真相

「なんで……どうして、お前が……」と吉田が言葉をこぼすように僕を見てきた。それから僕の手の中にあるそれを見つめ返す。


 そこに握られている、『印刷博物館』と書かれた1枚のチケットを――。


「な……、何言ってんのお前。探してるって、は? んなわけわかんねぇチケットを? こんな河原で? ばっかじゃねぇの。チケットっつーのはな、こんな場所で買えるもんじゃねぇんだよ。そんな事もわかんねぇの?」


「それともなに、金魚のフンくんはついに知能まで金魚のフン並にでもなっちまったんですかー?」言いながら吉田が自分の頭を指さした。親指をたて、人差し指の先をぐりぐりと頭に押し付ける。まるで銃口をつきつけているような光景に見えた。バカにしたような笑みがその顔に浮かび、ニマニマと僕を見つめてくる。


 けれどその双眼だけは笑っていなかった。茶色い2つの瞳。それがぐるぐるとあちこちを彷徨っている。


 まるでマウスポインタのようだと思った。検索のかけられたワードの意味をネットの海から探そうと、必死に処理を続けている事を示すマウスポインタ。それが僕の脳裏に思い浮かぶ。


 そんな処理落ち気味のマウスポインタを前に、僕は1つしかない検索結果を突き返した。


「これが証拠品だからです」

「は……」

「このチケットが、あなたが山里千里を殺した証拠品だからです」


 吉田に見せつけていたチケットを、その存在を主張させるように僕は揺らした。縦長のチケットの下部分を持ち、ひらりと薄っぺらいチケットを揺らす。


「な、なんだよ、それ、何言ってんだよ、は? 俺が誰を殺したって? 山里千里って、今日ニュースになってた事件だろ、あれは殺人鬼Xが殺したって言ってたじゃねぇか」

「だから、その殺人鬼Xがあなたです」


「正確には、殺人鬼X本人というよりは、殺人鬼Xを模倣して山里千里を殺した犯人があなたです」続けた言葉に吉田が顔を歪める。

 戸惑いと困惑――そして、入り交じる怒り。歪な3種の感情を抱いた表情、その顔の上に生み落とされた。


 山里千里を殺した犯人は、吉田圭人である。


 僕がその結論に至ったのは、警察署から帰宅をし、洗濯物を畳みながら、山里千里とのこれまでの事を思い出していた時の事だった。


「……本日、僕のところに2人の刑事が来ました。山里千里の事で何か話が聞けないかと、そう仰っていました」


 ゆっくり、淡々と、できる限り感情の起伏は見せず、小さな子供にわかりやすく説明するように、僕は吉田に自分のところへやってきた2人の話をした。

 刑事、という単語に、吉田がびくりと肩を揺らす。「刑事って……」とあからさまな困惑が混じった呟きが僕の耳を掠めたが、無視をして僕は話を続ける。


「吉田さんは、山里千里の遺体がいつ見つかったかご存知ですか」

「はあ? んなの、今日の朝の事だろ。それこそニュースで言ってただろうが」

「そうですね。では、山里千里が亡くなったのはいつの事でしょうか」


「あ?」と吉田が僕の言葉に目を瞬く。言われた意味がわからないとでも言いたげだった。

「いつって……。昨日の晩とか、そういうんじゃねぇの」、眉間にしわをよ寄せながら答えてくる。


「そうですね」と吉田の言葉に僕は頷き返した。

「――殺人鬼Xに殺されていたのなら、きっとそうだったでしょう」そう、言葉を続けながら。


「んだよ、それ。どういう意味だよ」吉田が僕を睨みつけてくる。

 刺し殺すような視線の圧が、僕の身体につきささり、チケットを持つ手が、じとりと汗でにじむのを感じた。山里千里と出会った時のようだと思った。けどあの時なんかよりも、にじむ汗は冷たかった。


 ふいに逃げたい衝動に駆られた。今直ぐこの場から逃げて、どこかへ行きたいと思った。


 自分を見てくるこの人物から逃げたい。あからさまなまでの嫌悪で満ちた視線。それと真っ向から向き合うには、僕の精神はあまりにも弱く脆すぎる。

 足の震えが止まらない。心臓がうるさく鳴り続けている。きっと、今気を抜けば、僕の意識は簡単に遥か彼方へ飛んでいくだろう。だらだらと背中を伝う嫌な汗に誘われるように、ごくりと僕の喉がつばを嚥下する。


 けれども、


「そのままの意味です。もし本当に山里千里が殺人鬼Xに殺されていたのならば、彼女が死んだのは昨晩、もしくは本日未明頃の事だっただろうと、そう言っているのです」


 先と同じ意味の言葉を吉田に向けて述べる。

 チケットを持っていた手をおろし、チケット越しに見ていた彼の目を、真正面から、真っすぐに、真っ向に見返す。


 話さなければならないと思った。全てちゃんと、自分の考えを言わなければならないと。他人と通じ合えない、理解し合えない、皆の中に馴染む事ができない異物だからこそ、声をあげなければいけない、と。


 でなければ僕はきっと一生、何者にもなれないまま終わる。誰かの何者かになるには、醜くても酷くても見当違いでもいいから、声をあげ、その存在を主張しなければいけないのだ。

 なぜなら人間は、この世に誕生して以来、ずっとそうやって生きてきたから。言語もない頃から、人間は皆、誰かに何かを伝える為にその方法を模索してきた。


 それを作る事で、自分が居た事を残そうとするかのように。あらゆる方法で歴史に、そこに何者かが居た形跡を残し続けてきた。

 なんでもいいから、何かを残さなければ、僕は何者にもなれないまま、きっとこの世を去る。誰にもその存在を知られないままに。


 何者でもいい。何者でもいいから、誰かの何者かにならなければいけないと思った。

 でなければ、「友達になりたい」と笑った彼女の存在が、何も残らない気がした。


「誰かの何者になりたい」と願った何者かが居た事を、誰も知らないまま終わる。


『何者』かになりたいと願わなくてもなれる者が、誰かの何者かになれるのに。

 本当にそれを求めた人間が、何者にもなれずに終わるなんて。


 そんなの、

 あんまりではないか。


「……今まで殺人鬼Xに殺されてきた被害者は、皆、必ず前日の晩からその日の明け方頃に殺されていました。だから山里千里の遺体が今朝方見つかったと言われた時、僕は山里千里も今までの被害者同様に、その前の晩に亡くなったのだろうと考えたんです。ですが、」


 刑事から聞いた話を思い出す。彼が語ってくれた、山里千里の遺体が発見したという人物の証言を。


「臭いがしたそうです。何か鼻につく臭いが。山里千里の遺体が発見される前に」


 ツン、とする筈のない香りが僕の鼻をかすめた気がした。嗅ぎ慣れた鼻につく香り。今はもうここには居ない人物の香りが、僕の記憶の中からよみがえってくる。

 私は確かにここに居たのだと、そう訴えるかのように、そう訴えろと告げるように、記憶の中の残り香が僕の中に浮上する。


「……最初にこの話を聞いた時、僕は山里千里から香ってきた香水の事でも言っているのかと思ったんです。彼女はいつだって鼻にくる香水をつけていた。だからあの日も……、僕と最後に別れた日も、彼女はいつも通りに香水をつけていた。だから、きっと死んだ時も香っていた筈なんだ。見つけたのは男の人だと聞いたから。僕と同じ男の人なら、あの香りはきっと嫌になるだろうと思ったんです」

「お前、何言って、」

「でも違った」


 吉田の言葉を遮り、僕は言葉を続ける。

 じとりと冷たい汗に体温を奪われた手が、ついに小刻みに震えだす。僕の脆弱な精神が生み出した嫌な汗が、額を首を背中を流れ始め、腹の奥底で何かがぐるぐると渦巻き、自分の意思とは真逆に苦いものをせり上げさせてくる。

 存在する筈のない香りが僕の記憶から腹の中をかき乱していくのを感じる。


 それを間違えて吐かないように、今吐くべき言葉を吐くように、ぐぅっ、と腹に力を入れて、何食わぬ顔をして、僕は目の前の人物に向けて言葉を吐き出す。


「あり得ないんですよ。普通に考えて。たとえ香水をつけていたとしても、それを感じられる範囲というのは、基本的に決まっている。刑事の話では、男性は臭いを感じてから、しばらくの間、その臭いの元を探したそうです。つまり、その臭いというのはそれなりの広範囲で香っていたという事です。そんなの、香水如きの香りじゃできっこないんですよ」


 数時間前、スマホで調べた様々な情報が僕の脳裏をかけゆく。

 香水の持続時間は、ものにもよるが、長いものでも6、7時間程度しか持たないという。もし山里千里が昨晩殺されたとしても、朝になる頃にはその香りは薄れている筈だ。

 死体が自分で香水をつけ直すなら別だが、そんなB級ホラー展開が現実世界で起こるわけもない。


 それでは、山里千里がさせていた臭いとはなんだったのか。男性が山里千里に気づく事になった臭いとは。死んだ山里千里が漂よわせていた臭いとは。


 そんなのは1つしかない。

 死者がつけられる香りなど、この世にはたった1つしか存在しない。

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