたが、昔から姉は耳が良く、眠っていないのならば間違いなく聞こえているはずだった。煩わしさをそれほど好まない姉に同じような事柄を口にしたとしても、うっとうしがられるだけだと、数が少ない昔からの経験則で判断し、それ以上、言い足さず、答えを待とうと決めた。たとえ、何時間経とうとも待とうと。

 ……結局、その日、彼方は座ったまま眠ってしまい、いつの間にか一人で寝床にはいったとおぼしき姉とは対照的に、母親からお叱りを受けた。大学生にもなって、このようなくだらないことで説教を受ける自らを恥じながら、頭の中にあるのは、姉が昨日あったなんらかの出来事を口にしたのか、という一点だった。昨日姉に降りかかった出来事を目にしたり耳にしたりしなかった彼方からしてみれば、それはないも同然の出来事であるのにおおむね間違いなかったものの、もしかしたら、寝息をたてている自分の前で、姉が秘密を口にして、僅かにであっても表情をゆがめたかもしれない。そんな場面があったのではないのかという都合のいい想像をしてから、上手い寝たふりができれば、その貴重な瞬間に立ち会えたのではないのかと。

 とはいえ、表情こそ変わらなかったものの、その日から姉の携帯電話は家族からの連絡以外は届かなくなったようだった。つまりはそういうことだろう、と彼方は解釈した。

 以降、塞ぎこむというわけではなかったが、姉の生活は更に簡素化し、より口数も減った。両親と弟の視線も、まるでその場にないものみたいに受けとる様は、同じ空間にいるにもかかわらず、一人だけなんらかの壁に隔てられているようですらあった。そのことを象徴していたのか、両親が急激に老いていくのに対して、姉はいい意味で変わらず、むしろ整った顔立ちがより強調されていくのが窺えた。ここのところ忘れかけていた、姉が目立つという事実は、電灯を消している際の幻想的なたたずまいに後押しされた。近付けば、姉が呼吸をしているため辛うじて生きているのだと理解できたが、遠目から眺めている際は、まるで、人形のようではないのか、と勘違いしそうになった。このままではいずれ椅子に座りっぱなしになり、本当にマネキンになってしまうのではないのだろうかと。

 そんな日々がしばらく続いてから、彼方は姉を外に連れだそうと思いたった。それらしい理由をみつけだそうとすれば、今だに見たことがない姉の大きな内面の動きを見るきっかけになるかもしれないだとか、このまま放っておけば本当に家にこもったまま固まってしまうのではないのかとか、ただ単に姉とともにここにいるのに飽きてしまったのだとか色々と考えつける。おそらくどれも正解ではあるのだろうが、とにかく、そのような提案を持ちかけた。例のごとく、姉は時間をたっぷりかけてから首を横に振るのみだった。ほぼ予想通りの反応だったのもあり、たまには外の風を浴びた方がいいだとか、どこか行きたいところはないの、などという言い回しをして、交渉を試みた。あまりにもつれない姉の反応に、根負けしそうになったが、その場その場では説得をあきらめても、また後日には同じように外出をすすめてみせる。もっとも楽しいと思っていた高校時代の前半とはまた違ったおっとりとした充実感が指の先の隅々まで浸っていくのをおぼえながら、懲りずに、外に出よう、と訴え続けた。

 なぜ、こんなにも真剣になっているのだろうか。たいした考えもない思いつきだったはずなのにもかかわらず、うんざりするくらい姉にせがむ自らの様を、彼方は不思議に感じた。なにか惹きつけられるものがあるのはたしかだったが、いったい、それがなんであるのか。考えれば考えるほど頭に浮かぶのは、なんとなく中学の時と同じように散歩をしたくなっただとか、家とは別のところに行けばいつもとは違う姉が見られるのではないのか、などといった思いついた時に浮かんだのと似た理由だけだった。

 姉は最初こそ、繰りかえされる誘いに、またかというような目をしたが、弟が根負けしないのを見てとったあとは、いたっていつも通り、少しも動じなくなった。そこに彼方は、残念さをおぼえつつも、呼びかければ呼びかけるほど、あきらめるのが嫌になっていたため、粘り強く訴えかけた。ただ、これがあくまでも、一緒に外に出て欲しいというわがままであったのも自覚していたため、姉が思い通りにならないからといって、熱くならないようにと自らを戒めた。その場に居合わせた親が何度か、一緒に行ってあげれば、と息子に助け舟を出そうとしたこともあったが、姉は変わらずに首を縦に振らなかったし、彼方もまた、誰かの助けを借りたうえでともに外に出たいというわけではなかったため、それ以降は、できるだけ二人きりでいる時のみ、外出の希望を口にするようになった。しかし、姉の答えは一向に変わらない。

 提案を持ちかけてからというもの、何月もの時がゆるやかに過ぎ去っていった。彼方もこの件にばかり集中していたというわけではなく、以前より人との付き合いが減ったとはいえ、大学生としての生活があり、ずっと、姉のそばにいたというわけでもなかった。ただやはり、頭の片隅には、いつか姉を外に連れだす、という目標が常にあったので、機を見ては頼みこんでいた。姉はこの頃になると、首を横に振るのも億劫になったのか、表情すら動かさずに無言で応じるということが増えた。やはり、家の中で人形になることでも望んでいるのだろうか。そんなことを考えつつも、お願いを繰り返した。

 もう姉は一生、家の外に一歩も出ることはないのではないのか。そんな思い抱きかけていた彼方の前に、転機は突然訪れた。

 冬のある朝のニュースで、今夜月蝕が見られるという情報が流れた。

 彼方、今日は暇。

 名前を呼ばれたのがあまりにも久々だったのと、前触れもなく放たれた言葉だったため、答えを返すのに時間がかかった。まさか、という予感に震えながら、大丈夫だ、と彼方が口にすると、姉は少し間を置いたあと、素っ気なさを保ったまま、月が消えるのを見に行きましょうか、とぼそりと呟いた。

抑揚のない声音からはやはり、依然として姉の真意を読みとることはできない。とにもかくにも、外に出ようと決めたのはたしかだった。おそらく、言葉通りの意味しかないのだろう、と思いながら、すぐにある懸念が浮かびあがる。ともに暮らしている彼方には自明のことであり、当事者である姉もわかっているはずの事柄だった。

 けど、姉ちゃん、今の目で月蝕が見えるの。せっかくやる気になっていた姉に水を差すことになるかもしれないと思いつつも、気付いたからには確かめずにいられなかった。

 きっと見えるでしょ。すぐに返ってきた答えは、自然体のようにも無理をしているようにも受けとれた。仮に見えなくたって、見に行きたい。控え目に付け加えた姉に、彼方はなにも言えなくなってしまった。

 その夜、事前に月蝕が一番良く見られる時刻を調べたのち、二人で厚着をして外への一歩を踏み出した。寒い。開口一番に姉はそう言った。ずっと、室内にいた人間からそうだろうな、と妙に納得しながら、カイロを差しだして持たせる。姉はいきなり掌の中にあらわれた熱のせいか、珍しく驚きをあらわにしたが、すぐに表情を消して黙りこんだ。お礼でなくともなにか言って欲しかったな、などと思ったあと、あまり見られない姉の顔を目にすることができたので、良しということにした。それからすぐに姉が掌を差しだしてきた。カイロをつき返そうとしているのか、と最初こそ思ったが、よく見れば暗い青の手袋につつまれた掌は、なにも持っていない。捨てたのではないか、という想像をしている彼方に、姉はゆったりと唇を開く。

 どこに行くか知らないから、連れていって。言われてから、今の姉の視界では外を歩くのすら危険だという事実に思いあたる。

ああ、わかった。控え目に手を取ると、布の表面のやや冷たくふわっとした感触に、その中から伝わってくる人肌の熱がつたわってくる。掌を優しく掴み、慎重に歩きだした彼方は、空がよく見えそうな場所に思いをめぐらせた。ただ、見るだけであれば、最悪、家のベランダでもよかったが、月の光が消えた時、できうるかぎり、たくさんの星が見えた方がいいだろう、と当たりをつける。彼方の目の中には、ぶらんこに座って空を見上げる中学時代の姉の姿が焼きついており、晴れの日の散歩を好んだのは、おそらく、星を見るためなのではないのかと今更になって想像を膨らませる。本人にぶつけてみても、答えが返ってきたことはなかったが、おそらく、そうであろうと、と勝手に決めつけた。

 できるだけ暗い場所に行こうと決めて、姉の手を引いていく。後方に物言わぬ気配を感じつつも、彼方の中では果たして姉は月蝕を見られるのだろうかという懸念が消えない。とはいえ、朝に言っていたように、もしかしたら見えるのかもしれないのだから、条件だけは最良のものを選んでおく必要があった。

階段があると説明してから一段一段たしかめるように下っていき、見慣れた歩道で車道から遠ざかる一方で車や自転車に注意し、傾斜があると説明してからなだらかな坂をゆっくりと上り、やや栄えた商店街を横切ったりした。地元であるゆえに、彼方は時折知り合いと顔を合わせ、簡単な挨拶をかわしたが、極稀に姉を知らない人間ともすれ違い、好奇の視線をそそがれもした。その度に一応後ろを振り向いてみるものの、姉が他者の視線に対してなにを思っているのか、あるいは視線に気付いているのかいないのかすらよくわからなかった。細かな心配をするかたわら、昔はともにいるのすら恥ずかしいと思っていたはずなのに、おかしなものだと苦笑いをした。その際、一瞬だけ、姉の目が彼方を見ているような気がしたが、振り向いてみても、ただ目蓋を閉じ、控えめに手を握っているだけだった。

 その後、数十分歩いてから、ようやく目的地に辿りつく。町外れにある教会の脇は、玄関のあたりに薄い灯りが一つあるばかりで、少し離れると、辺りは暗闇に包まれた。近場を選ぶというのであれば、家のすぐ近くの糸杉に挟まれた暗い通りという手もなくはなかったが、あの場所にいると彼方の中の怖がりが顔を出すことと、せっかく久々に姉が外に出たのだからできるだけ遠くに行きたいという気持ちが合わさったのもあり、こうして家から少しばかり距離があるこの白い三角屋根の教会の傍を選んだ。

 久々に長い距離を歩いたせいなのか、姉はわずかに息を切らしていた。彼方の中には、気遣いが足りなかったかもしれないという思いと、珍しい顔が見られたという悪戯心が混じりあっていた。

 ほら、もう、消えかけてるよ。空を指差すと、すでに上空の月は、三分の二ほどが消えており、周りに浮かぶ星々が次第に輝きを増しはじめているようだった。彼方自身も、月蝕という現象を知ってはいったものの、あらためて見ようとしてこなかったのもあり、少しばかり楽しみにしていた。姉は軽く頷いてみせたあと、天をあおいでから、目を凝らすようにして細めてみせる。彼方は自分が空を見上げるのもそこそこに、その横顔を観察する。姉は尖らした目で睨みつけるようにして上を向いていたが、その視線は消えかけた月とは見当違いの方へと注がれていた。何度も位置調整をしようと細かく瞳孔を動かしているのがみとめられたが、一度として消えかけの月をとらえない。

 こっちだよ。しばらく、姉のするままに任せていたが、月が完全に消えてしまうまでに間もないと判断し、姉の頬に手をかけて首と顔を動かしてみせた。姉は一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに何事もなかったようにされるがままになった。正しいところに視線が向けられたのを確認したあと、彼方も再び天をあおいだ。もう間もなく食われつくしそうな月を見つめたまま、暗闇の中で響くのは、冷たい風の音くらいのものだった。

 どのくらい見えてる。月蝕が終わるまで答えは返ってこないのではないのか、と覚悟しての問いかけだった。

 ほとんどなんにも、ただ少しなんか光っているなってくらい。思いのほか淀みなく返ってきた姉の声音は、いつもと変わらず聞こえた。この瞬間であれば、今まで見たことのない姉の心の内の一端を垣間見ることができるかもしれない。そんな気持ちがなくもなかった。しかし、そこにあるのがどんな顔色であったとしても、今見るのは、なんだか気が退けた。

 今日くらいは、見えるんじゃないかなって、思ってたんだけどね。なんでもないといった調子で口にされた姉の声の透明さが、彼方には痛々しく聞こえた。

 そもそも、こうして外に連れて行こうと思いたったことすら、あまりにもなにも考えなさすぎだったのではないのか。ここ数ヶ月間、夢中になってしていた提案が、彼方には急に空虚なものに感じられた。ただ一緒に歩きたいという弟なりの気持ちでした提案がもたらすものを、姉は誰よりも理解していただろう。ずっと断り続けた理由が、彼方の考えた通り、目に関するものであると断定することはできなかったが、少なくとも姉と同じ立場であるのならば、見えない、というのはそれだけで心にとって相当の負荷になるにちがいない。たとえ、幼い頃から目が見えにくいという環境に慣れ親しんでいたとしても、見えにくい、と、ほとんど見えない、とでは大きな違いであるのは想像できた。

 どうして外に出るのを頑なに拒んだのか。今であれば、その答えは返ってきそうではあったが、彼方には踏みこむ勇気はなく、もう少しで完全に影に食われてしまう月を眺めるほかなかった。

 姉が少しも動く気配がしないところからすれば、一心に目を凝らして細くなっていく月をとらえようとしているのだろう。ほとんど、が、わずかに、であってほしいと願いながら、彼方はできることはないかと考える。もっとも、月蝕を見に行こうと言ったのは姉自身であり、なにか手助けをしようという心自体におこがましさがあるのかもしれなかったし、彼方の思いに反して、この年上の肉親は外に出たのに満足しているのかもしれなかった。だが、このままじっと月が隠れてしまってから再び顔を出すまでの間、指を咥えたままでいれば、自らの心に大きなしこりが残ってしまう気がした。この場でできうる最良の行い。答えは存外、早く導きだされる。元々、この場でできることなどかぎられており、効果をあげそうなものともなれば、数少ない。問題となるのは、実行するかしないか、そして実行に移したとしても上手くこなせるかどうかという点だった。それらの要素を頭の中で照らしあわせてみるに、彼方の思いつきを上手く実行できるかは怪しく、なにもしない方がいいのではないのか、と楽へと流れていくのが無難に感じられた。間もなく、完全な月蝕があらわれる以上、考える時もほとんどなかった。だからこそ、彼方が、思いつきを実行に移すと決めたのは、自らの直感にしたがっただけであり、とりたてて深い考えがあったというわけではなかった。

 金色の細い線が円の周りを覆っていて、薄らと、光が漏れている。

 できうるかぎりゆっくりと、そして見たままの事柄を口にする際、彼方は心臓が喉から今にも飛びだしそうなほど緊張していた。隣からはなんの反応も返ってこず、どのようにとらえられているのかもわからなかったが、かまわず、彼方は次なる景色を目に映す。

 ちぎれた鼠色の雲の間で輝く多くの星たちは、一際、強い光を放っていて、いつもよりどこか澄んで見える気がする。

 言いながら、自らの語彙のなさに彼方は歯を噛みしめた。星がたくさん並んでいるのはわかっても、そこから星座を見い出すための知識はなく、こんなことならば、もっと勉強をしておけばと後悔する。少しだけ、目を動かせば、姉がどんな顔をしているのかある程度うかがえるだろうが、そこであまり見たくない表情があることに対するおそれや、いつも通りの仏頂面があった場合のなんともいえない気持ちを考えると、いずれにしても、気勢を削がれてしまいそうだったので、振りむきもせずに、口を動かし続けた。もっとも、彼方自身が持ちあわせる言葉がそれほど多くなく、すぐにネタが切れてしまい、あえなく似たような言葉を使ったうえで、どこかしらに目立った変化があらわれた時を狙ったうえで話していった。

 三角屋根の上で起こっている月蝕が終わるまでの間、喉がからからになりそうになりなつつ、彼方は口を動かし続けた。脳から慣れもしない言葉を絞りだしていく作業は、勝手がわからないのもあってたどたどしいものであるうえに、どのように相手に受けとられているのかわからないということへの不安から、生きた心地すらしなかった。いつまでも続くのではないのか、という長い時間。まるで、夜明けを待っているような気持ちで、ただただ、必死に考え、声を振り絞り……

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