Xと☓(ばつ)

 メインとなる展示室の入り口は、通路の奥にあった。


 黒い天井からぶら下げられたいくつもの電球達が、広い展示室内を照らす。ショーケースに飾られたいくつかの歴史的展示物に加え、それらを説明するパネルや、かつての印刷所の光景を映したものと思われる映像が流されていた。


 古代から中世、中世から近代。入り口からぐるりと時計回りをして回っていく形で、展示されてる物の時代が変わっていく。それを1つ1つぼんやりと眺めながら、僕らは展示室内を歩く。

 流石はマイナージャンルの博物館なだけあってか、休日の割には展示室内に人はあまりおらず、好きなだけのんびりと展示を眺める事ができた。


 展示室奥には小さなガラス張りの工房があった。山里千里が「活版印刷工房らしいよ」と館内案内図を見ながら言った。すっかり案内役が身についてしまっていた。


「そういえば、私達のチケットって、活版印刷体験付チケットだったね」

「やるんですか」

「やらずしてどうするのよ」


「やれる事は全部やる。人生は有限なんだよ、ノートくん」と山里千里が腰に手を当てた。

 陳腐なセリフだなぁ、と思いながら、僕は山里千里に押されるまま活版印刷を受ける事になった。


 工房内には、僕らと同年代ぐらいの女性グループがいた。期待に満ちた瞳と声で作業台を前に話す彼女たちのさまからは、彼女たちがこの体験の為に博物館に訪れた事がわかった。どうやら思ったよりも人気のある体験だったらしい。

「なんて書こうか」と内緒の話をする子供のように無邪気な彼女達の声が、工房室内に賑やかに響き渡った。


 工房を担当する職員が、いくつかある作業台の内の二台を僕らに貸し与えてくれる。エプロンを身に着けた、目元の優しげな還暦間近と思しき男性職員だった。


 活版印刷についての説明を受けながら、体験に取り掛かる。

 作業台の上には、アルファベットが1文字ずつ刻まれた鉄の判子のようなものが容れられた棚が置かれていた。この鉄の文字を並べて上にインクを塗り、紙に印字をする、というのが活版印刷の印刷工程だという。本当に判子のような印刷作業だった事に、ちょっとだけ驚く。


 職員が、僕らに棚の中から好きな文字を選ぶように言う。「選んだ文字は作業台の上に置かれている文選箱の中にいれてください」と、誰も居ない作業台の上に置かれていた、手のひらサイズの棚のような箱を僕らに見せてくる。

 言われたとおりに、僕らはそれぞれの机上に置かれた文選箱を手に取り、文字選別に取り掛かった。


 しかし、好きなようにと言われても、すぐにあれやこれと出てくる程、僕の頭はよくない。

 どうするべきかと迷っていると、「Xってさ」と山里千里が口を開いてきた。


ばつマークみたいだよね」

「は?」

「だから、Xだよ、アルファベットのX。これ、ばつみたいだよね」


「なんでこんな形してるんだろうね」と山里千里が言いながら、Xと書かれた鉄の判子を手にとった。何かを品定めするかのように、彼女の漆黒の瞳がXの文字を眺め始める。


 どうして山里千里がそんな話をしてきたのかはわからなかった。が、彼女がわけのわからない雑談をする事はいつもの事なので、気にしても意味ないだろうと思う事にした。


 その代わり、ふと、僕の脳裏に隣人の事が思い浮かんだ。Xという言葉のせいだろう。殺人鬼Xという、その名称と紐付いたのだと思う。


 山里千里と交流が始まった今も、隣人は変わらずあの部屋に住み続けていた。

 時折聞こえてくる物音が、彼がまだそこに居る事を僕に教えてくれる。最初の頃にあった隣人に対する恐怖は、もう僕の中にはあまり残っておらず、あぁ今日もまだ居るなぁ、とかそんな事をぼんやりと考える程度に収まっている。


 殺人鬼Xの捜索に関するニュースは、未だに世間に流れ続けている。今のところ、目立った進展は起きていないようだった。そのせいか、先日ついに警察は捜査範囲を広める事を決めたらしい。今はまだC県内だけの捜査となっているが、僕が住む県もそこに加わるのは時間の問題だろうと思った。


 もしそうなった時、隣人はどうするつもりなんだろうか。やはりここを出ていくのだろうか。

 1人でこっそりと、今もそうしているように夜にでも出ていくのかもしれない。


 そもそもどうして、彼は人を殺したのだろう。いくつもの殺人鬼X関する記事は目にしてきたが、その動機に関して詳しく語られている記事はなかった。そういう悪趣味な事件を取り扱った掲示板サイトやスレなんかも覗いてみた事もあったが、飛び交うのは他人の推測のみで、それを擁護したり、否定したりする当事者以外の言葉でしかなかった。彼本人の言葉はどこにも転がっていなかった。


 Xはばつマーク。山里千里の言葉を頭の中で反芻してみる。


 それになんの意味があるのかはわからないけれど、何か意味を持つものになるのではないかと思った。少しでも殺人鬼Xの動機を知る手助けになるのではないか、と思って首を横に振った。


 そんなもの知って、一体なんになるというのか。第一知ったところで、僕は一体どうしたいというのか。

 山里千里の言葉を借りるなら、僕らはただの隣人である以上の『何者』でもない。そんな人間が相手の事を知ろうとしてなんになる。そもそも相手は殺人鬼だ。下手をすればこちらが死ぬだけだろう。


 ……そうとはわかっているのに、どうしてか考えてしまう。なぜ隣人は人を殺したのか。その気持ちをわかり合う事は本当にできない事なのだろうか、と。


 返事のない僕を不審に思ったらしい山里千里が、「ノートくん?」と僕を呼んできた。ハッと我に返り、山里千里を見返す。


「どうかした?」

「いえ、特に」


「Xが☓に似てるなら、☓もXに似ていると言えるのかな、と思っていました」と適当な事を言えば「はは、なにそれ意味不明」と山里千里が笑った。彼女にだけは言われたくないセリフだった。


 結局、好きな文字が思い浮かばなかった僕は、「なんでも好きなもので大丈夫です。自分のお名前を印刷する方も居ますよ」と補足してきた男性職員の言葉に従って、自分の名前を印刷した。


 名刺サイズの小さなポストカードに印刷された黒い墨の名前を見て、山里千里が「普通だね」と言った。「変な事を書くよりマシですよ」と僕は山里千里の手の中カードを盗み見した。『YAMASATO CHISATO』。人の事を言えない文字が、カードの中に印字されていた。


 カードは体験の記念という事で持ち帰れる事になった。名刺サイズのそれをズボンのポケットにしまい、山里千里と共に工房を出る。


 その時、女性グループ達が、ちらりと山里千里の方へ目を向けた。どうやらメインの活版印刷が終わったので、それ以外の周囲の光景も目に入る余裕が出たらしい。大学の人々と同じような眼差しを山里千里の方へ向ける。 


 だが、いつもと違ったのは、その次に僕の方にも視線が向けられた事だった。

「ねぇ、あの人達、」とコソコソと話をしている声が僕の耳に届く。「恋人同士かな」「恋人にしてはあんまり釣り合ってなくない」「ちょっと失礼だってばー」――。


『恋人同士』聞こえてきた言葉に、思わず彼女達の方を振り返りそうになった。まさかそんな風に、自分と山里千里が見られるだなんて、予想だにしていなかったからだ。


 僕と彼女が釣り合っていない事は、正直自覚していたので、何も思う事はない。同じぼっちでも、美人な彼女と取り柄が何一つない僕とでは、存在に雲泥の差がある。

 月とスッポン、天と地。この世に存在する、全ての『対比』の意味を司る言葉が僕らにはきっと似合う事だろう。


 そんな僕らが、まさか恋人と見られる日が来るとは。だが、よく考えれば男女が2人きりで出かけているという姿は、他者から見ればそういう関係に見えなくもない光景なのかもしれない。

 とすると、僕らの関係を何も知らない彼女達からすれば、そう捉えてしまう事も致し方ない事なのかもしれない。


 なるほど、これが視点転換というやつか、と納得する。

 と、そこまで考えて思考が止まった。僕らの関係とは、なんなのかと。


 山里千里は僕と友達になりたいと言った。けどそれはあくまで、そうなりたいという山里千里自身の願望にすぎない。


 それではつまり、僕と山里千里は今、互いにとって一体どのような関係にあたる人間なのだろうか。


「何者かになりたい」と言った山里千里の言葉が脳裏に浮かぶ。

 僕と山里千里は、今、互いにとって『何者』であるのだろうか。


 僕は――、山里千里の『何者』になりたいんだろうか。


 なんとも言えないモヤが腹の底で渦を巻いた気がした。なんだろう、と思わず腹に手を当てる。答えは出なかった。


 帰り際、「ミュージアムに寄りたい」という山里千里の言葉に従って、1階にあるミュージアムショップに寄った。

「何か買うんですか」と尋ねれば、「うん」と山里千里が頷き返してきた。


「お土産、買おうと思って」

「家族の人にですか」

「ううん、チケットをくれた人に」


「お礼のお土産」続けられた言葉に、僕は目を瞠った。


「お礼ですか」と言葉が僕の口からこぼれ落ちる。なぜか声が震えていた。

 しかし山里千里がそれに気づいた様子はなく、「そう」とあっさりとした言葉が返された。


「その、チケットをくれた人っていうのは」

「さぁ」

「さぁって」

「だって、よく知らない人だから。確か、文学部の吉田って男の人だったかな」


「大学の掲示板に貼ってあった印刷博物館のポスターを見てたらさ、ここ面白いとこだよって急に話しかけられてね。行ってみたい? って訊かれたから、気にはなりますねって答えたの。そしたら次の日、これくれて」と山里千里がなんて事はないように言葉を続ける。


 しかしなんて事がないのは山里千里だけであって、それを聞いた僕にとっては、全然なんて事のない言葉だった。


 よく知らない人から貰ったんですか、とか、そんな話初耳なんですが、とか、色々言いたい事が頭を巡るのに、何一つ口から出てこない。


 だって、それは、つまり、そういう事ではないか。見知らぬ女子学生に、男子学生が声をかけ、チケットを送る理由なんて、そんなものはただ一つしか考えられない。


 そこで僕は初めて気がついた。――山里千里の『何者か』になれる人間は、別に僕じゃなくてもいいという事に。


 腹の中のモヤが、大きく膨れあがった気がした。

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